詩と批評家
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河上徹太郎氏の近著「思想の秋」に収めた詩論「詩と現草生活について」は、詩壇の圏外に立つ局外者が、
僕等の文畢を如何に見てゐるかを知る為に、特に興味の深い文字であつた0論旨は少し〈詩概念の抽象的観念
論に飛躍しすぎて、日本詩壇の現賓的具饅覿から遊離して居る恨みがあつた0かういふ所はやはり河上氏が辞
項の局外者であり、日本の近代詩をあまり注意して讃んで居ないこと、また讃んでゐるにしても、それが観念
論的な讃み方であつて、眞の愛詩家の鑑賞的な態度でないこと、つまり言へば河上氏の愛するものが、一般的
な「詩概論」であつて、眞の「詩そのもの」でないことを推察させる次第であつた0したがつて「我々の要求
するものは詩ではない。詩人である。」といふ結論も、これを別の言葉に言ひかへて「我々の要求するものは
詩概念(詩一般)である。箇々の具鰹的の作品ではない0」といふ意味に解澤される0この解蒋は、僕等の詩
人に満足をあたへるものではない。
だがそれにも拘はらず、氏の説は大局として大いに鵜くべきものがあり、僕等の詩人の宿命的な因果とヂレ
ンマをよく指示してゐる。特に「我が園の文学は、文学の存在に封しては素朴賓在論的な肯定を示してゐるの
であつて、近代になつて人間や観念を封象とするやうになつても、相愛らず昔乍らの苑鳥風月に封する態度を
改めないのである。だから文学上のイデーもイマージも只有りのままの心理的表象にすぎず、之れが趣味の上
の味だの、文学以外の概念だのの助をかりて漸く成り立ち、従つてその形作る世界も箇別的な特貌のものであ
って、そこに共通した、渾然たる世界は存しないのである0かかる乾瘡な土壌の下には詩的イマージの如き濃
密な植物の種子は芽を出さない。よしんば或る個性の天才的努力によつててつの詩のせ界が開拓されても、之
は全く孤立して、他に交通できる世界を見出さないし、又一個人の中で或る詩壇を開拓するには、外の世界と
の交感が全く不可能であるから、彼は一詩壇から他の詩壇へ畢性生殖をして饅展せねばならない0この事情が
我が園に詩を態達せしめない決定的な理由である。」といふ一節は日本の詩人にとつて最も宿命的な文化問題
を暗示して居る。
クク 詩人の使命
浣』盛虐
であつたら、抒情詩が書けなければ書けないほど、逆に益ヒ抒情詩に向つて熱情し、それの純一な作家に対し
て、自ちその不純を卑下すべき筈である。
僕は今の詩壇人から、誤つて「日本語絶望論者」と言はれて居る。そして僕の詩論する精神が、すぺて皆虚
無的であり、香定的であり、無いものネダリであり、駄々ッ子的濁断論だと言はれて居る。然り! 僕は自分
の詩的良心が許さぬ限り、一切のものを香定し蓋した。なぜなら今日のやうな日本の祀合、文化と図語の過渡
期的状態にある日本に於て、眞に蜃術的完美を具へたゾルレンの詩が、事賓上に現象する筈がないからである。
もし今日現状するやうな日本の詩を、ゾルレンの指令に於て肯定する詩人が居るとしたら、その人は自分に嘘
をついてるのである。でなかつたら眞の純粋の詩的精神と、眞の厳正な肇術批判を持たないところの詩人であ
る。しかしながらまた僕は、ザインの立場に於ける批判としては、あまねく一切の詩を肯定して衆た。僕は決
して、無いものネダリをする駄々ッ子でもなく、頑迷固階の観念的ドグマチストでもない。僕は舛謹論者と共
に、すべての存在するものを肯定し、それの必然的な僧侶と理由を承諾する。しかしながらまた僕は、それの
存在理由を認める故に、それの絶対の理性的償俺 − ゾルレンとしての官為性 − を、安易に承諾することが
できないのである。
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詩と批評家
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河上徹太郎氏の近著「思想の秋」 に収めた詩論「詩と現資生活について」は、詩噂の圏外に立つ局外者が、
僕等の文筆を如何に見てゐるかを知る為に、特に興味の深い文字であつた。論旨は少しく詩概念の抽象的観念 、表題一
論に飛躍しすぎて、日本詩壇の現質的具饅観から遊離して居る恨みがあつた0かういふ所はやはり河上氏が詩
壇の局外者であり、日本の近代詩をあまり注意して讃んで居ないこと、また讃んでゐるにしても、それが観念
論的な讃み方であつて、眞の愛詩家の鑑賞的な態度でないこと、つまり言へば河上氏の愛するものが、一般的
な「詩概論」であつて、眞の「詩そのもの」でないことを推察させる次第であつた0したがつて「我々の要求
するものは詩ではない。詩人である。」といふ結論も、これを別の言葉に言ひかへて「我々の要求するものは
