一切を拒絶せよ。汝自身をも含めて。

    時代人の言葉   著者



詩の本質性について

  1 詩の矛盾性

 詩といふ藝術は、二つの矛盾した面を合せて、一つに統一したやうな藝術である。一方から見れば、詩は文学中での最も素朴的、原始発生的のものであつて、すべての散文の前に生れ、人間心理の単純な情緒や嘆息やを、自然人のナイーヴな心で自由に歌ふ文学であつた。詩は発生学的にさうで「あつた」ばかりでなく、不易の本質上に於てもさうであり、常に文学中での最もナイーヴなもの、自然人的なもの、素朴な野蛮主義的のものを表象して居る。然るにまた、これを一方から観察すると、詩は文学中での最も技巧的、純アート的の藝術であり、すべての散文の終るところに、その最高の藝術形態を規範してゐる。この点から立言すると、詩は文学中での純藝術派で、すべての素朴的なもの、自然発生的のものに対蹠してる文学である。故に詩人の中には、常にこの二人の対蹠人(文化人と自然人、藝術人と素朴人)とが同時に一人の性格中で、矛盾の構成する座を占めてる。詩の本質は矛盾であり、その矛盾性が多いほど、詩人は天才に近づくのである。
 それ故に詩を考へる場合には、常に相反する側の矛盾性を、相互に対照的に考察しながら、左右に目をくばらなければならないのである。もしこの対比を怠り、一方についてのみ思想する時、詩は素朴的バーバリズムの非藝術に没落するか、もしくはまたその反対に、精神なき形態観念の遊戯文学に転落する。(民衆派等の自由詩はこの前の墜落の一例であり、最近詩壇の形態詩派やポエジイ詩派やは、この後の転落の一例である。)

    2 自由と約束

 素朴的なものは、詩情する精神の中に存在する。詩人はすべての人間中での、最もナイーグなもの、子供らしきものの存在である。大人らしき心は、既に詩を離れた散文人に属して居る。子供だけが詩を作り得る。これは真理である。
 しかしながら同時にまた、素朴人は詩を藝術し得ないのである。なぜなら詩の藝術形態は、言葉の文化的神経とデリカに結合してゐるからである。詩人が子供であるといふ言葉は、彼が充分に成熟したところの、文化人であるといふことを前提とする。
 すべての詩精神は自由を求める。なぜなら詩は感情の表出であり、そして感情するといふことは、日常性の不自由から、心の解放されることの情態だから、すぺての詩精神は、本質的に皆リベラリズムに立脚してゐる。そして詩人等のエスプリは、本質的に皆アナアキスチックである。しかしながら詩藝術は、必然的にフォルムとメソッドを要求する。散文的自由主義といふことは、詩の藝術性の中に存在しない。詩はすべての文学中で、最も約束の多い藝術である。韻律と、ラインと、イメーヂと、てにをはと、それからあらゆる言葉の約束とが、詩の形態に於て規定されてる。詩は一つの「法律」である。何人も、その法律を知らない限り、詩を理解することができないし、自らまた、詩を藝術することもできないのである。
 それ故にすべての詩人は、素質上の自由主義者であつて、同時に藝術上のフォルマリストである。最もお行儀の悪い野性人と、最も穏節の正しい文化人とが、いつも詩人の魂の中で対坐してゐる。第一流の詩人たちは、常に最も情熱的なロマンチストで、同時に最もレアリスチックな知性人であつた。


      3  詩人のイロニイ

 詩人の言ふことは真資である。そしてまた当にならない。なぜなら詩人といふ性格は、矛盾によつて対坐してゐる、一の弁証論的性格だから。詩人の表現するすべての言葉は、本質上に於て皆逆説である。イロニイとパラドックスとを理解し得ない人々は、詩と詩人を理解し得ない人々である。
 詩人は手品師と同じである。彼がその左手を観客に見せる時、種をその右手の中に隠して居る。

