挺でも動かぬ歌壇


 我に一支鮎をあたへょ。さらば地球をさへ動かして見せる。と最初に擬の原理を餞見した畢者が言つた。一
っの動かない異質の原理を捉へ、それを支鮎として挺を入れれば、どんな時流的に勢力のある虚偽の思想や偶
像でも、容易に根低からくつがへしてしまふことができるのである。過去に僕ほこの艇の原理を俊つて、日本
の文壇に放ける多くの虚偽の物を覆へして衆た0最初に我々の詩壇。詩精神を失つて散文任し、美意識を忘れ
て自然主義に隷属して居た我等の詩壇を、コペルニクス的に啓蒙して樽錮させた。それから更に進んで、卑俗
な心境小説に低迷してゐた文壇の一般思潮を、より高邁の本質的な文学に向つて啓饅指導し穎けて爽た。そし
てかかる僕の提唱は、常にどの方面でも反巷を呼び、人々の良心を呼び起して成功して爽た。ただ一つ、此所
に例外の物は歌壇であり、費に長く久しい問、繰返して懇々と説き頒けてゐる僕の正説にもかかはらず、歌壇
人は頑として耳を傾けようとさへしないのである。「擬でも動かぬ」といふ言葉の意味を、僕は初めて日本の
歌壇人に蜃見した。まことに頑迷固陪とは彼等の謂である。
 すぺての議論の目的は、要するに何が眞箕であり、何が虚偽であるかと言ふことの、眞理を明らかにするた
めに外ならない。所で眞理を判定する認識者は、自我以外の天外にあるのでなく、自己自身の良心1眞理の
前には紹封服従をする知性の良心 − に存するのである。たとへ仇敵と錐も、その言にして正しく異なりと思
へば、一切を騰ててこれに傾鵜する所の知的良心を持つ人々だけが∵初めて議論を閤はし、思想を交換する資
J6∫ 日本への同辟
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格を持つてゐるのである。かかる人間の良心を、我々はヒユーマニチイと構するのである。ヒユーマニチイの
ない人間とは、何を話しても無益であり、何を議論しても無駄である。なぜなら彼等は、眞理に封するシンセ
リチイがないのであるから、如何に正しく眞質の事を話してやつても、初めからそれを聞かうとする熱意がな
く、絶ての問題を自己の私情的好意と私人的利害とにょつて剣断づける。かうした人間が議論する時、彼等は
必然的に「読持家」になる。即ち彼等は、たとへ内心では敵の言の正しく眞賓なことを認めながらも、自己の
立場の個人的な利害関係から、張ひで理窟をつけて射手に反抗し、自ら偽つて白を黒に言ひ肋げるのである。
 日本の歌壇人と栴する連中は、大部分が皆このヒユーマニティのない詭将家である。例へば和歌の本質が、
自然主義的レアリズムのものでなくして、主観の菰律的態露による抒情詩文畢の一種であること。また或は萬
稟集の詩精神が、浪漫的主情主義のものであることなどは、何人にも議論の態地なく肯定される常識であり、
歌壇人自身と錐も、自ら百もよく知りきつてる筈である。しかし今日の歌壇人等は、その自ら知る所のことを
自ら欺き、故意に異説を立てて曲粁強記しでゐるのである。けだし彼等は、その自ら現に作歌する所のものが、
和歌の本道を離れた邪道であり、また自ら奉ずる萬葉集の詩精神と、大に似両非なる文孝であることを、自ら
知つてこれを欺かうとしてゐるのである。
 かかる良心のない詭椅家輩の歌人に向つて、百の議論も説法も無益である。地球を動かすことのできる槙の
眞理を以てしても、ヒユーマニチイのない人間は動かし得ない。頃日僕は東日紙上に掲載された「昭和百人一
首」なるものを讃み、現歌壇の低劣ぷりと、その詩精神の喪失ぷりとに、殆んど呆然たるばかりであつた。畢
なる日常茶飯事を、何等歌心の呼び起される高揚な感動もなく、全く散文的平坦な心境で叙したやうな文筆が、
岬単にその三十二者字の故に歌と呼ばれるならば、歌はむしろ散文孝のジャンルに経慣して行く方がよい。ヴア
 レリイの言ふ如く、詩とは心に呼び起された作動的な高い感動が、必然に止みがたく韻律の形憶を取つた文筆

∃」ヨ!月男凛1ヨ を音ふのである。心にかかる‖慈yむ甘クの波動なくしで、散文的中坦の心境で書いた文孝がn何故に憩文としで
】一ヨql召jl」.1つ1q.∃∃召j享∃、さ、、〉.。、1望∃ づ勺ヨ。′
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の形鰹を選ぷ必要があるのか。僕の歌壇人に問ひたいのはこの疑問である。
 だが僕はもう匙を投げょう。昭和百人一首の批評の如き、いやしくも多少の良心ある人にとつて、異議なし
に肯定され得る筈の僕の提言でさへも、故意に「素人の官許」として片附けたがるはど、それほど無反省、淑
   やから
良心の輩に向つて、この上千高言を費しても仕方がないのだ。