エッセイについて
エッセイは日本語で何と詳したら好いのだらう。一般には「論文」もしくは「随筆」と辞されてるが、どつ
ちの詳も通辞でない。中には「随想」といふ評語を使ふ人たちもある。そこで例へば「パスカル随想鏡」とか
「モンテーニュ随想録」とか言ふのであるが、これも少し欒な評語である。
エッセイといふ言葉の通常な評語は、どうも日本にないやうである。そして評語がないといふことは、事質
上に於て、この種の文挙が日本にないことを澄明する。
日本で随筆と呼んでる文畢は、「枕草子」、「徒然草」、「方丈記」のやうなものを言ふのである。西洋のエッ
セイは、かうした文学に似た一面をたしかに持つてる。即ちその文章の拳術的に香気が高く、詩的精神に富ん
でることで、正に日本の「散文詩」であるところの、「方丈記」等の随筆と似てゐるのである。しかし西洋で
エッセイと呼ぶ文学は、本質に何かの哲学的な議論や思想を持つてる鮎で、かうした日本の俸統的随筆とちが
ってゐる。この鮎から解澤すれば、むしろ「論文」と謬する方が正しいのである。しかしそれは、日本の文壇
で言はれるやうな論文、例へばプロレタリア文学が一時盛んにした所謂理論闘争のやうな物や、雑誌評論の主
題である文蜃時評のやうなガサツで非賓術的な物とは全くちがひ、それ自身が揮沌たる美文であり、詩文寧で
ある所の物を言ふのである。故にまたこの鮎からみれば「随筆」と諾する方が正に近く、結局言つて「論文」
でもなく「随筆」でもなく、日本語に正しい評語がないと言ふことになるのである。そして評語がないといふ
2J7 詩人の使命
ことは、前言ふ通り、この種の文学が日本にない事を賓讃する。
何故にエッセイが日本にないのだらうか。その理由は簡畢である。つまり日本の文学には、昔から歴史的に
「思想性」といふものがないからである。詩歌でも小説でも、日本の文学には世界に優れたユニイクな長所が
あるが、思想性がないといふ一事では、世界のどこの文学1支部や印度にさへも1劣つて居る。最近明治
以来になつて、日本にも初めて哲学などといふ言葉ができ、文学にも多少それを取り入れるやうになつて来た
が、何分にも開明日浅いことであるから、眞の思想性といふものが、日本人の肌身にしつかりついて居ないの
である。
所でエッセイといふ文学は、言はば「思想性の情操化」 であり、「思想詩」とも栴すぺき文学なのだ。近頃
正宗白鳥氏は「日常性の哲学」といふことを言ひ、日本の文学にそれが映けてることを指摘したが、エッセイ
といふ文学は、その日常性の哲学 − 日常生活の膿験的感情となつてる思想性1を、美しい拳術的の言葉で
表現する文学だから、本来眞の思想性がなく、早に知識としての哲畢や抽象観念やを理智の原形のままで不滑
化に所有してる日本人、思想性と感情性とを二元的に分離して考へてるほど、それほど眞の思想性が身につい
てない日本の文畢者には、到底エッセイといふやうな文学の書ける筈がないのである。近頃日本の文壇、特に
若い作家や詩人の問には、妙に専門的な畢術語などを濫用し、論理学のフォルムを意識して書いたやうな論文
が流行るけれども、西洋人が見たらずゐぶん可笑しく思ふだらう。なぜならこの種の論文は、本来「文学」と
智
か「奉術」とか言ふぺき物でなく、文学以前、拳術以前にあるぺき筈の学術論文(しかもその乳臭幼稚な素人
論文) にすぎないからである。文学賓術といふものは、かうした抽象観念を理窟で論じ、頭脳のインテリを表
現すぺきものでなくして、かかる思想性を作者の日常生活に於て饅験化し、それを情操化し、直感化し、抒情
誇化したところの表現であり、そしてまたその表現にのみ、作品としての蜃術慣値があるからである。
