与謝野鉄幹のこと




 輿謝野銭幹氏が死んだ。明治以来の文壇で、銭幹氏ほど偉大なジャーナリストは居なかつたらう。但し此所
でジャーナリストと言ふ意味は、新聞雑誌記者といふ意味でなく、文蜃思潮の時代的指導者といふ意味なので
ある。
 人も知る如く、銘幹氏は新渡和歌の創立改革者であつた。だがそんなものは、彼の事業の展性的な一部にす
ぎない。彼はまた盛んに詩を作り、藤村、泣童等の詩人と伍して活躍した。だがそんなこともまた、彼の仝事
業の一方面にしか属して居ない。明白に言つて践幹氏の歌や詩やは、撃術晶として粗放にすぎ、あまり高く評
債されるものではなかつた。
 輿謝野銭幹の全事業は、明治中期の文化的青春時代に、あの若々しいロマンチシズムの時潮に乗つて、日本
に最初の詩的棉紳を強く指導したことにあつた。昔時個々の詩人としては、藤村、泣董、税率、有明等の人々
が居り、すぺての資力に於て鎖幹にまさつて居た。短歌に於ても、彼の弟子であつた晶子女史や、石川啄木、
北原白秋等の方が却つて師の械幹に遠くまさつて居た。だがそれにもかかはらず、時代の詩的精神を指導する
ジャーナリズムの本原力は、算に新詩牡の主宰銘幹氏に存したのである。換言すれば、泣葦も、有明も、晶子
も、啄木も、白秋も、すぺて皆鱗幹によつて時代の文畢的エスプリを鼓吹されて居たのである。この意味に放
で山掛幹氏は、賓に日本文堰に於ける 「詩的棺紳の父」 であつた。
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小説の方面にも亙り、多くの秀れた文革者を門下に出した。大正初期に於て、新文壇の最高構成であつた難読
「スバル」は、新詩政の機関誌「明星」の分岐した後身であつた。そしてこの雑誌からは、谷崎潤一郎を初め
として、昔時の自然主義文学に反感するネオ・ロマンチシズム系統の作家が出た。そしてこの浪漫的精神の本
庶は、すべて皆「明星」から出て居たのであつた。
                                                 ・ノが
 絨幹氏を誹誇する人々は、彼を「俗悪な山師」だと言ふ。確かにこの批評は、錬幹の一面をよく穿つて居る。
彼は純粋の嚢衝家であるぺく、あまりに行動的人物でありすぎた。彼は自ら時代の先導に立ち、ジャーナリス
ーとして文壇を指導しょうと熱意した。所謂「象牙の塔」の中で、孤高に華衝の清遊を奨むといふやうな文人
気質は、彼の所鹿の中に全く無かつた。即ち彼はこの意味での「山師」であり「英雄Lであり「事業家」であ
つた。そしてまた、それ故にこそジャーナリストであつたのである。
 ジャーナリスト(文化指導者)としての第一資格は、時代の新しい潮流を感覚するところの敏感性である。
だがそれにもまして必要なものは、全身的に打ち込んでかかる熱情さである。所で銘幹氏は、この二つの資格
を完全に所有して居た。彼が昔時の西欧的新思潮に封して、如何に新鮮で鋭敏な感受性をもつて居たかは、そ
の雑誌「明星」の表装挿檜が、官時の讃者に封して驚異的な新感覚をあたへたことでも解る。だが彼の文壇に
競合した大勢力は、賓にその全身的なロマンチックの熱情に根濠して居た。彼はパイロンに私淑して居た。そ
して確かに、彼の熱情はパイロンに比較さるぺきものであつた。或はもつと詳しく言へば、パイロンを支那壮
士風の東洋的気概家に襲へたやうな男であつた。
 繊幹氏の文壇的存在は、昔時に於て正に「帝王」の地位にあつた。詩人も、歌人も、評論家も、小説家もす
べての文畢者が轟く皆彼の膝下に集まり、新詩敵の門をくぐつて文壇に出た。「方今日本の文学者にして、新
jβ夕 日本への同転…

詩杜の門をくぐらざる者一人もなし。」と言つた餓幹氏の豪語は、すくなく共七分通りは事賓であつた。その
代りまた一面では、彼ほど多く敵を持つた詩人も無かつた。甚だしきは単に彼を誹諾中傷するだけの目的で、
文壇笑魔経と題する奇怪な本さへ出版された。この書によれば、銭幹氏は人妻を姦し、詐欺を働き、天下の悪
事を一身でしたところの悪魔的英雄である。勿論この記事は虚構であつたが、苧つした悪事をも敢て為し得る
やうな英雄的、山師的の豪放性が彼にあつたことは事賓である。苧フでなければ、ジャーナリストとして一世
を指導する資格がない。
 観幹及び新詩杜に対する正面の敵は正岡子規によつて主導された根岸汲の人々だつた。「明星」と「ホトト
ギス」は、常時に於ける二大敵国の封立だつた。新詩杜が青春の諸を讃美し、情緒の浪漫的な自由解放を叫ん
だに反し、根岸渡の歌人や俳人やは、子規の馬生記を奉じて客観の観照を一義とし、青春の情緒を軽蔑して理
智の印物的レアリズムを主張した。また新詩社が西欧的精神のリリックを掲げたに封し、子規等の根岸汲は古
典日本的な詩桶紳に立脚して居た。常時両者は犬猿のやうに恰み合つて争つたが、この南汲の争闘史は、爾後
ずつと最近の文壇まで継承して居るのである。即ち最近歌壇の中心勢力となつてるアララギ渡は、子規門下生
の囲結であつて、速く根岸汲の詩精神を系統して居るのである。彼等の歌人一波が、今日でも錦鳥生主義を奉
じて情緒を排撃し、西欧的な詩的構紳を恵んで、萬妻古典のタヲシズムを守著するのは、常時の「ホトトギ
ス」封「明星」の争闘史を、明らかに復習してゐるものである。その上にも彼等の歌人は、今日領事々に錬幹
を罵り、晶子を誹誇し、昔の師匠の江戸の仇を、今日の長崎で討たうとして熱意してゐる。白秋、啄木の如き
歌人等さへも、同じく新詩牡の系統に属することから、今日アララギ汲の歌壇人によつて恰悪され、敵意にみ
ちた感情で不正…笛に批判されてる。
 とにもかくにも輿謝野鱗幹ほ、ジャーナリストとして文学史上に特筆すぺき存在だつた。今日の文頓で、や
一丁
       些
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人物として多分に類似した所があり、特にジャーナリストとしての事業を一にして居る。ただ銭幹は、新日本
の浪濾的青春期に生れて詩人となり、菊池克は現代資本主義の末期に生れて小説家となつたにすぎない0此所
には杜合相の必然的な反映と推移がある。だがそれにもかかはらず、僕等の詩人が痛切に願ふところは、現代
日本に於て伶一人の新しき輿謝野錬革1詩的精神の情熱によつて日本の文壇を指導するところのジャーナリ
ストが、寵のやうに出現してもらひたいことの希望であるP