      4  詩が歌はうとするもの

 詩が実に歌はうと欲するものは、単なる素朴的の感情ではない。詩が真に意欲する表現は、ただ一つの「美しきもの」 でしかない。詩の目的は、「美」を表現することの外になく、「美」が 「一切のもの」なのである。
 或る多くの詩人たちは、この点で至極お粗末の誤謬をして居る。即ち彼等は、詩の目的性を、感情の表出において居るのである。感情の表出といふことは、詩作に於ける主観上の「動機」であつて、詩藝術に於ける「目的」ではない。詩人が詩を藝術するといふことは、動物が怒つて吠えたり、赤児が飢ゑて泣いたりするやうなこと、即ち単なる生理的情緒の表出ではない。詩の表現にあつては、何よりも第一に、「酔」が求められて居るのである。詩人は「酔」を求めて詩を作り、詩の読者もまた、その「酔」を求めて読んでるのである。そして人を酔はすところのすべてのものは、それ自ら「美しきもの」の本体なのだ。
 自由詩以来、日本の詩壇はこの藝術常識を忘れて居た。そして多くの詩人たちが、単なる素朴的感情の表出を以て、詩藝術であるやうに妄想した。そこで彼等の文学は、粗野な政談演説的の絶叫だつたり、赤児の泣声のやうな悲鳴だつたり、動物的なパッショネートのものだつたりした。それは読者に雑音的な不快さや苛立たしさだけを感じさせた。そして少しも快美な陶酔をあたへなかつた。即ちそれは藝術品の詩でなくして、素朴な生理的情緒の表出にしかすぎなかつた。

        5  美への追求者

 詩人とは、単なる素朴的な感情家や、バッショネートな主観人を意味するのではない。詩人がもしそんな意味の詩人だつたら、獅子や虎やの動物 ― パッショネートの純粋感情によつてのみ、常に行動してゐる者共 ― は、人間にまさる詩人と言はねばならなくなる。
 詩人とは、すべての日常的な感情と生活とを、楽しく美しいものに変化し、雑音をハモニイの諧音に変へ、日常性を超現実のイデアに夢みることに於て、彼の熱情とテクニックを持つところの人を言ふのである。即ち言へば、詩人とは「美」への追求者を言ふのである。詩人は最も不幸な境遇に居る時でも、表現に於て常に「悦び」をもち、美の陶酔に溺れることができるのである。悲しい詩といふものは存在する。しかし楽しくない詩といふものは存在しない。詩にあつては、すべての悲しみがまた楽しいのである。
 心の強い痛手を負つた或る詩人が、その生活的打撃にひどく疲れて、作品の書けないことを訴へた時、ゲーテは聡明にもはつきり言つた。その痛手の中に悦びを見、不幸な生活を楽しく変化させることを知らないやうな人間は、真の詩人とは言ひ得ないと。真の詩人は、いかなる場合に於ても人生の魔術師である。彼等は何物をも美化することができるのである。「詩人は彼の最も上機嫌の日に、最も憂鬱厭世の詩を書く。」とニイチェが言つたのも、同じ真理をイロニックに言つたのである。すべての厭世詩人は、その厭世詩人の中に魂の悦楽を所有して居る。厭世詩人が自殺するのは、しまひの自殺だけが蛇足である。

       6  酔のない酒

 詩人が自ら酔はないで、どうして読者を酔はすことができようか。日本の詩人は、自然主義の文学論に愚昧されて、口語自由詩以来、自ら酔ふことを止めてしまつた。そこで事実上、日本には詩といふ文学が亡びてしまつた。そもそもどんな読者が、酔のない詩などを読むだらうか。ボードレエルの教へる通り、詩人の仕事は、絶えず何物かに酔を求め、不断に酔つぱらつて居ることの人生にある。

       7  美とフォルム

 すべての美しいものは諧音的である。そして諧音的なすべてのものは、必ず本質上に楽典的のメソッドと形態とがある。(ミューズは秩序を好む。)詩が本来自由主義の放縦な精神に出発しながら、藝術上に於て避けがたく形態主義に結ばれるのは、それが美を意欲して居るからである。そこで詩がもし美を意欲しない場合があるとしたら、その文学は必ず散文的自由主義に解体する。日本のいはゆる自由詩といふものが、その最も好適な実例であつた。彼等の詩人は、詩の目的性を美に求めないで、素朴的な感情の自然主義的表出に求めた。馬鹿馬鹿しいことの限りであるが、初めからそれは「詩」で無かつたのだ。