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eイの進歩性は、文化の進歩性と正比例をする〇一般の教育がよく普及し、文化瓜√aデリゼ
ンスが向上すれば、自然に思想性が民衆の生活に浸透して、それが日常生活的のものになつてくるのである。
例へば慣値批判とか、認識不足とかいふやうな言葉は、ついこの数年前までは、特挽なインテリ階級の専用語
に属して居たが、今日では殆んど一般の民衆が日常語として使つて居る。そしてこの事資は、とりも直さずか
うした抽象観念の思想性が、民衆の日常生活の中に浸透して、常識的に膿験化され、情操化されて来たことの
事質を示し、併せて文化の向上を示してるのである。つまり言へば或る言葉(思想、観念)が、理智の概念で
言はれてる問は文学でなく、それが生活的膿験として、感情で言はれるやうになつた時が文学である。そして
エッセイとは、かうした文学の中での思想性を、最も一元的、素朴的に抽出するところの作文なのだ。故に即
ち、エッセイの進歩性は、文化に於けるインテリゼンスの向上と正比例をする。
そこで今日の日本にエッセイがないといふことは、つまり現代日本の文化が、インテリゼンスに於て低劣で
あり、私の所謂「インテリ以前の文壇」であることを澄左してゐる。明治以来既に六十飴年になるけれども、
この鮎の事賓に印して考へれば、我が国現代の文化は未だ極めて蒙昧であり、開明漸く第一歩といふ感じがす
る。しかしただ嬉しいことは、最近この園に於て、漸く初めて最初の若いエッセイストを見たことである。即
ち私は、此虞で保田輿重郎君を紹介しょうと思ふのである。最初彼が出版した二筋の著書(英雄と詩人・日本
の橋)は、この意味に於てまことに珍らしい好著であつた。特にその 「日本の橋」「誰ケ袖屏風」及びセントヘ
レナの孤高人ナポレオンを書いた文章等は、温るるばかりの詩美と高邁な精神とにみち、しかも哲学的な思想
性を、よく蜃術的情操の中に饅験化した好エッセイであり、我が国の文壇に初めて見たところの物である。
(過去にエッセイストとして高山樗牛があつたけれども、思想性が粗雑で蜃術的のデリカシイに映けてた。)保
田輿重郎君の如き青年が、日本の文壇に新しく登場して衆たことは、やがて来るぺき何かの黎明を語る暗示で
2ノク 詩人の使命
あり、併せてエッセイ文畢の新興機運を告げる啓示である。
っいでにアフォリズムについて一言しょう。アフォリズムのことは、日本で従来「警句」または「歳言」と
辞されて居た。しかしそれが邁詳でないことは、エッセイを論文または随筆といふに同じである0なぜならア
フォリズムといふ文学は、本質上にエッセイの一種であり、エッセイをより簡潔に縮少したもの、即ち言へば
珠玉エッセイ、小品エッセイとも言ふべき物であるからである0
エッセイが頭脳的思想の表現でなく、情操化した思想の表現であるやうに、それの短篇であるところのアフ
ォリズムも、決して所謂「警句」の如く、単なる理智の反語的奇言を弄する文学ではない○即ちパスカルのそ
れの如く、ニイチェのそれの如く、グウルモン、ボードレエル等のそれの如く、作者の饅験によつて情操化し、
モラル化し、直感化したところの詩的思想性を書く文学なのである。私自身の場合に於ても、過去に二三の書
物を著はし、多くのアフォリズムを書いてゐるが、すべて自分の鰹験から、日常生活の質感した思想性を書い
たもので、決して畢なる警句の如き、理智の頭脳的産物ではないことを公言して居る。とにかく今後の日本文
壇には、かうしたアフォリズムやエッセイやが、次第に新興文学としての新しい繁殖をするであらう0
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