俳句の本質について



■E..FEF卜♭.

Z瀾領)
Z瀾凋」召→)一−i
 僕等の日本人にとつて、俳句は阿片のやうな誘惑である〇一たんその味をおぼえ出したら、ぬきさしならず
引きずり込まれて、肌身についた俸統の詩魔に魅せられ、一切の積極的行動意識を無くしてしまふ0谷崎潤一
郎氏は、かつてある随筆中で、過去に自分は、成るべく日本の物を見ないやうに、故意に目を閉ぢて避けて来
た。なぜならそれによつて、侍統の精神に引き込まれることが恐ろしいから、と書いて居たが、僕等も全くそ
の通りであつた。僕等の新しい文学者が、明治以来目標しっづけて来た一つの理念は、日本の過去の俸統に薮
逆して、僕等の新しい文蜃を建設し、世界線↓に進出して行くことであつた0そしてこの勇気を呼び起すため、
常に「汝の暖かい寝床を蹴れ! 惰眠から醒めて戦へ」といふ軍歌が、文壇のスローガンとして叫ばれて衆た0
明治以来の日本文寧史は、賓際「俸統への抗争」だつた0しかしながらこの抗争は、事資上には常に敗北を
繰返した。詩歌も小説も、初めは反俸統主義を掲げて旗↓げしながら、後には何時のまにかまた俸統の中に解
滑した。「日の下に新しきもの有ることなし」といふ、俸道の書の虚無思想は、我等の文壇に於てつくづくと
鰹験された。たしかに、人間は習性の動物である〇一たんは勇ましく、住み馴れた古巣を捨て、寝床を蹴つて
立つた人も、しばらくしてまた何時のまにか、元の暖かい痕床に蹄り、日本人の身についた文学を書いてるの
2∫6
である9
 文学の新しい進歩性を思惟する限り、日本の俸統の物に接することは、たしかに僕等にとつて危険である。
谷崎氏の言ふ通り、それは僕等の戦闘意識を失はせる。しかし就中、俳句は最も危険である。なぜなら俳句は、
侍統文畢の中での、俸統精神を最も多く持つた文学であり、普通に「日本的」と言はれる意味での、日本的感
性に最も富んだ詩歌であるから。つまり言へば俳句は、日本人にとつて最も習性的の寝床であり、一たんそれ
に入つた以上は、再度起きることが物偉くなるほど、身についた暖かい寝床なのだ。過去の日本の多くの文学、
特に例へば自然主義の小説なども、初めはゾラやモーパッサンに出費したが、後には全く日本の俸統精神に辟
燈して、いはゆる心境小説や身遽小説になつてしまつた。そしてこの心境小説等のエスプリとなつてるものは、
全く「俳句的の感性」なのである。僕がかつて或る論文で、日本の自然主義は西洋十九世紀末文学の影響でな
く、ホトトギス汲の俳人によつて俸へられた馬生文や、そのいはゆる馬生主義の新しい展開だと書いたのも、
決して濁断でないと思ふのである。日本に自然主義的の文学はなかつた。ただ俳句的、馬生主義的の文挙が有
つたのみだ。
 日本の文聾者に、眞の詩的精神のないといふことが、しばしば文壇で論じられてる。たしかに日本の文学者
には、西洋風の意味の詩的精神がなく、西洋風のスタイルをした詩人が居ない。しかし日本の文学者は、日本
風の意味の詩的精神、即ち俳句のポエヂイを所有して居り、その限りに於てまた一種の「詩人」なのである。
このことの音澄は、徳田秋馨氏などの文畢について、最もよく理辞され得る。秋聾氏の小説には、西洋風の意
味での詩的精神がない。しかし俳句を詩と呼ぶ意味での、一種の国粋的の詩的精神がある。その意味に於て、
秋饗氏もまた詩人なのだ。
2∫ア 詩人の使命


 西洋の文化は、自我と非我とを封立させ、主観と客観、人間と自然とを、常に二元的の相封関係で見る。東
洋の文化、特に就中日本の文化は、この二元のものを一元に見、主観と客観とを融合して、自我の人間性を自
然の中に汲入する。西洋の文化は相対主義であり、日本の文化は紹封主義である。そしてこの絶封観を、特に
意識的に高調した文挙が、即ち俳句なのである。
                              イヒ
 俳句は決してエゴを書かない。俳句に於ては、私の主観人が常に客観と融合して、自然の風物描篤となつて
るのである。自我と非我、主観と客観、人間と自然との封立関係は、俳句に於ては全くなく、すべてが一元に
統一融合されてるのである。そこで例へば、

