現代と詩精神


御手紙を拝見しました0詩と詩楕紳について、貴女の提出された疑問は、私にとつてまことに興味深い問題
でした0なぜならそれは、一面に於て「この時代の苦悩」を語つてゐるからです。貴女の提出された疑問は、
おそらく今日の杜合に於て、大多数の若い男女青年が思惟するところの、通有性の疑問だと思ひますので、一
通り私の意見をお話したいと存じますO I≠
第一に貴女の疑問は、今日の融合に於て、詩が時代遅れの文学であり、無用の物だと言ふことでしたね。貴
女の意味が、もし詩のプラグマチカルな費用償俺を問ふのでしたら、私もまた貴女と同じく、それが「無用の
物」であることを骨定しませう。しかし人間文化の第一原理は、いつもその無用の物に根操して居り、すべて
の鉦禽の靡展は、解用の用に動力されて居るのです。無用の物は、畢に詩ばかりではありません。美術も、音
鶉も、小籠も、それから伶科挙の棉和も、すべての文化の本質的原動力は、直接に利用償値のない美や葬理の
探求から、如ち無用の用から蜃生して居るのです。「先生と言はれるほどの馬鹿でなし」といふ言粟がありま
すが、その同じ意味に於て、「詩人」といふ言葉がしばしば諷刺的に使はれて居ます。人がロ遽に微笑を浮ぺ
て「あいつは詩人だから」といふ場合、それは非現質的の夢想家、世間知らずの坊ちやん、間抜け、薄馬鹿、
お人好し、等々の意味を帯びた軽蔑語で、要するに「賓利償値のない人間」といふことを、イロニカルに言つ
てるのです。しかしその資利償値のない馬鹿の人間、現寛政合の功利上で、何一つ役に立たないやうな夢想家
の「先生」たちが、飛行機を饅明したり、汽車といふ玩具を考へたり、牡合判度の第一原理を究明したりして
くれるのです。詩人といふ「無用のもの」が、同様にまた人生に於て、人間の情操を根本から革命し、人類の
歴史と牡合とを、本質的に襲遷させてしまふのです。つまり詩といふ文学は、人間生活の第一原動力を支配し
てゐるところの、目に見えないラヂウムみたいな物なのです。
 だがしかしこんなことは、貴女のやうな聴明の人にとつて、女学校の常識課程にすぎないでせう。私が貴女
の質問に興味をもつのは、むしろその「単純な質問」の影にあるところの、時代の反映してゐる苦悶なのです0
っまり詳説すれば、詩といふやうな文学が、今日の祀合に於て「無用」であり「時代遅れ」であるといふ思想
を、不可避的に抱くぺく強ひられて居るところの、貴女方の悲惨な青春時代、一切の夢やロマンスやが、青年
から禁止されて居る今の時代を、貴女の質問の内部に提出して居られることが、私にとつて興味のある問題な
のです。
 詩といふやうな文学が、今日の祀合に於て「時代遅れ」であるといふことは、貴女方の青年ばかりでなく、
相官物の解つた人たちの問にさへも、しばしば提出されてる疑問なのです。現に或る知名の小説家が、最近或
る雑誌の座談合で、詩は野攣時代の遺物だと公言して居ます0その人の説によれば、詩と宗教とは、科学の蜃
〃タ 詩人の使命

