春山行夫君に答へて詩の本質を論ず
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春山行夫君は、「セルパン」三月競で「或る詩人に輿ふ」といふ一文を書き、僕を椰輸的に攻撃して居る。
春山君によれば、僕は進歩の止つてしまつた詩人であつて、詩論家としての新しい饅展や創造が少しもなく、
流動性のない固晒の頑迷人だといふのである。反封に春山君自身は、流動する新しい時代を代表するところの、
創造的意義を持つた進歩の詩人だと言ふのである。そこで詩壇には「萩原朔太郎的」と「春山行夫的」との二
系統が封立するので、前者はその常識的、保守的の為に大衆に歓迎され、後者はその革新的、創造的の思想の
為に、大衆から理解されず、悲壮な孤濁の地位に立たされるのだと言ふ。つい最近まで、詩壇の流行兄として
大衆にかつぎあげられ、得意で大言壮語した春山君が、今日自ら孤高の詩人を以モ任じ、かつての僕と地位を
換へたやうなことを言ふのは、まことに不思議な世の中といふ感じがする。
僕は最近、春山君とはしばしば逢ふ横合があり、逢へば、常に快談笑語して別れるので、胸中一鮎の私情を
もはさまない伸であるが、詩論のことは天下の公論であるから、あくまで堂々と應戦して、正邪を争はなけれ
ばならないのである。僕の詩論に「進歩性」が無いといふこと、頑迷固随であるといふことは、春山君はかり
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でなく、その同じ系統をひいた一部の詩論家諸君が、しばしば僕に封しで言ふことである.之に対して僕は、
最近「四季」二月翫に叫文を書き(我れは伶悔いて恨みず)自分の抱負と信念がある所を明らかにしたが、更に
その具饅的な意味を詳述しょう。
すべての現象や思想には、元来「本質的」な部分と「属性的」な部分とがある。古来多くの哲寧者は、これ
を本鰹と属性、もしくは賓在と現象といふやうな言葉で説明してゐるが、芭蕉はこれを文学上に所説して、不
易性と流行性との相封観念で解説して居る。すべての詩や文学やは、時代世相の流行推移と文化の攣遷敬達と
によつて、その文畢の風貌や趣味性を襲化する。しかし人間性の苦悩や眞賓を描き出すところの、文孝そのも
のの本質は不易であり、萬世を通じて一貫するといふのである。それからして芭蕉は、不易に本質して流行に
準ずることを、書き文学の正道として弟子に教へた。
僕の詩人としての過去の生活、及び詩論家としての歩いた道も、正に全く芭蕉の教へた通りであつた。本質
上の問題に関する限り、僕は頑として不易の正論を守つたけれども、展性的の文畢や詩論上では、常に流行を
迫つて攣化して来た。創作上に於ても、思想上に於ても、僕はすくなくとも過去に三度以上の襲化をして居る。
それ故自分の詩集に序して、「欒化は詩人の生命である」と公言した。また「欒化のない詩人は死滅である」
とも書いた。おそらく過去の詩壇で、僕ぐらゐ著るしく攣化した人はないであらう。畢に詩ばかりでなく、そ
れに準じて思想(詩論)もまた常に攣化と流動を繰返して来た。ベルグソンやニイチェによつて指導精神を受
けた僕は、欒化や流動のない物質的固定の宇宙を考へられない。僕はダルヰン流の 「進歩」といふ観念を香定
する。しかしベルグソン流な創造的進化を信ずる僕は、常に持績と流動の中に生活して居る。もし「頑迷固
階」といふ言葉が、欒化のない思想や人生を意味するならば、僕は全くその反対の存在である。
しかしながら僕は、詩の本質すべき第一原理のエスプリでは、昔から少しの攣北もなく、終始一貫して純正
〃ク 詩人の使命
過