  ゆ
  柚の花や床しき母屋の乾隅

と蕉村が歌ふ時、この自然の風物印象が、それ自ら蕪村自身の侍しい時間的郷愁になつてるのである。故に日
本の俳句には、支那の詩に見るやうな主観の悲憤憤慨もなく、西洋の詩に見るやうな作者のモラルや人生観も
ない。俳句はいはゆる「言あげせぬ」大和民族の文学であり、それの中に全鰹を自足してゐる抒情詩である。
                                        I琳

 日本語の映鮎は、韻律性に貧困してゐることである。日本語には拗音や促音がなく、母音と子音との組み合
せ関係が、極めて初等敷革的に単純である。その上にまた、言葉仝饅にメリハリがなく、アクセントや抑揚の
                                                           ヽ ヽ ヽ ヽ
節奏に妖乏してゐる。しかしながらまた日本語は、表象としての暗示性に富み、てにをはの使用が自由で、豊
なシムポリツタな聯恕を所有してゐる。そこで昔から日本の詩臣心軒の▲国語の▲長所を取ウ・義
8ん一「一′一→1
成るべく短かい詩形の中に、出来る限り豊富な内容を盛らうとした。短かい詩形を選んだのは、韻律の音柴位
に貧困してゐる日本語では、長い律語の反覆が退屈であり、詩の表現効果を窮めるこトを知つてたからだ0そ
こで人も知る如く、世界でいちばん短かい詩が日本に生れた。即ち和歌、俳句であつた。そして就中、俳句が
最も短かつた。それ故にまた、日本の詩として俳句が最も成功し、最も廣く民衆に親しまれた。けだし俳句ほ、
日本語の辟結すぺき、最後の究極的ポエヂイ形態であるだらう。
 俳句といふ文学は、一般に老年趣味の文寧と思惟されてる。そして全く、これは或る程度まで事資である。
なぜなら俳句は、宇宙を一元的に見て哲学する。そして物を一元的に見るといふことが、そもそも青年の態度
でないからである。青年は常に主観的であり、主観人としてのみ生活する。青年の見る客観は、常に主観に相
                                                                    イヒ
封する客観である。青年は常に情熱家であり、理想家であり、ロマンチシストである。彼等の絆澄には「私」
が強く、主我を一直線に押し通して行く。エゴを捨てて自然の静寂に汲入し、無我の俳句的心境に浸入するこ
とは、到底青年には出来ないのである。
 俳句は青年性の文学ではない。俳句はたしかに、無我の静寂を悦ぶ老年性の文学である。しかしながら俳句
が老年性の文学であるといふことは、俳句の詩人その人が、必ずしも情操の枯燥した老人だと言ふ意味ではな
い。すぺての書き詩人がさうである如く、俳句の書き詩人もまた、その心に「青年の魂」を持つた生活者でな
ければならぬ。たとへば芭蕉がさうであつた。芭蕉は主客一元の境地を説き、枯淡静寂の 「老」を至実の理想
と観じてゐた人であつたが、しかも彼は烈しい青年の菊塊を以て、時流の俳句を革命し、終生人生の理念を迫
喝■■「
2∫∂
2j夕 詩人の使命

