詩と性慾
音楽といふものは、恋をしてゐる時に聴くと耐らなく善いものだが、それの色気がない平時に聴いては、退屈以上に詰らないものだ。といふ意味の言葉を、室生犀星君がその随筆の中に書いて居る。如何にも室生君らしい我流の主観的な感想で、これが音楽の正しい鑑賞批判でないことは明白だが、確かにまたこの言葉の中にも、一面本質的な真理が含まれて居る。西洋の諺にも、女を連れずに音楽会へ行くのは、酒を飲まないで宴会に列席するやうなものだといふ言葉がある。元来言つて音楽といふものは、性感的の色気をエスプリに本質してゐるものらしい。(その証拠には、すべての音楽家はフェミニストで、極端には色魔的でさへもある。)
室生君の感想は、だが単に音楽ばかりでなく、抒情詩の場合にも共通するやうに思はれる。詩を読んで本当に陶酔的に感激するのは、自分の生活的主観の内部に於て、恋愛もしくはそれに類する情操のある時にのみ限られる。与謝野晶子女史が「歌を作らうと思つたら恋を探しなさい」と門下の弟子に教訓してゐるといふ噂は、多少の誇張があるとしても尚真実である。所で恋愛もしくはそれに類する情操は、概して青春時代に旺盛であることから、詩をよんで真に深く感動する時期も、やはり概して青年期に属するらしい。何れにしても詩のエスプリは色気であつて、音楽と同じやうな性感に存する如く思はれる。心に色気の水分が涸燥してしまつた時は、どんな詩を読んだつて面白くない。単に恋愛詩ばかりを言ふのではない。ボードレエルのやうな理智的の象徴詩や、バイロンのやうな男性的な悲壮詩を読んでさへが、やはり真の詩的陶酔を味ふことができないのだ。悲壮詩も、象徴詩も、感覚詩も、すべての詩の水原地帯は色気であり、それが無ければ詩の陶酔は味へないのだ。
能楽の完成者世阿爾は、その「花伝書」の中で能のエスプリを説き、藝術の本質は花だと言つてゐる。「花」とは「美」のことを言つてるのだが、単なる概念的の美ではなくして、エロチックの艶かしさを特質とする美を指してるのである。かう言へば人ほ、すぐフロイドの精神分析学を引き合ひに出し、一切藝術の本原は性慾だと片附けてしまふであらうが、自分は特に藝術中から、音楽と抒情詩をウルトラに抽象して考へてるのである。女と性慾を書かない小説は殆んどない。だが女と性慾を書かない抒情詩はざらにある。そしてしかも、詩は文学の中で最も性慾に密接した関係をもつものなのである。音楽について言つた室生君の言葉を、詩について今一度言つて見よう。「詩といふものは、恋をしてゐる時は耐らなく善いものだが、それの色気がない間の時は、退屈以上に感激のない文筆である。」