日本の都市
白柳秀湖氏は、今の日本に稀にしか見ない真のオリヂナルの思想家であり、その民族文化の歴史批判には、
常に教へられる所多く、兼々僕の畏敬してゐる人であるが、最近都新聞紙に発表された一文(都市と城廓)を
よみ、その論旨に若干疑問を生じたので、あへて此処に一文を草し、重ねて氏の啓示と解答を乞ふことにした。
白柳氏は、日本の都市に城壁がなく、支那西洋のそれの如く、城壁の中に囲まれてない事実を以て、日本人
の残虐性が無いことの証左としてゐる。日本人の気質が他の外国人に比して淡泊であり、悪魔的執拗の残虐性
を持たないことは、たしかに氏の通り事実であらうが、そのことの一証左として、日本の都市に城璧の無いこ
とを挙げられたのは、聡明な氏の議論として、いささか妥当性を欠くやうに思はれるのである。なぜなら先づ
第一に、日本の都市の発達が、外国のそれとちがつて居るからである。
支那は暫く別として、欧洲諸外国の場合で言へば、ローマでもカルタゴでも、または希臘のアゼンスにして
も、すべて都市そのものが一国家であり、市民そのものが全体の国民なのだ。故にローマの町を囲む城壁は、
ローマ帝国全体の防壁であり、国防上に必須不可欠のものであつた。然るに日本の場合は之とちがつて、都市
が一国家の城塞を意味しなかつた。日本の都市の発達は、或一領主が自己の居城とした城下を目ざして、多く
の商人や工芸師やが、あだかも水草を追うて転々する遊牧の民のやうに、各地から群集して来たものに外なら
ないのだ。一旦戦争が勃発し、領主の居城が敵手に落ちた場合となれば、彼等の群集して来た住民たちは、各
自に財を畳んで離散してしまふのである。都市に対する根本の観念性が、日本人と西洋人とで、大に異なつて
ゐることを知らねばならぬ。「死して尚ローマを守らん」といふやうな真の市民的な愛都心は、日本の昔の江
戸人にも大阪人にも無かつた。「我等の巴里」といふイデーの言葉は、今日尚二十世紀の仏蘭西人にも遺伝的
に残つてゐるが、「我等の東京」といふ強い言葉は、今日僕等日本人の情操には殆どない。
日本の都市に城壁がなく、無防禦に曝されたことの真の理由は、自柳氏の解するやうに、日本人に残虐性が
なく、したがつて敵からの掠奪や虐殺を受ける恐れが無かつた為ではなく、実には前言つたやうな理由
― 日
本に真の市民的都市が無かつた理由 ―
なのである。戦争の場合には、敵の兵が来て第一に先づ城下町を焼い
てしまつた。町人百姓の生命や財産に対しては、日本の武士と雖も、戦争の場合に必ずしもキリスト者ではな
く、むしろこれを一顧だにしなかつたのだ。勿論日本人は、支那兵式の悪どい残虐や掠奪はしなかつたが、そ
の住宅を兵火に焼いて一掃し、市民の生命財産を灰燼に帰さしたことは事実である。しかもその被害者たる住
民たちが、これに対して自己の正当防禦をしなかつたのは、彼等が真の「市民」でなくして、利を求めて領主
の城下に寄寓するところの、単なる「集散離合」の徒にすぎなかつたからである.
注意すべきことは、日本の戦争がすべて皆一種の内乱であり、支那や西洋の場合のやうに、異人種との争闘
でなかつたといふことである。異人種間に於ける戦争では、負けた方が民族的の全滅を意味してゐる。ローマ
人との戦争に於て、カルタゴの都市が落城した時、その市民は一人残らず虐殺され、或は奴隷として拉し去ら
れた。それほどでない場合としても、征服者の為に圧制されて、苛酷な政治的支配を受けねばならない。然る
に日本の長い歴史は、蒙古の侵略を除く外、惹く皆内乱の戦争史である。しかもその内乱は、西洋の宗教戦争
や階級争闘のやうなものでなくして、単に武士階級の権力争闘にすぎなかつた。一般庶民に至つては、初めか
ら全く戦争と没交渉で居たのである。源氏が勝たうと平家が勝たうと、彼等の百姓町人には関係がない。元の
領主が亡ぼされ、昔の城下町が焼けた後では、新たに更立した領主の膝下で、彼等は再度またその同じ城下町
を建設した。
支那の都市が城壁で囲まれてゐるのは、支那がその建国以来、絶えず異人種の侵略に悩まされて居たからで
あり、一にはまた、匪賊の掠奪を自衛する為の必要だつた。もとより支那には、西洋のアゼンスやローマの如
き、真の市民的都市は無かつた。しかし異民族や匪賊に対して、自己の生命財産を防衛する為、彼等もまた西
洋人と同じやうに、都市を城塞化する必要があつたのである。世界の中で、独り日本の都市だけが無防禦であ
り、戦火の前に木つ薬の如く焼き払はれ、しかも一人の市民さへが、あへてこれを自衛しようとしなかつた。
そしてこの理由は、果して白柳氏の思惟するやうに、日本人の倫理的国民性に基因するからだらうか。思ふ
に此所には、もつと深遠な民族性本質に基する問題がある。
僕の考へるところによれば、この間題に関する根本の解決は、日本の過去の歴史に於て、真の庶民的デモク
ラシイが無かつたといふことの外 ―
その点では支那も同じである ―
日本人の仏教的無常観に因する如く思
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すべての日本的なものは流樽して居る。「諸行無常」「是生滅法」「甫有流痔」「攣化一定」の悌教思潮は、日本
のあらゆる文化肇術に一文してエスプリし、貌に就中その建築物に於て新著である。古来我が国には、支那西
洋に見る如き憶久的建築物が一も無かつた。我々の家は紙と木とで脆く造られ、一朝風火に逢へば忽ちにして
虚無に辟する。
日本の都市が、古来長い間の戦火に封して、全く無防禦のままに放任され、しかも市民たる居住者等が、こ
れに封して何等の自己防衛もしなかつたのは、思ふにかうした日本人の俳教的虚無思想(諸行無常観)にょる
のである。約半世紀毎に襲つて来る週期的の大地震や、殆ど紹間のない火災によつて、既に何同となくその首
都を衣燥にされながら、僕等の先組は何の伍久的防衛法も講じなかつた。そして地震が経つた後で、忽ちまた
同じ大都合を建設し、一旦離乳した全人口が、一人残らずまた集合して辟つて来る。支那の最も貧しい農家で
さへが、煉瓦と沢土でコンクリート式に造られてゐるのを見る毎に、我等は日本の家の果敢なさを考へ、萬有
流捧の無常現によつて生活しながら、しかもその流動によつて不断に攣化し、不断に新しい文化を創造しでゐ
るところの、ペルグソン的進化人種を考へずに居られない。日本の都市に城壁が無かつたことは、自柳秀湖氏
の思惟するよりは、もつと深い意味が底にあるかと思ふのである。
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∫4′ 日本への岡締