        8  フォルマリストの錯誤

 詩のフォルムの本質すべき諧音性は、元来「時間上」の観念に属するもので「空間上」の観念に有るものではない。然るに詩壇のいはゆるフォルマリスト等は、この時間上の実在性を空間上に翻訳し、幾何学的メカニカルに考察した。即ち彼等は、ベルグソン以前の誤謬観念を犯したのである。ベルグソンの教へた真理は、常識の考へる時間といふものが、空間上に翻訳された虚偽の時間であり、妄想的な誤謬観念であるといふことだつた。(註、参照)まことにベルグソンの言ふ通り、人間の理智といふものは、すべての時間的なものを、必ず空間的に翻訳し、持続する意識の流れを、固定的、空間的の形態に変化させる。詩壇のいはゆるフォルマリストや韻律論者が、この同じ誤謬を犯してゐるのである。なぜなら彼等は、本来時間的、持続的であるところの詩語や韻律を、空間的の形態観念に翻訳して、幾何学図式に解説してゐるからである。彼等のフォルマリズムや韻律論が、実際に於て一つの単なる「図式」にすぎず、何等真の韻律的諧音性を持たないのは、その思想の根拠に於て、かうした妄錯があるからである。
 詩は本来上に於て、たしかにフォルマリズムの藝術である。しかし詩のフォルムは、純粋持続の時間性にのみ存して居る。これを空間上に翻訳したものは、却つて詩を喪失させる虚偽のフォルマリズムに外ならない。真に詩の諧音する本質のフォルムを知る為には、ベルグソンの教へる如く、純粋時間の実相に於て、これを全体から直覚するより外にないのだ。そしてまた我々は、実際にこの仕方で、古来から詩の価値性を批判して来た。即ち真に詩としての善き韻律性や形態性を持つたものは、何等これを空間上に分析して考へないでも、一読して直感的にそれが知覚されるのである。そしてしかも、その直感には誤謬がないのだ。

* 我々は例へば、一時間といふ時間の長さを考へる時、これを頭脳の中で、A点からB点の距離にしたり、或は時計の指示盤の空間距離にしたりして考へる。然るに真の時間といふものは、そんな客間距離に翻訳されたものではない。真の時間は純粋の持続である。それは直観によつてのみ把握される。ベルグソン。

        9  詩と大衆性

 詩は大衆から最も遠い所に居り、同時にまた最も近い所に居る文学である。民衆は、何物にもまして詩を悦ぶ。なぜなら詩は、音楽と共に、藝術中での最も強い「酔」をあたへるから。そして民衆は、常にアルコールの含有量によつてのみ、藝術の価値を批判するから。しかしながら民衆は、散文の表現を理解し得て、詩の表現を理解し得ない。彼等の官能は粗野であつて、藝術形態のデリカのものを嗅ぎ得ない。現実の社会にあつては、とりつきの易い散文と、詩の粗悪品の火酒だけが、大衆を安価に酔はして居るのである。しかしながら「時」が、自然に大衆を教育する。未来に於ては、いつでも今日の高級的藝術品が、大衆の普遍的通俗品になるのである。ボードレエルがさうであるし、ハイネやゲーテがさうであつたし、石川啄木や北原白秋の歌がさうであつた。
 現実に於ても、決して必ずしも詩は大衆から離れて居ない。日本の歌人や俳句やは、文壇のジャーナリズムと没交渉に、全く大衆を直接読者として生活して居る。彼等の文学の愛読者等は、文壇小説の読者に数十倍して、殆んど通俗小説の読者に次いで居るのである。そして芭蕉の読者は、その生前に於てさへも、遙かに同時代の散文学の読者をしのいだ。詩が民衆から最も遠く、そして同時に、最も民衆に近い藝術であるといふことは、芭蕉に於て完全に証明されるのである。
 今日の自由詩だけが、しかしながら、民衆から見捨てられてる。なぜなら彼等のポエジイには、本質的に美の悦楽がなく、アルコールを欠乏して居るからである。民衆は決して、酔のない詩を読まうとしない。それは「現在に於て」読まれないばかりでなく、「未来に於て」も、永遠に大衆から読まれないだらう。