つて、道路に漂泊してゐた情熱的のヒューマニストだつた。丁度あたかも、無為不善を唱へた老子や、本来無
一物を唱へた達磨やが、老の寂滅為楽を心境のイデアとしながら、賓際には思想的苦悶を績けた戦闘人であり、
不断に生活せ追求してゐたヒューマニストであつたやうに。
〃0
一茶の文学は、俳句としての異端である。なぜなら彼は、本来主客を一元成し、自我のエゴイズムの人間性
を、自然の中に融化投入すべき俳句に於て、さかんに「おらが」「おらが」を達優し、イヒの自我的主観を露
骨に主唱して居るからである。一茶は日本の俳人たるぺく、あまりに西洋臭く人間主義的の詩人であつた。
 輿謝帝村は、この鮎に於てずつと日本風の詩人であり、自然同北主義的の詩人1即ち本格的の俳人1で
あつた○しかし彼の趣味性は芭蕉に此して逸かに明るく、色彩が汲手やかで、青年性の夢とロマンスに富んで
居た。蕪村の旬が本質してゐるポエヂイは、「俺び」といふ一つの魂の郷愁だつた。それは芭蕉の「さび」に
似て、もつと人間的の生活情味を資質してゐた。
 芭蕉は超人主義の俳人であり、一茶は低人主義の俳人であり、蘇村はその中間に位置する俳人だつた。
                               州
 日本人の文寧、一般に言つて日本人の生活には、抽象観念が映乏して居る。そこで我々の文畢には、外国の
それが主題とするやうな思想内容(哲学や、人生観や、牡合意識や)が貧乏してゐる。日本の文学と文学者と
は、日常的な身遽生活からのみ、具饅的の感覚事質しか取材しない。それ故に日本の小説は、結局して皆「身
遽小説しに蹄締するし、日本の詩文畢は、所詮して皆「俳句」に轟きてしまふのである。
                                                                毒見瀾欄瀾瀾瀾遡
 甥句といふ文畢は、世界に放て最も感覚的、日常生活的、身連記事的のレアリズム抒竹諦である.西洋の寿
が、彗d靂や、眞理や、人彗を歌つてる時、濁り日本の俳句は洒然として、朝の味噛汁の匂を歌ひ、タ
ベの河豚鍋の味を質し、全く日常生活的の身遽些事を、純粋の趣味性で感覚的に表現してゐる。詩といふ文学
に封して、本来宗教的メタフィヂツタの尊厳感を抱いてる外人等にとつて、世界にこんな卑俗的の抒情詩があ
るといふことは、到底考へられない不思議であらう。
 日本の俳人といふ特殊の詩人は、彼等の皮膚のあらゆる部分に行き亙つて、鋭敏な解党神経をもつてる人種
である。日常生活に於て、彼等の環境する一切の刺激は、直ちにその感覚神経にふれて反映する。酢の味も、
味噌の匂も、足袋や着物の肌濁りも、人事一切の身遽起居が、悪く皆彼等の感覚に反映して詩となるのである0
特にまた彼等の反應神経は、外界自然の気温や杢気に封して敏感であり、魚顆や鳥類やと同じやうに、環境に
威する気象拳的の本能叡智を所有してゐる。賓に俳句といふ文学は、四季の欒化に於ける気象寧的記録を以て、
その特娩な文学的特色としてゐるほど、それほど徹底的に「雨蛙イズムの文学」である0
 それ故に、俳句を研究するといふことは、一面から論じて、日本の文学を気象寧的に研究するといふことで
もある。例へば、
 古池や蛙とび込む水の音

といふ句は、日本特有の潟東によつて、青く苔むした寺院の庭や、藻の花の浮ぶ漏地の古池やを、イメーヂす
ることによつてのみ理解され得る。気象寧的に事情がちがひ、そのイメーヂを浮べ得ない西洋人には、永遠に
理解することができない謎語なのだ。
朗J 詩人の使命

▼賢
  紙燭して廊下通るや五月雨

といふ蘇村の句は、梅雨時の潟東でぴたびたした日本の家1灰白い障子、反映する鼻、青臭い便所の匂、薄
暗い廊下、雨にぬれた庭の植込など − をイメーデすることなしに、句の情味を理鰐できない。石と金屋で出
来たコンクリートの家に住み、潟東のない園に生活してゐる西洋人には、かうした俳句の理解できる筈がない
のだ。
 資に俳句といふ抒情詩は、日本人の寮生活に於ける現質的環境と、日本の自然が気象してゐる現害的環境と
を、肉慣の感覚に於て不離に解党したところの文学であり、言はば、「肉鰹印自然」の一元的レアリズムの抒
情詩である。そして世界に、これほど徹底した現賓主義の詩文寧はない。

