僕は日本語絶望論者ではない


 僕の詩論について、人々は「日本語絶望論」といふ折紙をつけてくれた。そこで早合点をする軽率な人々や、頭脳の足りない単純な人々から、僕がまるで鹿鳴館時代の欧化心酔者である如く、自国の文化や国語を呪ふ非国民でもあるかの如く、しばしば暴力団的恐喝の悪罵さへ蒙つて居る。
 所で僕は、非国民でもなければ欧化心酔論者でもない。僕は今日の詩壇に於て、おそらく何人にもまさつて日本語の美をよく理解してゐる。和歌や俳句に於ける文章語の実は勿論のこと、現代日本の口語についても、その特色と美を理解してゐることで、おそらく詩壇の何人にも劣らないつもりである。そして国語の美を理解するといふことは、とりも直さず国語を愛して居るといふことである。だが愛が深ければ深いほど、理解が深ければ深いほど、一方ではまたそれに対する期待の不満が烈しくなり、欠点への指摘が厳しくなつてくるわけである。かうした僕の心意は、日本の現代文化に対しても同じである。僕は自分の住んでる日本の社会と環境とを、一歩でも高く理想的完美に近づけようとして焦心して居る。そしてまた、その故にこそ現代文化の過渡期の猥雑を悪み嫌つて居るのである。
 現代日本語(口語)の欠陥として、僕が常に悲観的の態度で指摘して居るのは、主としてその音律性の欠乏である。これについては他日また詳しい論文を書かうと思ふが、普通に詩を作つてるほどの人であつたら、大体直感的の常識でも解る筈である。どんなに理窟をこねて弁辞したところで、今日現在してゐるロ語の自由詩や散文詩に、真の全感的な躍動を感じさせる節奏や抑揚がないことは勿論である。若しそれが現に有るものだつたら、今日詩壇に韻律論がやかましく議論される筈もなく、川路君や福士君の研究も無用であり、詩の形態のことで皆が悩むこともない筈である。結局僕の詩論は現詩壇に於ける最も致命的な悩みと本質問題とを、忌憚なく核心的に指摘したものに外ならない。しかもそれによつて僕が悪まれるのは、詩壇の諸君がこの点の自覚を恐れ、自分の病気を指摘する医者に対して、死刑宣告者の如き恐怖と敵意をもつからである。
 かつて詩話会当時の詩壇に於て、僕は早くこのことを警告し、所謂自由詩なるものが実の韻文に非ざること、韻文意識の妄想によつて書かれた行わけ散文に過ぎないことを指摘した。その為僕は当時の詩壇から敵愾され、多くの人々によつて非難された。その人々の説によれば、自由詩には「内部の韻律」といふものがあり、言語の抑揚や節奏以外、心象上のイメーヂによつて知覚させる音楽があるといふのである。また或る他の人々は曰く、自由詩には古い観念に属する音楽は無いけれども、別の新しい時代感覚に属する音律があると。そして要するに僕の自由詩否定論は、僕がその新しい時代の韻律を理解せず、時代遅れの古い韻文観念に捉はれてることの結果であると言ふのであつた。すべてかうした弁明は、結局韻文意識の妄想に捉はれた強弁であり、実には無い者を、無理に有ると信じたがる心理のコジつけた強弁にすぎなかつた。そしてこのことは、最近春山行夫君や北川冬彦君等の散文詩運動によつて明白に指摘された。かつて僕の抗議者の一人であつた古田宗治君でさへが、後には春山君と共に、自由詩の曖昧な韻文妄想を否定した。
 病人にとつての最大な危険は、自分で自分の病気を自覚しないことである。彼は自分を健康だと信じて居る。たまたま聡明な医者が来て診察し、実情を告げて警告することがあつても、彼等は断じてそれを聴かない。そしてあべこべに医者を悪み、自分に悪意を持つ敵のやうに考へる。僕の現詩壇に於ける立場が、いつも丁度この医者の通りである。僕が詩の新しい建設と復活との為に、日本語の本質的病原を指示することから、逆に人々は僕を日本語の呪詛者と考へ、現代詩の希望を否定する反動的懐古主義者のやうに邪解する。僕は如何なる敵をも恐れはしない。だが自分が理解されないこと、誤解によつて群集に石を投げられることだけは、流石に悲しく寂蓼の感に耐へないものがある。
 「日本語絶望論者」といふ折紙は、僕に対する悪意の折紙ではないかも知れぬ。だがそれはすくなくとも、僕の思想を最も皮相に解した場合の折紙である。真に僕の詩論を理解してくれた人であつたら、そんな小乗的否定論者とレて僕を評語することはない筈である。僕は未来の新しい日本国詩を建設すべく、現代国語の病原を診察して、その患部に摘出の痛いメスを入れてるのである。それは諸君に充分な苦痛をあたへる。だが諸君を殺すためのメスではなく、より健康に生かすためのメスなのである。即ち僕は「日本語絶望論者」でなくして「日本語建設論者」なのである。