         10  詩術 (嘘と真実)

 「詩術」とは、読者を楽しませることの術である。そのためにこそ、藝衝はすべてのトリックを使用する。嘘をついたり、誇張したり、吃驚させたり、戦慄させたり、色仕掛けで悦ばせたり、不意打ちを食はせたり、空の魔法箱の中から色々の品物を取り出して見せたりする。
 詩術とは、読者をペテンにかけることの技術であり、その限りの意味に於て、すべての書き詩人はペテン師である。詩術を持たないところの詩人は、花の咲かない花樹と同じく、無意味で退屈なものにすぎない。なぜなら彼等は、読者を楽しませることを知らないから。そして楽しみのないところの詩は、本質に於て詩藝術でないからである。
 しかしながら、ポエジイ(詩精神そのもの)はトリックでない。詩人が詩を思ふ心は、まことに切々たる熱意であり、自己表現への焦躁である。詩精神そのものは遊戯でない。「遊び」は藝術の ART にあつて HEART にない。詩情するところの精神は、永遠のヒューマニズムに本質してゐる。ヒューマニチィを離れて詩はないのである。
 詩人は常に真面目である。しかしながら詩藝術は、常に子供と同じく遊戯を好み、無邪気な嘘言つきをさへ好むのである。「すべての詩は嘘言である。しかしながらまた、すべての詩は真実である。」と、ジャン・コクトオがこれを言つてる。嘘言をさへつけないやうな、低能な詩人は無価値であり、真実(ほんと)だに言へないやうな、熱意(モラル)のない詩人は似而非物である。

           11  詩と行動

 詩人は熱情家に非ず、単に彼等は、熱情にあこがれるところの人物に過ぎない、とニイチェが言つてるが、まことにその通りであるかも知れない。真の「熱情家」と、「熱情にあこがれる人」との相違は、実の金持ちと、金を欲しがつてる人との如く距つて居る。真の熱情家は詩人でなくして、事業家や、政治家や、相場師や、冒険家や、戦争をしたがる軍人等やである。彼等こそは真の熱情的人間であり、人生を不断の行動によつて追求して居る。詩人といふ人種は、此等の「行動人」から最も遠い距離に居るところの、非熱情的、非行動的の人種である。しかもまた彼等は、それらの熱情や行動やを、最も強く意欲し、イデアにあこがれて居る人種なのだ。
 それ故にこそ、詩人は常にまた永久に退屈するのだ。彼等は行動を意欲してゐる。そしてしかも、自ら何事の行動もできないのだ。そこで詩人の人生は、夢の中で焦燥しながら、絶えず退屈に悩まされてる。ラムボオはその運命に腹を立て、癇癪をおこして詩と告別し、自ら身を以て行動人の群に入つて行つた。ハイネも一度はそれを考へ、社会主義の政治運動に投じたけれども、詩人であるところの彼の弱身が、遂に行動人たることを抑圧した。詩人が行動人になる以上は、もはや詩を作ることができないのである。ラムボオは完全に詩と告別した。然るにハイネは未練がましく、行動人である時でさへも詩を思つた。ハイネの方が詩人であつた。しかしながらラムボオこそは、詩人のイデアする英雄だつた。
 すべての熱情は、生活意欲のエネルギイ過剰である。然るに詩人は、原則としてエネルギストでないのである。詩人は「薄弱のもの」にすぎない。彼等はただ熱情にあこがれ、熱情を夢みるところの病人である。詩人が歌へることは何事でもない。「神よ。我に熱情を与へ給へ。強き人生を与へ給へ。アメン。」の言葉につきるのである。