        ウ′

 日本の代表的な文壇小説や文壇随筆は、かうした俳句の日常性的レアリズムと、身速記事的レアリズムとを、
その主客一元の虚無的自然主義の美挙に於て遵奉し、そのままこれを散文の表現に叙述化したものに外ならな
いいすぺての西洋の文学や小説やが、そのエスプリを「詩」に琴冗する如く、すべての日本の文学は−小説
                                                ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
でも随筆でも−その本質的エスプリを「俳句」に還元されるのである。即ち爵は西洋文学のエッセンスであ
ヽ  ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
り、俳句は日本文寧のエッセンスである。
 西洋の文学者で、自ら詩を創作したり、詩を鑑賞したりしない文学者が一人もない如く、日本の文学者で、
多少すくなくとも俳句に関心を持たない文聾者は一人も居ない。前言ふ通り、日本の作家たちの中には、西洋
例の意味の詩碑紳をもつてるところの、西洋風の意味での詩人が極めてすくない。しかしながら彼等は、日本
2イ2
蒜祭郷芋†e蒜祭aあ派題
意鵜川爪驚/滅湘・÷滋卜驚∵チ′ バネ‘`
 俳句はたしかに、日本文畢の板心的なエスプリであり、日本の抒情詩の究極的なフォルムである。僕等は俳
句の蜃術的償値を高く認める。しかしながら今日、僕等はまた俳句への烈しい拒絶を意志するのである。なぜ
なら、日本の文学が俳句的である限りに於て、僕等の欲情する新時代の文蜃は、日本に蜃芽する見込みがない
からである。畢に文奉ばかりではない。日本人の生活が俳句的である以上、日本に眞の近代的文明がなく、西
洋を自家に績取して、世界線に進出建国する可能がないからである。
 僕等の時代の日本詩人瞥俳句からその自然主義の哲学を捨象して、よろしく単にそのレトリックのみを学
ぶぺきだ。そして命、さらに進んで俳句を西洋風の抒情詩に翻詳し、近代風の新しき目を以て鑑賞しなければ
ならないのだ。古人の古註によつて俳句を讃み、死したる俸統の文学として、俳句の国粋的特秩性を固守する
如きは、ヂレツタンチズムとして以外に無意味である。
         ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 再度言ふ。俳句は阿片である。その利用を知つて晋に溺れず、よくこれを自家の虞方に稀取して、腎療に使
用し得る人のみが、今日の日本に於て、正しき指導性をもつ文学者である。
   .阜、`1d月旬凋用瀾■彗
→・1。箋j.鴻川」川畑瀾凋一男
純粋詩としての囲詩
 欧洲の詩壇では、最近「純粋詩」といふことが提唱されてるさうである。人も知る通り、西洋の詩といふも
のは、俸統的に内容上の思想を重んじ、作者の人生観その他について、哲学の有無を重要硯する。それに形式
2イブ 詩人の使命

  1災竜怒j者、群小

  紙燭して廊下通るや五月雨

といふ蘇村の句は、梅雨時の潟東でびたびたした日本の家 − 灰白い障子、反映する畳、青臭い便所の匂、薄
暗い廊下、雨にぬれた庭の植込など − をイメーヂすることなしに、句の情味を理解できない。石と金屋で出
来たコンクリートの家に住み、潟東のない圃に生活してゐる西洋人には、かうした俳句の理解できる筈がない
のだ。
 音に俳句といふ抒情詩は、日本人の箕生活に於ける現質的環境と、日本の自然が気象してゐる現質的環境と
を、肉膿の感覚に於て不離に解党したところの文寧であり、言はば、「肉饅卵白然」の一元的レアリズムの抒
情詩である。そして世界に、これほど徹底した現賓主義の詩文挙はない。
2イ2
 日本の代表的な文壇小説や文壇随筆は、かうした俳句の日常性的レアリズムと、身連記事的レアリズムとを、
その主客一元の虚無的自然主義の美挙に於て遭奉し、そのままこれを散文の表現に叙述化したものに外ならな
い。すぺての西洋の文学や小説やが、そのエスプリを「詩」に還元する如く、すべての日本の文学は − 小説
                                                   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
でも随筆でも − その本質的エスプリを「俳句」に還元されるのである。即ち詩は西洋文学のエッセンスであ
ヽ  ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
り、俳句は日本文畢のエッセンスである。
 西洋の文学者で、自ら詩を創作したり、詩を鑑賞したりしない文畢者が一人もない如く、日本の文学者で、
多少すくなくとも俳句に関心を持たない文寧者は一人も居ない。前言ふ通り、日本の作家たちの中には、西洋
夙の意味の詩碑紳をもつてるところの、西洋凰の意味での詩人が極めてすくない。しかしながら彼等は、日本
▼賢
で観念されてる意味の詩精神、軒ち俳句精神を持つてるところの、特殊な別のジャンルの詩人なのである.
 俳句はたしかに、日本文畢の核心的なエスプリであり、日本の抒情詩の究極的なフォルムである。僕等は俳
句の蜃術的償値を高く認める。しかしながら今日、僕等はまた俳句への烈しい拒絶を意志するのである。なぜ
なら、日本の文学が俳句的である限りに於て、僕等の欲情する新時代の文奉は、日本に饅芽する見込みがない
からである。畢に文蜃ばかりではない。日本人の生活が俳句的である似上、日本に眞の近代的文明がなく、西
洋を自家に耗取して、世界線に進出建国する可能がないからである。
 僕等の時代の日本詩人瞥俳句からその自然主義の哲畢を捨象して、よろしく単にそのレトリックのみを学
ぶぺきだ。そして筒、さらに進んで俳句を西洋風の抒情詩に桝詳し、近代風の新しき目を以て鑑賞しなければ
ならないのだ。古人の古註によつて俳句を讃み、死したる俸統の文牢として、俳句の国粋的特挽性を固守する
如きは、ヂレツタンチズムとして以外に無意味である。
         ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 再度言ふ。俳句は阿片である。その利用を知つて音に溺れず、よくこれを自家の虞方に稀取して、瞥療に使
用し得る人のみが、今日の日本に於て、正しき指導性をもつ文学者である。
ご頴.一畑一
純粋詩としての園詩
 欧洲の詩壇では、最近「純粋詩」といふことが提唱されてるさうである。人も知る通り、西洋の詩といふも
のは、侍統的に内容上の思想を重んじ、作者の人生観その他について、哲学の有無を重要硯する。それに形式
24j 詩人の使命