達によつて亡びるべく、運命づけられたものだと言ふのです。かうした思想が、極めて素朴的な子供らしいも
のであることは、此虞に反駁することを略しませう。ただ簡単に言つておけば、科学の根摸する第一原理の精
神といふものは、哲学と同じく常議に反封し、未知の世界を夢みる驚異のロマン精神に存するので、つまり詩
のエスプリと同じものだと言ふこと、したがつて科学の態達は、決して詩精神の衰退にならないといふことで
す。彿蘭西の有名な科学者で数学者であるところの、ポアンカレーといふ人が「詩と科挙」といふ本を書いて
居ますが、もし貴女がそれを讃んだら、詩精神と科挙精神とが、本質に於て如何に微妙な有機的関係のものか
が、思ひ学ばに過ぎるほど解ることと思ひます。宗教にした所で、科学の饅達とは何の関係もないことであり、
今日益ヒ種々の新しい宗教一人々はそれを迷信と呼び、邪教と呼んで居ます。しかしすぺての宗教は、初期
には皆さう呼ばれて居たのでした。− が、至る所に猫狭な勢で流行してゐる有様です。所詮人間にロマネス
クが為る限り、詩や宗教の生命は永遠に不易です。しかしこんな議論は止めにしませう。私が此虞に興味をも
っのは、今日の文聾者や小説家でさへが、かうした詩の無用論を思惟するほど、それほど、現質的に詩のない
時代、すぺての詩的精神の枯燥してしまつたところの、セチ辛く味気ない今の時代を、人事ならず悲傷の思ひ
で見て居るからです。況んや貴女のやうな若い人々、本来ならば、詩とロマンスの夢の中に、自ら酵ひしれて
居るべき筈の若い人が、詩の無用論や時代遅れ論を考へたりすることの、時代の傷ましい世相を見ることに忍
                                                    野
びません。
 詩のない時代といふことは、すべての夢と希望を無くした時代と言ふことです。それはニヒルの虚妄であり、
生きる償値のない人生です。殊にまた、青年にとつて最も無償値の人生です。ですから自殺者は日々に増加し、
三原山の噂煙は、日々に多くの情死者を呼ぶばかりです。貴女は轡愛をしたことが有りますか。詩を時代遅れ
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臆の思想は、必然にまた礎愛を島代遅れだと言ふでせう。そして或は、たしかにその響か
                                           」 ll〜             ■「
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も知れません。なぜなら今日の青年には、賓際に椿愛ができなくなつて居るからです.辞を作るより捲湘凝
れ、敬愛をする前に、打算の算盤を輝かなければなりません。ゲーテの若きヱルテルの嘆きは、今日の青年一男
女にとつて、詩が時代遅れと考へられるやうに、古めいた十九世紀的のものに思はれるでせう。我々の仲間の
中では、かうした不幸の時代に生活し、呪はれた新世紀に生きてることを、自ら大いに得意としてゐる連中が
あるのです。彼等はそれを、自ら「新しい時代」と栴して屈ます。そして彼等自身が、何事にも夢やロマンス
を持たないこと、すべての詩的精神を軽蔑し、櫻愛を古いと乾し、一切のモラルを呑定し、人生を畢なる悟性
的の打算によつて、賓利主義の功利一鮎張りで生きてることを、自ら「新しい」と栴し、「二十世紀的」と誇
り、時代のモダン的尖端人を以て自任して居るのです。これは「新しい」といふことの意味を取りちがへた、
諷刺的にまで馬鹿馬鹿しい錯覚です。すべての「新しい」といふこと「新時代的」といふことは、過去の古い
ものや蕾時代的のものに封して、飛躍的の改革精神を持ち、新世紀への指導性を掲げる故に、初めて新しさの
償値があるわけです。今日のやうな時代、青年がその若さを失ひ、文化がその希望を喪失し、すぺての精神が
去勢されたやうな時代、そして何の新世紀的への、指導性さへない時代に於て、「新しい」といふ言葉は、畢
に時間的の准起 − 蟻の卵から生れた蟻が、親の蟻よりも若く新しいといふこと、I以外、何の償値的の意
味もないのです。のみならず、それは自誇すぺきことでなくして、自ら悲しみ恥辱すべきことである筈です。
 かつて前世紀の終り、十九世紀末葉の欧洲に、それの外見上の様式だけが、現代の日本と似た政令世相を呈
しました。それは懐尿思潮の時代と呼ばれ、また自然主義の時代とも、デカダンスの時代とも、ニヒリズムの
時代とも呼ばれてました。その頃欧洲の人々は、文化的の一大過渡期に際してゐたので、宗教、道徳、政治、
蜃術のすぺてに対して、蕾時代の信仰を失ひ、一切の目的を喪失して、救ひなき懐疑のニヒリズムに彷捜しま
した。それは現代の日本の世相と、表面的には極めてょく類似して居たのでした。しかし彼等の時代の人々、
J2∫ 詩人の使命