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抒情詩の本道を歩いて来た。攣化したものはただその言葉、情想、趣味、一スタイル、構成意匠等の風貌(展性
要素)にしか過ぎないのである。詩論上に於ても同じことで、ポエヂイの純正な本質を高く支持して、常に終
始一貫して論じて衆た。ただその思想の展性的、分科的の部分に於てのみ、時々に紳澄の方式を攣化して来た。
そこでこの属性的な欒化のみを、僕の思想について見る人たちからは、過去にしばしば僕の詩論が、無定見な
攣節をする浮薄なる先走りとして非難された。。一方の人々は、僕を「頑迷固階」と呼んで非難し、一方の人々
は、反封に僕を「無定見の欒節者」と言ふ。昔から今日まで、僕は常に正反対の観察者によつて、常に正反対
の矛盾で非難され績けて衆た。そして今日最近、漸く少し僕の正常の理解者が、詩壇の新しいインテリに現は
れかかつて来たのである。
詩といふ文学の本質は、所詮するに「感情の直接法的表現」といふ定義に重きる。すぺての書き詩とは、言
葉の直接な感性と電波によつて、文字から直ちに讃者の胸線に鰯れ、非日常的な意志の高揚や、情緒の深い吐
息やを感じさせる文学を言ふのである。詩の展性的な外貌や趣味性やは、時代の文化情操の推移につれて、常
に新しく欒化するけれども、この一つの根本的な本質だけは、希腹支那の上古詩から、今日二十世紀の現代詩
に至る迄、決して攣化し得ない不易性である。もしそれが詩に失はれ、文牢としての本質を欒化する場合があ
つたら、もはやそれは言葉の正常な意味に於て、決して「詩」といふぺき文学に属しないのだ。たとへそれが
二十世紀の最も新しい流行文拳であるとしても、畢尭「詩」と呼ぶぺきジャンルあ文学には属しないのだ。
然るに春山行夫君等の詩論精神には、往々にしてこの詩の不易性を香定し、詩の本質すべき良心を抹殺しょ
うとする傾向が見えるので、特に僕が撃を大きくして、その邪説たる所以を反覆して説くのである。もし春山
君等の詩論が、詩の不易的な本質精神と関係なく、畢にその展性的な流行性の部分に関して、新時代的なオリ
ヂナルの見鮮を述ぺ、現代詩の新しいフォルムや構想やを説くに止まるのだつたら、僕はいつも君の教室に出
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を裁かう0最近春山君の新著「花史郎ギ軒←を一憲舟凄鰍魂ぎと−敷取碓
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鮮萌さとに感心し海野僕は上州人の性来する気質として、私情的には全く情淡無頓着で、胸中耕一物のこだは
りもなく執念もない。僕は眞正の聾者と同じく、常に「異質」のみを追求し、正理の前に叩頭して、不義の前
にのみ公憤する。個人的の私情に関して全く無神経にすぎる僕は、敵の正論を認める場合、いつも虚然として
敵の前に叩頭し、昨日の敵を今日の親友として交際し、或は先生として師事するのである。春山君の説にして、
もし僕の無智を啓蒙するところがあれば、いつでも悦んで聴くのである。しかし僕の見る所で、君の詩論は本
質精神に於て誤つてゐる。断じて許しがたく破邪せねばならないのである。
春山君は主知主義を構導してゐる。それは今日の日本詩壇で、大いに有意義なことである。といふわけは今
日の日本詩壇で、この種のインテリが最も貧困して居るからである。詩といふ文寧の本質が、畢責感情の直接
的表現にあることは前に述ぺた。しかし文学が感情を抒するといふことは、知性の最も幽玄でデリケートな才
能を要する仕事である。文学に於ける「抒情」といふことは、子供の哀泣や野獣の鳴競とちがふのである。
「私の心は悲しみに裂けるやうです。ほんとにほんとに。記者棟、どうしたら好いか敦へて下さい。」といふや