上のレトリックでも、ダンヂイ風の形容詞を盛んに使ふ。例へば美人を響へるにも、「曙の茶園に吹いた薔薇
のやうな唇」とか「星のまたたきに似た果曜石の睦」とかいふ風に書く。外国詩壇の新しい傾向は、すぺてこ
の種の形容語を排斥し、且つ内容上でも、一切の思想的、替寧的なものを廃し、且つ叙事的な物語や記述を除
き、純粋に詩文寧の本質的なエスプリだけを抽出して、何の粉飾もなく形容もなく、簡明率直に書かうといふ
のである。つまり純粋詩の提唱は、抒情詩の中からすぺての散文寧的のものを除き、抒情詩をして眞の純粋の
抒情詩にしようといふのである。
 所でかうした「純粋詩」は、東洋に早くからその典型的の凌育した見本があつた。即ち二千年の昔に優生し
た日本の 「和歌」である。和歌には一切観念風の思想がなく、純粋に抒情詩的な本質だけを、りリシズムの生
の原質で表現してゐる。その上にも和歌のレトリックは素朴であり、粉飾的な形容や比喩が少しもなく、墨檜
風の簡明さで、心緒をそのまま率直に歌つて居る。しかもこの抒情詩は、蜃術として決して素朴のものでなく、
修鮮上にも、情操上にも、充分高償の文化的洗煉を経たるものであつて、西洋近代の新しい象徴詩などと比較
しても、肇術償俺に於て紹封に劣るものではない。むしろ日本の和歌は、西洋詩の歴史が未来に辟納するであ
らうところの、最後の蜃育した究極詩とも見らるぺき者である。
 この鮎から観察する時、すくなくとも日本の歴史は、抒情詩に於て西洋よりも早く饅達して居た。西洋がそ
の文化の最後に達したものを、日本は逆にその文化の最初に完成した。何故だらうか? これには立汲な理由
がある。即ち西洋の詩といふものは、希腹以来叙事詩から出教した。純粋の意味で抒情詩と言ふべきものが現
れたのは、ずつと遅く近世に入つてからである。サッフォの詩の如きは、資質的には物語詩に属すべき種類の
もので、今日の意味でいふ抒情詩には範疇されない。西洋で近代的な抒情詩が生れたのは、厳重な定義で十八
世紀以後だと言つても過言でない。然るにこれが日本では、反封に歴史の紀元と共に抒情詩が蜃育した。そし
二好4
習T