 】
特にインテリゲンチア等は、かうした破壊の最中に於ても未来の新しい夢を建設すべく、必死の争闘を績けな
がら、高邁の詩的熱情に燃え立つて居たのでした。だから、「新時代」といふ言葉は、常時に於ては、それ自
ら一つのロマネスクな鶴を帯びてる詩語として、青年の問に感激深く語られました。反封に今日の日本の政令
で、この同じ言葉が意味する内容ほど、無償値でナンセンスのものはないのです。新しい時代とか、新世紀な
どいふ言葉が、もし未来への希望を約束しないで語られたら、これほど無意味に滑稽なものはないでせう。況
んやそのナンセンスのモダン人種を、自ら誇りとするやうな人が居るとすれば…=・。
 要するに私の反問は、今日のやうな現賓世相を、貴女が「善」として肯定するか、「悪」として香定するか
に存するのです。もつと具慣的に言へば、貴女の提出された質問、即ち詩の無用説や時代遅れ説やが、貴女の
イデオロギイとしての主張であるか、もしくは煩悶としての懐疑であるか、何れであるかと問ふのです。もし
前者であるとすれば、貴女はこの詩のない時代を、必然の進歩として、モダニズムの現象として、肯定的に賛
同して居るのですし、もし後者であるとすれば、貴女もまた私等の詩人と同じく、この時代を拒紹して懐疑し
ながら、自ら如何ともできないニヒリスチックの矛盾によつて、良心的に傷つき悩んで居られるのです。私の
見る所では、おそらくこの後者の立場が、貴女の本心であると思はれます。なぜなら貴女は、かつて「モロッ
コ」といふ映董を見て、ひどく感激されたことを話されたから。あの活動馬眞は私も見ました。あれはマノ
ン・レスコオなどと同じやうに、殆んど形而上寧的の櫻愛とも言ふぺきやうな、ハ犠身的殉情の椿愛を主題とし
た物語です。貴女がもし新しがり屋のモダン娘で、ロマン精神や詩文寧の香走者だつたら、あんな馬眞は頭か
ら冷笑して、時代遅れの蕾思想として見るべき筈です。貴女がそれに感激したのは、すくなくとも貴女の心に、
青春の夢やロマネスクが資在し、且つそれを強くあこがれ求めて居る澄操です。だが現賓の社合に於て、もし
そんな場合に遭遇したら、貴女は決してモロッコの主人公のやうにはならないでせう。敬愛の最中に於てさへ、
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ぜ女は官度も反省して.、利害の計算をして見るでせう● つまり言へばモロ,コは、h貫女にとつてイデアであり、
単なる抽象的な拳術イデアにすぎないのです。そして此虞に、私等の時代に生きてる、すぺてのヒューマンの
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矛盾性があるのです。
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 私等の時代の詩人は、すべてに於て貴女と同じ懐尿を持ち、同じ矛盾に悩まされ、同じニヒリスチックの生
活をして居るのです。即ち私等の詩人自身が、貴女と同じやうに詩を香定し、詩の貰在性を尿つて居るのです。
ただしかし、本官のことは、私等の誠資なヒューマニストが、詩の茸に有るぺき政令、それが首為さるぺきイ
デアの祀合を、不断に倦まず、熱情し績けて居るといふことです。そしてこの熱情がある限り、すぺての人は
「詩人」なのです。たとへ一筋の詩作品を書かないでも、伶エスプリに於ての詩人なのです。私が貴女に願ふ
ことは、今の虚無的の懐疑思想を、貴女に捨てょと言ふ忠告ではなく、却つて益ヒそれを深め、強く徹底して
行かれることです。だがそれと同時に、貴女のヒューマニストである「詩人」を、逆に益土蔵調して行かれる
ことです。少し以前に書いた私の詩は、貴女方の時代に生きてる人々の、共通の意志や苦悩に鱗手するものが
                  ヽ ヽ ヽ
あり、多少貴女を慰めるよすがともなると思ひますので、手紙のついでに書いて御覧に入れます。
 小出新造