ぅな女性相談の讃者の饗は、たとへ血を吐くやうな質感の訴へであつたとしても、決して蜃衝品としての詩に
ならないのである。なぜなら讃者はその言葉から、少しも自己の胸琴に滴れるところの、情緒の震動を感ずる
ことができないからだ。自己の感情を他人に文字で俸へるためには、その心緒のあらゆる微妙な現象的書相を、
科学者の如く知性の観照に映し出して、これを言葉の表象する音韻、抑揚、イメーヂ、てにをは、及び語の修
射的構成等の上に再現しなければならないのだ。そしてこれが賓術の天才と呼ばれる「知能」なのだ。
所で過去のいはゆる自由詩が横行した詩壇には、この肝心のインテリが無かつたのだ。人々はただ野獣のや
ぅに鳴親したり、無智な女のやうに哀泣したりして、これを素朴な言葉で散文的に書き散らし、笑止にも自ら
〃ノ 詩人の使命
詩奉術だと思つて居た0地方の政談演説合には、今でも璧日の自由薫壮士のやうな将士が居て、何の深い所説
もなく思想もなく、単に狂熱的な感激性から、公衆をアヂることを職としてゐる人々がある。かういふのを文
筆上でセンチメンタリズムと言ふのである0そして日本のいはゆる自由詩と稗する文学が、概ね皆この種のセ
ンチインタリズムであつたのである0詩が「感情を抒する羞T」だといふことは、自然優生的な素朴な情緒を、
そのままパッショネートに饅想するといふことではない0詩は最旦良いインテリの知性を本質とする文学であ
り、その上に実のデリケートな譜音を節奏して、讃者の心に或る幽玄な悦びと楽しみとを輿へるところの、人
間知能の最も高い文化的情操の表現なのだ。
春山君等のポエヂイ運動は、過去のいはゆる自由詩を啓蒙して、かうした詩の文化的インテリ性を敦へるこ
とで、たしかに大きな功績をした0この意味に於て、僕は彼等のいはゆる知性主義に賛成し、その詩壇的運動
の意義を認める0すくなくとも、その提唱した知性主義は、日本の詩をセンチメンタリズム(情緒の素材的な
拳術表出)から救済した0しかし春山君等は、その知性主義を非理性的に演繹して、詩の本質たるりリシズム
やシンセリチイをさへ、抹殺しょうとしたのである0常時彼等二汲の或る詩人等は、りリシズムを「感傷」と
同字義に用賃排斥して居たが、りリシズムがもし感傷と同字義ならば、すぺての抒情詩の本質は皆感傷であ
り、感傷を離れて詩といふ文学はないことになる0他にもし別の物があるとすれば、それは日本のいはゆる似
而非シュル・レアリズム一汲が作つた如き、その本質に眞のポエヂイを持たない句三三の、頭脳の理智的工作
物にすぎないのである0そしてこんな文学は、決して「詩」と呼ぶことが出来ないのである。
近時の新しい建築家は、様々の攣つた様式で家を建てる0特に表現汲やキューピズムの建築法は、従来のそ
れと全く攣つた新様式で、殆んど崎形的に近い構造をする0しかしどんな新しい奇抜な家でも、建築畢の第叫
原理であるところの、重心とバランスの関係や、人間の居住に必須すべき客気と光線やの関係は、決して無硯
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るご軒のがあるとすれば、他の鮎の構想は如何にもあ包 決しで家ヨづ▼う頭題1題彗.Z
と呼ぶことができないのである。砂糖がもし甘味を、堕がもしその堕の味を失つたら、それはもはや鍵でもな
く砂糖でもない。「詩」がその本質的な文学的特色を喪失したら、それを詩と言ふことはできないのである0
もしそれを強ひて「詩」と主張するなら、これは明白に詭粁である。
春山君は僕の説を乾して、常識的で濁創性がなく、新しいポエヂイへの建設意義がないと言ふ。(それ故に
また大衆にもてるのだ」皇一日ふ。)僕は決して必ずしも、新しい建築の構想を難ずるのではない。ただ近時のい