詩概念(詩一般)である。箇々の具鰹的の作品ではない0」といふ意味に解澤される0この解蒋は、僕等の詩
人に満足をあたへるものではない。
だがそれにも拘はらず、氏の説は大局として大いに聴くべきものがあり、僕等の詩人の宿命的な因果とヂレ
ンマをよく指示してゐる。特に「我が国の文学は、文学の存在に封しては素朴賓在論的な肯定を示してゐるの
であつて、近代になつて人間や観念を封象とするやうになつても、相愛らず昔乍らの苑鳥風月に封する態度を
改めないのである。だから文学上のイデーもイマージも只有りのままの心理的表象にすぎず、之れが趣味の上
の味だの、文学以外の概念だのの助をかりて漸く成り立ち、従つてその形作る世界も箇別的な特貌のものであ
って、そこに共通した、渾然たる世界は存しないのである0かかる乾瘡な土壌の下には詩的イマージの如き濃
密な植物の種子は芽を出さない。よしんば或る個性の天才的努力によつて一つの詩の世界が開拓されても、之
は全く孤立して、他に交通できる世界を見出さないし、又一個人の中で或る詩境を開拓するには、外の世界と
の交感が全く不可能であるから、彼は一詩噴から他の詩境へ畢性生殖をして態展せねばならない0この事情が
我が国に詩を態達せしめない決定的な理由である。」といふ一節は日本の詩人にとつて最も宿命的な文化問題
を暗示して居る。
タタ 詩人の使命
1′当川山H叫
日本の詩人は、和歌や俳句の昔から俸統して、常に花鳥風月の世界に遊び、物のあはれの風流を楽しむこと
を能として居た。だがこれはひとり詩人ばかりでない。河上氏の言ふ通り、すぺての散文革も同様であり、文
孝一般がさうだつたのである。明治以来の日本文撃と雄も、所詮は本質上に於ての「俳句」であり、身遽雑記
の趣味文学であること、依然として昔ながらに欒化がない。そこで芭蕉の俳句と西鶴の小説とは、昔の同時代
に於て互に交渉なく存在した。明治以来の日本でもまた、北原白秋の詩と自然主義の小説とが、同じ時代に背
中合せで改行して居た。詩と、小説と、和歌と、俳句と、随筆と、各ヒの文挙が夫々の部門に孤立しながら、
日本では専門的漫交渉になつてるのである。かういふ文壇の状態から、詩の文化的イメージが餞育しないこと
は嘗然である。
これが反封に西洋では、詩が文化思潮の綜合した先頭に立ち、詩人が常にジャーナリズムの形而上的指導者
に立つてるのである。西洋で詩が「文畢の帝王」と言はれるのはこの為で、すぺての文肇批評家等は、何より
も先づ第一に詩と詩人を評論する。なぜなら詩人のイメージする宇宙の中に、一切の時流的文肇思潮が綜合さ
れて居るからである。然るに日本の状態では、詩人のイメージが特貌の部門に限定され、その孤立した世界の
外に、全く撲延することが出来ないのである。そこで小説家は詩を讃まず、詩人はまた小説家に準父渉である。
そして、此虞に「詩」といふ中には、俸統の和歌や俳句も含まれて居る。彼等はまた彼等の世界で、互に和歌
と俳句と交渉なく、僕等の欧風詩とも温交渉に、夫々別々の部門内で濁立に孤ユ心して居る。河上氏の言ふ通り、
賓にこの事情が日本に詩を饅達させない決定的な理由なのである。
僕等の受けた教育は、詩といふ言葉からすぐ文化的な意義を考へ、詩人といふ言葉から時代思潮の指導者を
考へる。だがこれは「詩」といふ外国語の、日本に直辞されたことの誤謬であつた。日本で現賓に意味される
「誇」は、資質上には昔ながらの和歌や俳句の一種であり、或はその外面洋風化した〓攣形であるにすぎない。
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Å丁も青も、日本の詩人は世外に仙遊する風流人で、壷中濁自のイメージを楽しむ外、文化的に意rナリズム
へ交渉する地位を持たない。日本にはゲーテの懸愛詩を作る詩人が居るか知れない。しかしゲーテの指導原理
を持つ詩人は決して出ない。詩人に出る意志がないのではない。環境がそれを出させないのである。
詩人と思想、詩人と批評家の問題も、またこの事情から演繹される。河上氏は「詩人は素質的に批評家の傾
向を持つてる。」と言ひ、また「詩と批評は本質的に離れない関係がある。」と言つてるが、西洋に於ては正に
その通りなのである。外国の詩人のイメージは文嚢思潮の仝宇宙に廣く撲大普遍して居る。したがつて詩人の
世界は、常にまた文化批評家の世界なのである。詩人と批評家、詩人とジャーナリストとは、外国に於ては常
にしばしば同字義である。現に諸君の知る如くジャン・コクトオでも、ポール・モーランでも、女たはグァレ
リイでもグウルモンでも、西洋の詩人は常に一面の秀れた文化批評家を兼ねて居る。文化批評を持たない詩人
なんてものは、瀬診器を持たない腎者と同じく、外国では考へられないことなのである。