。.戚づ題ご−袖
て叙事詩と稗するものは、昔から今に至る迄、日本に全く現れて居ないのである。
 西洋と日本に於けるこの相違は、言ふ迄もなく図譜の本質的相違から来てゐるのである。西洋の言葉といふ
ものはT俳蘭西語でも、英語でも、ラテン語でも−すべて皆平伏や抑揚の欒化に富み、音楽的の韻律性に
豊富である。したがつて彼等の文学は、その歴史的な蜃生期に於て、自然に調子の好い韻文を選んで来る。ホ
ーマアの戦争詩ばかりでなく、その他の歴史や紳話の顆が、たいてい皆上古は韻文で書かれて居た。甚だしき
は哲畢上の簡文や議論の顆さへ」時℃は韻文の形式で書かれたのである。もし、「韻文」を無條件に「詩」‥と
呼ぶなら、西洋上古の文学は轟く皆詩であつた。
 これに反して日本の国語は、本質的に抑揚の襲化がすくなく、調律的の音欒性に映乏した言葉である。その
ため日本に於ては、叙事詩、物語詩は勿論のこと、一般に頚文の番芸日が見られなかつた。世界の神話といふ紳
藷が、すぺて皆韻文の詩形式で書かれて居る時、ひとり日本の神話である「古事記」だけが、例外にも散文で
嘗かれて居た。七だその中での「歌」、即ち純粋にリリカルな心緒を抒した部分だけが、多少節奏のある韻文
風な言葉で書かれた。しかしそれとてもまた、一定の萌律形態を持つたものではなく、散文の少しく抑揚のあ
る程度のもので、外国語の「報文」といふ語の範囲に入らないもの、言はば、散文詩といふ程のものに過ぎな
かつた。後世萬葉時代に移つてから、これが「短歌」や、「長歌」の形態となり、初めて漸く頚文らしい外見
を具へたけれども、外国の詩文に北すれば、これとても韻律的に甚だ貧困のものに過ぎなかつた0
 かうして韻律に貧困し、膚命的に萌文を所有し得なかつた日本人は、しかしながら決して「詩」に恵まれな
かつた園民ではなかつた。香、却つて我々の日本人は、そのことの為に純粋の詩人となり、世界に顆なき最高
の抒情詩を箇芸日させた。これは人類詩歌の歴史に於て、箕に不思議な事賓を語る逆説である〇一方で外園人は、
その葡律に恵まれた国語のために、ポエヂイの純粋なるべき本質性を、雑駁なる文孝的混乱の中に紛失させた0
lT.
詩人の使命
′ヽ■