はゆるモダン詩論が、むやみに反動的な新奇を迫ふ結果として、建築畢の第一原理を無線することを責めるの
である。彼等は砂糖から甘味を除いて、これを筒砂糖だと言ひ張ることに、そのロヂツタの詭粁的興味を悦ん
でるのだ。「砂糖は砂糖なり。盤に非ず。」「馬は馬なり。鹿に非ず。」馬を鹿と言ひくるめ、自を果と曲拝して、
世人を虚偽の迷妄に陥れた希騰の詭粁論者に対して、義人ソクラテスの正しく説いた眞理は、この一つの「平
凡な常識」に過ぎなかつた。しかもすべての新しい哲学と、正しい文化への歴史的蜃展は、このソクラテスの
啓蒙思想から生れたのだ。もし詭粁論者が横行したら、希騰の文化と哲学とは、常時に亡びる外なかつたのだ0
僕は決して人後に落ちず、新しいポエヂイの建設を熱望する。しかし詩の第一原理を香定し、ポエヂイその
ものの本質を抹殺しょうとする如き、詭持論者的無良心の新説には賛同できない。なぜなら、それは何等「新
● ● ● ● ● ● ● ●
しいポエヂイヘ」の建設運動でなくして、逆に却つて「ポエヂイそのもの」の香定運動であるからである0す
ぺての新奇と革新とは、建設精神の上に根接する場合にのみ意義がある。これが逆に破壊的香定精神に立つ場
合は、畢にニヒリスチックのダダイズムにしか過ぎないのである。ダダイズムは欧洲大戦後の欧洲、世界が全
く希望を失ひ、自暴自棄的な状態の中で生れた、一時のヒステリカルなヤケ酒だつた。そして彼等のダダイス
トが、後に皆シュル・レアリストに縛換したのも、昔時の欧洲に於てほ自然であつた。しかし今日現代の日本
〃j 詩人の使命
は、極めて若い文化と文学の後生期にある。特に詩の歴史は極めて浸く、今後に漸く正しい磯牙が、新しく生
育する時代にある0今日の日本の詩壇で、ダダイストやシュル・レアリストの模倣をし、自ら「二十世紀の詩
人」を気取つて居るのは、気障といふょりは愚劣であり、洋服を着た猿芝居の喜劇にすぎない。のみならず彼
等の主張は、漸く蜃生期にある日本の詩壇を、眞の健全な生育から害悪する。彼等は文化の花園から、青島と
して騒除されねばならないのである。
ダダイストは言つた0「眞の詩的精神は、詩を香定することにょつて生れる。」と。おょそかうした逆説は、
読者が逆説精神を持つてる限り眞理である。逆説精神とは、自己が言つてる言葉について、その裏面の深い意
味を、正しくエスプリしてゐる精神である○つまり言へば、眞の純粋な詩的精神を持つてるところの、眞の純
粋な詩人が言ふ場合に、かうした一切の言葉は眞賓である。しかしその純粋性を持たない似而非の詩人、自ら
眞のポエヂイを持たないやうな偶の詩人が、かうした説を栴へる場合、それは即ちソフイスト流の「詭攣に
なる0僕が春山君一汲の詩人に懐疑するのは、畢責彼等の場合に於て、それが「逆説」でなくして「詭粁」で
あることを見ぬくからだ。つまり彼等は、彼等が純粋な詩人であることから、詩的精神の逆説的過剰にょつて
言ふのでなく、反封に詩的精神の映乏から、彼等自身が詩を失ひ、プロゼツタに散文家化したことの自家梓護
から、それを主張することを貴めるのである0親鸞やキリストのやうな聖人が、悪人は善人に優るといふ時、
それは正しく逆説としての眞理である。だが本官の破廉恥漢や悪徳者やが、同じ号の言葉を言ふ場合に、それ
は明白の詭粁的自家締護で、承諾することは出来ないのである0欧洲のダダイストやシェル・レアリストの詩
人群と、その直辞詩孝を迫蹴する日本の詩人群との間には、すくなくともこの一つの本質的な相違がある。両
者の「言葉」は同じであつても、その賓際の「意味」は全くちがつて居るのである。