「詩人は思想家の悦びを先取りする」とニイチェが言つてる。その通りにちがひない。詩人は概念を分析する
抽象上の理論を持たない。詩人には決して論文が書けないのである。だがその代りに、詩人はすべての眞理を
直覚する。思想家は「考へ」、詩人は「感ずる」。そして如何なる場合にも「感じ」は「考へ」の先に立つてる。
そこで詩人が暗示するところのものを、思想家が分析して論文に構成し、詩人がイメージするところを、批評
家が概念に移して紳澄する。詩人は論文を書かない代りにエッセイを書く。そして詩人のエッセイから、批評
家がさらに論文を演繹して行くのである。
外国の事情はこの通りである。外国の詩人といふ連中は、決して所謂思想家でもなく批評家でもない。しか
も本質上に於て、詩人は思想家や批評家の素質するものを直覚的に先取して居る。そこで詩人は常に「思想家
の上位に立つ」と言はれるのである。しかしながら外国の話である。日本では詩人の定義が全くちがふ。日本
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の詩人と思想家とは、殆んど全く交渉のない世界に居る。芭蕉の人生観や自然観には、思想として可成り深遠
のものがあつたか知れない。だがそれはそれだけで孤立的に別居して居た。思想家や文化批評家やはこれを全
般の問題から除外して白眼現して居た。そこで芭蕉の思想は、その単性生殖のままで饅展なく死んでしまつた。
かうした状態の下で、日本に詩的イメージの善い思想が生れないのは官然である。昔から日本の詩人には思
想が無いと言はれてる。それは確かに香定できない事賓である。だが一方から考へれば、詩人の思想はイメー
ジの中に象徴されてる。概念を利用する思想家や批評家が衆て、これを具慣的思想の形態に分析構成しない限
りは、それが畢なるイメージとして、夢の綜砂する影のままで経つてしまふ。詩人が何を考へ、何を暗示した
かといふことさへ、何人も知らないで葬られるのである。そしてこの罪は日本の批評家の側の責任である。は
つきり言つてしまへば、日本の批評家といふ連中は「詩」を理鰐しないのである。
日本に善い思想家、特に書き文奉批評家が出ないといふ事は悲しみである。この悲しみは、我々の詩的イメ
ージが局部的に歴縮されてることとの不幸と共に、日本の詩人の悲しみを二重にする。すべて批評家の任務は、
具鰹的の作品を通して、文奉の障れた意味を饅見し、時流の上に意味を創造指導して行くことにある。外国で
詩人が尊ばれるのは、彼等の書き文睾批評家が、第一に先づ詩を鑑賞批評し、詩人について意味を教見して居
るからである。然るに日本の批評家は、小説以外のどんな文筆をも鑑賞しない。そこで小説家はちよつとした
愚にもつかない問題を提出してさへ文壇中のジャーナリズムとなつて騒動される沌反封に詩人や歌人の世界で
は、どんな重大な思想問題を提出しても、敢合的に全く歎殺されるばかりである。そして孤濁で居ることは、
ひとしくだれにとつても寂しいのだ。詩人が小説の方に縛向するのも、物質の問題以外、かうした孤濁の寂蓼
に耐へないからだ。
だが少し昔は、日本にも善い思想家や批評家がたくさん居た。明治の中期には、高山樗牛や‥姉崎嘲風のやう
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な思想家が居た。彼等は単なる理論家でなく、ロマンチックな熱情をもつた高邁の待人であづた.そ題
の文壇は、此等の詩人エッセイストによつて指導された。明治の後期には、森鴎外や上田敏のやうな文蓼批評
家が権威して居た。彼等は眞に深く詩を愛し、詩を理解し、何時も文嚢批評の巻頭に詩を論じた。そしてその
上にまた彼等自身が創作するところの詩人であつた。彼等の博士が権威して居た文壇で、富時詩が最も柴えた
のは官然だつた。その時代に於てのみ、日本でも詩人が文壇の帝位に坐して居た。
すべては死んだ。森、上田両氏の穀後、日本には文壇を指導する権威者がなく、眞の意味で文嚢批評家と言
はるべき人が無くなつてしまつた。それからずつと今日まで、日本には無批評時代の文壇が績いて来た。無批
評時代の文壇は、指導性のイデアと良心を軟いた暗黒堕落の文壇である。そして僕等の詩人たちは、この暗黒
史の中に生れて彷捜して来た。希望もなく意義もなく、絶望憂鬱の日が長く績いた。しかしながら最近、漸く
少しつつ文学の新しい黎明がきざして来た。そして例へば此虞に河上徹太郎、小林秀雄等の如き、詩に理解と
同情をもつ新しい文蜃批評家が現れて衆た。過去に於ての如く、詩の輝やかしい時代が、やがてまた未来にも
来るであらう。そして詩の柴える時は、日本の文壇の指導性を有する時で、且つ文学の新しく建設される時な
のである。