彼等は言葉の口調好さから、韻律の車に乗つて懐古となり、議論も、演説も、神話も、歴史も、物語も、すぺ
て皆敢文の形式で書いてしまつた。然るにこの種の文学は、本質上から言つて「詩」と呼ぶことは出来ないの
である。詩は心に感動の浪が起り、主観の訴へるりリシズムが表現するとき、初めて賓に詩なのである。詩に
萌律や音繋が必要されるといふ理由も、畢なる形態のための形態ではなく、心の喚び起すリズムが、必然に言
葉の高揚した節奏を求めるからで、りリシズムは本来詩情の中に存するのである。
 然るに希腺以来の西洋人は、詩の成立に於けるこの第一原理を忘れて居た。彼等はリズムをポエヂイの中に
置かずに、それをポエヂイから引き離して、畢なる詩拳的形態の側に濁立させた。そこでいやしくも頚律を踏
み、萌文の形態で書いたすぺての者は、論文にまれ小説にまれ、一切皆「詩」といふ文筆概念に包括された。
即ち此虞に於て、「詩」が紛失してしまつたのである。西洋の詩壇が、この詩の紛失に初めて気附き、正しい
純粋詩の建設を求めたのは、漸く十八世紀末菓から、最近二十世紀にかけての新しい歴史である。即ち近代散
文畢の態達に伴ひ、叙事詩や物語詩やが散文の小説に株を奪はれ、次第にその詩の領域を狭めて来た時、ポオ
によつて、「眞に詩と言ふべきものは抒情詩の外になし。」と明言され、漸くにして此虞に近代詩への自覚へ向
つたのである。そして近代詩の意向は、それ自ら「純粋詩への意向」に外ならない。
 この新しい西洋の近代詩史が、日本では既に古く、二千飴年の国史開閑以来から連綿して来た。なぜなら我
我の日本人は、異に純粋なポエヂイを精神してゐる文寧以外、決して頚文で書くことが出来ないところの、国
語の決定された宿命に育つたからだ。我々の日本人は、心に主観の高い感動が起り、眞のりリシズムが高調さ
れた時にのみ、己みがたくその所謂「歌」を歌つた。それ故にまたこの場合には、言葉に自然的な節と抑揚が
っいたのである。即ち我々の場合に於て、リズムは常に詩情と一緒にあつた。我々の日本の詩人が、ボエデイ
を離れて濁立する形態の詩、即ち西洋詩畢の所謂「韻文畢」を考へることが出来ないのはこのためである。
朗∂
野「
日本に於
‘羞彗
て蜃生せず、また蜃生できないところの事情にあつた。外国人があらゆる雑多の文学を詩(鵡文)で書いてる
時、我々の日本人は、ただ一つの短かい抒情詩だけを守つて歌つて衆た。それが極めて短かい一呼吸的な詩で
あつたのも、本来鶴律要素の映乏してゐる日本語として、全く己むを得ない必然的の宿命だつた。抑揚に攣化
がすくなく、畢調で一本調子な言葉を使つて、西洋のやうな長い詩をしやぺられては、主客共芯退屈に耐へな
いことである。この鮎で日本の詩人は不幸であつた。しかしながら我々は、逆にまたその不幸を捧換して、世
界無比に含蓄の多く、意味の深い陰影と象徴に富んだ詩を創造した。
 西洋の文筆史上で、胡文といふ言葉を考へる時、古生紀の玉獣や大爬鹿瀬を聯想する。それは太古の歴史に
於て、地上の至るところに繁殖した王者であつた。それから次第に衰滅し、近代に於ては漸く線かにその子孫
を、一抒情詩の貧窮な小晰暢顆に見るのみとなつてしまつた。然るに日本の歴史では、最初から韻文と散文と
が改行的に封立して居た。西洋の近代史では「詩が散文に食はれた」のである。然るに日本では、詩と散文と
が本質的に別個であるから、互に食はれることもなく食ふこともない。二千飴年の歴史を通じて、和歌は俵然
として和歌であり、少しも散文によつて犯されてない。そしてこれは官然である。なぜなら日本の詩の歴史は、
初めから純一にポエヂイを本質してゐるところの、眞の純粋な本質的な詩、即ち抒情詩のみを守つて衆た。抒
情詩以外の詩、即ち「覇文で書いた物語」の顆は、ポオによつて眞の詩に非ずと言はれる迄もなく、日本では
文畢の本質上で、初めから散文の世界に戸薄させてた。
 このやうにして日本の詩人は、最近漸く西洋の詩人が辟指して衆た到着鮎1卜それが韻文といふ語の正しい
最後の種である1へ、逆に最初の出費鮎をスタートして来た。そして神代から「苗菓集」へ、「萬葉集」か
ら「古今集」、「新古今集」へと、歴史の長い文化を通じて俸統し、殆んどその究極にまで華術的洗煉の高い完
フイア 詩人の使命

実に到達した。しかもその日本の詩こそ、近代欧洲詩壇の意向する純粋詩であり、内容上にも修辞上にも、彼
等の新しい詩壇が意識する未来の者を、そのままイデアとして規範して居るるのである。自分はかつて詩集
「水島」の序文に於て、日本の和歌は西洋詩の辟癒する未来的イデアだと書いたが、阜わ意味もやはり此虞に
轟きてるのである。日本人が和歌を所有してゐることは、西洋人がホーマアやゲーテの詩をもつ以上に、世界
に自尊すぺき詩人的の診である。
2イβ
 グァレリイ等のいふ「純粋詩」の観念は、詩話からすぺての文章的意味を除き、言葉の音韻や普象だけを抽象した純粋
萌文、即ち音楽の中に一切の意味が轟くされ、音楽を離れてはナンセンスになるやうな詩を理念してゐる。然るにかうし
た純粋詩は、日本の昔の盲歌、特に小倉百人一首等によつて代表される、平安朝末期の歌に澤山あり、その規範的の者が
創作されて居るのである。著者の蕾著「樺愛名歌集」には、この種の歌(日本の純粋詩)を数多く引用し、音韻上での詳
しい註秤を叙ぺてる。讃者の参讃を乞ふ。
.蘇村論の註解として