ここに道路の新開せるは
直として市街に通ずるならん。
われこの新造の交路に立てど
さびしき四方の地平をきはめず
∫2∫ 詩人の使命

暗鬱なる日かな。
天日家並の軒に低くして
林の雑木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ 思惟をかへさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。
J2イ
 小出新造といふのは、私の郷里の小都合で、郊外の饅展を囲るために、檜や轢の林を伐採して、新しく造つ
た道路の名です。久しぶりで郷里に辟つた私は、昔少年時代に散歩した森や林が、すつかり跡形もなく伐採さ
れてるのを見て、或る生々しい悲痛の感慨に打たれながら、この抒情詩を作つたのです。この詩で歌つてるこ
とは、過去の懐かしい夢や記憶が、無漸に皆破壊されたことの悲哀と、その悲哀を噛みしめながら、杜合に孤
立して濁り考へ、時代の流行思潮に逆行し、現賓の世相を呪ひながら、しかも伶愚かな夢を持ち績けて、寂し
い戦ひを生活して来た私の過去を、多少悲憤の調子で叫んだのです。「われの叛きて行かざる道に、新しき樹
木みな伐られたり。」といふ結句は、私が過去に香定して来た一切の流行思潮とジャーナリズム ー 自然主義
や、人道主義や、民衆主義や、マルキシズムや − が、次々に起つて次々に磨れ叫結局皆虚妄の幻影として、
痛快に伐り倒されてしまつたことを寓したのです。しかしそんな寓意に取らないでも、畢にこの浮薄な時代に
対する、懲の拒絶的な烈しい意志と、孤濁に生活して衆た寂しさとを、率直に歌つたものとして讃まれても好
いのです。
  火

赤く燃える火を見たり
はりも の
獣類の如く
汝は沈獣して言はざるかな。
メ芸岳
夕べの静かなる都合の室に
炎は美しく燃え出づる
たちまち流れはひろがり行き
瞬時に一切を亡ぼし遺せり。
資産も、工場も、大建築も
希望も、柴暑も、富貴も、野心も
すぺての一切を挽き透せり。
火よ
     止りも の
いかなれば獣類の如く
汝は沈獣して言はざるかな。
さびしき憂愁に閉されつつ
かくも静かなる薄暮の杢に
∫2∫ 詩人の使命
謂▼

ノ2β
汝は熱情を思ひ表せり。
 或る晩春の日の夕暮れ、速い杢に灰赤く燃えてる火事の焔を見て、私はわけもなく悲しくなり、漠がこみあ
げて来るやうに感じました。なぜ火事の煩が、そんなに悲しかつたのか、私自身にも解りません。しかし詩と
いふものは、すぺてさういふ時にのみ、何の説明される理由もなく、スヰートな涙と共に、音楽のやうに流れ
出して来るものなのです。
 それは質に物静かな、すぺての物音が霞の中に滑えてるやうな、或る晩春の日の黄昏でした。私の心の奥底
には、自分の欺いてる常時の家庭生活や、周囲のあらゆる人々に封する烈しい怒りや、とりわけ環境と杜合に
封するニヒルの懐疑やが、意志の抑制してゐる忍従の内部に於て、獣茨のやうに燃えくすぶつて居たのでした。
さうした私の悲しい眼に、春の日の薄暮に迫る室の向うで、広かに赤く燃える火が映つたのです。都合の屋根
                                  けも の
を越えた地平の方で、その火は眞直に立ち昇り、永久に物を言はない獣顆のやうに、静かに青もなく、美しく
燃え上つて居るのでした。
火よ
     け も の
いかなれば獣類の如く
汝は沈験して言はざるかな。
ヒ才ヽ
といふこの詩の絡聯が、その時私の心の底から、音楽のやうに悲しく、リリカルの情緒を込めて浮んで来まし
た。これ以上、私はもはや自作の詩について、思想的に説明することができません。ただ常時の私の虚偽の生
遥観れ蒜告言た貰芸い悩みとが、或る春の日の慧な要 ∴}題貞
に、悲しいリリカルの調べとなつて、自然に融け流れて来た迄です。しかし最後の二行「かくも静かなる薄暮
の杢に、汝は熱情を思ひ壷せり」といふ詩句に含まれた思想だけは、貴女にも充分お鮮りになると存じます。
なぜなら貴女は、家庭的にも環境的にも、心の底に爆弾を包みながら、羊のやうな沈獣と忍従とに、悲しく耐
へて来られたからです。