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春山君は僕を椰捻して、チャップリン的道化役者であり、ドン・キホーテ的喜劇人物だと言ふ。そして僕が
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三i.〉妄 ∴柑儀儲儲淵
務怒ど嘗ふ.粛は芋ついぷ考転も有るかも河咋
ない。なぜなら僕は、詩を論ずる場合に、何時もあまり眞面目すぎるから。そしてニイチェの言ふ通り、あま
り眞面目すぎるものは、眞面目すぎることによつて滑稽な感じをあたへるから。しかし僕の讃者は、僕が彼等
に「笑ひ」をあたへることによつて、僕を讃んでくれるのではない。春山君は一層ひどく極言して、僕を公園
の動物 − 彼等は自ら意識しない動作によつて、見物を笑はして居る。1に比喩してゐるが、おそらく僕の
讃者中で、僕を猛と同償侶に劣等硯し、それの侮辱的興味によつて喝采する如き人は一人も有るまい。ドン・
キホーテの生活は、たしかに公衆を笑殺する。そしてまた、或る種の憐憫をさへ感じさせる。しかしドン・キ
ホーテに対して、劣等感的軽蔑を抱く人は、すくなくともインテリの中に一人も無からう。もしそんな人が有
るとすれば、彼は文学者の悲劇とその生活とを理解し得ず、詩的精神の一片すらも持たないところの俗物であ
る。僕がもしその意味での喜劇人物であるとすれば、トルストイもニイチェも、キリストもソクラテスも、す
ぺてのシンセリチイを持つた義人と文学者とは、悪くパンチ檜的喜劇人物に外ならない。
春山君の言ふ通り、僕の詩論は決して新奇な珍説でもなく、エ.ゴを強調する濁断的な新説でもない。僕はむ
しろだれも知つてる平凡な詩の原理を、平凡な常識で説いてるのである。しかもその平凡な詩の原理が、今の
日本の詩壇からは、しばしば濁断とさへ言はれてゐるのだ。それほど現時の日本詩壇は、健全な認識に映乏し
て、無良心的な詭将にあやまられてゐるのである。詩論家としての僕の悲哀は、自ら自説を常識と意識しなが
ら、しかもその「常識」を強く主張しなければならないほど、児戯の稚態と虚偽の迷妄に充たされてゐる、詩
壇の恋しき現状を見ることにある。ゲーテやボードレエルが言つてるやうに、詩人は何時の時代にも啓蒙家で
あり、啓蒙家であるのが宿命である。しかし今日の日本のやうに、詩人が啓蒙家としての天職と宿命とを、強
く悲痛に感じさせられることはない。
〃∫ 詩人の使命
拳山君や北川君等の∴はゆる新教豊還軌やポ芸イ運動やも、やはり現詩壇に於ける一つの啓蒙思潮で
あつた0その限りに於て、僕は諸君の詩人的功績を充分に認めて居る○しかしそれは前言ふ通り、単に「香定
のための香定」であり、ダダイズムと同じく建設精紳を持たない啓蒙だつた0それ故に北川君や三好君やは、
早く既にその虚妄を自覚して主張を退いてしまつたのに、濁り伺春山君だけが後に居残り、頑としてその虚妄
を強挿し、ために自覚した公衆から見離されて孤濁で居るのは、君こそまことにドン・キホーテ的悲壮な滑稽
人物と言はねばならない0両度繰返して言ふ0ソフイスト的の奇説や「新しさ」は、一時的に人の好奇心を悦
ばす以外、何の未来的創造をも所有しない0眞の未来的創造を有する思想は、正しい建設精神を根接としてゐ
るところの、ソクラテス的の啓蒙思想なのである0未来の日本の●新しい詩は、春山君のいはゆる「二十世紀
的」なモダン詩寧、無から有を生ずるやうな超飛躍的、超創造的な詩畢にょつて建設されるか、もしくは春山
君のいはゆる→常識的」「非創造的」「十九世紀的」であるところの、僕の正しい現質的な詩論にょつて啓蜃さ
れるか0あへてこれを後世の詩史に賓澄したいのである。
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