詩を小説で書く時代


 最近文壇で許剣になつた傑作の小説は、永井荷風の「浬東綺詔」林房碓の「壮年」阿部知二の「冬の宿」川
端康成の「雪国」等であるが、不思議に皆これらの小説が、一種の散文詩と言ひ得るはど、詩的楕紳の充質し
たものはかりだつた。たとへば「浬東綺詔」は − 佐藤春夫の反駁があるにかかはらず − 本質に於てりリシ
ズムの情感が強く溢れた文筆であり、「雪国」もまた同じやうに美しい抒情詩であつた。「壮年」は抒情詩では
ないけれども、これまた同じくヒロイツタな叙事詩(英雄詩) であつた。
 此所に痛切に考へられることは、今日の日本に於て、僕等の詩人が「詩」を失つてる時、ひとり小説家だけ
が清羅して、エスプリの高い諸を書いてるといふ事である。詩人が詩を書かず、詩人が詩を失つてゐる時、散
文家である小説家が、詩人に代つて逆に諸を書いてるといふことは、とりも直さず今日の日本文牝が、過渡期
の混沌時代であることを澄明してゐる。なぜなら文化の過渡期に於ては、国語の混乱その他の事情に崩されて、
眞の「詩」と呼ばるぺき奉術が教育できない運命にあるからである。近代のせ界史に放て、十九世紀の露西歪
∫アノ 日本への同婦

がさうであつた0トルストイやツルゲネフを初め、あれほど多くの世界的大作家を生んだ近代露西亜が、プー
シキン以来、殆んど一人の詩人も生まなかつたといふことは、常時の露西亜の国情が、丁度今日の日本と同じ
く、西欧文化の愉入によつて、過渡期の混乱時にあつたからである。周作人民の談話にょれば、現代最近の支
那の文壇が、やほり日本や露西亜と同じである。即ち今の支那では、文筆イコール小説といふ有様であり、濁
り小説のみが繁盛して、詩は全く文壇の一隅に押し込められ、殆んど人々から巌られないさうである。周作人
氏は、この詩の不振について説明し、その理由を現代支聖仰の混乱と未完成に辟してゐるが、この支那の事情
は、てつきり僕等の日本にも官るのである。
 しかし文化の過渡期といふものは、言はぼ一国の革新的青春時代である故に、文学上にも杜合上にも、詩精
神の最も強く欲求される時なのである。しかもその欲求される詩精神は、詩垂術の形態を持つことができない
ので、止むなく散文に解消し、小説等の形になつて表現される。十九世紀末に於ける露西亜の小説が、エスプ
リに於て轟く皆一種の詩1しかも非常に情熱的な詩1であつたことは、普ねく人の知つて驚くところであ
るけれども、現代支那の小説が本質に於ての詩文拳に顆することも、魯迅等の讃者がょく知ることであらうと
思ふ0つまり言へば彼等は、「詩を散文の小説で書いてる」のである。そしてこの事情は、明治以来の日本文
畢史上に於ても同じであつた。
 中村光夫氏は、その川端康成論(中央公論十二月班)の中で、川端氏を許して「抒情詩人」と呼び、且つ日
本に於ける長の抒情詩が、文壇のいはゆる詩人にょつて作られずして、川端氏の如き小説家にょつて創作され
てる革質を指してるが、正にその通りであるかも知れないのである。中村氏も書いてる通り、日本の詩人と栴
する者は1かつて何一つ詩人の文化的使命を果してなかつた。詩人の使命は、その直敷にょる文化の批判と指
導であるぺきのに、日本の詩人は、軍に詩作家としての工作以外に、何の融合的文化関心も持たなかつた。ヨ
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論家によつて指導された。
 明治以爽、新日本の祀合が借感したすぺての悩み、すぺての希望を、それの文挙に於て張く訴へ、高く抒情
した人々は、箕に高山樗牛や北村透谷のエッセイストであり、そして南木田濁歩や、岩野泡鳴や、二葉亭四迷
や、永井荷風や、芥川寵之介や、佐藤春夫やの小説家だつた。彼等の作家群は、すぺて本質に於ける抒情詩人
であり、また叙事詩人であつた。然るに一方で、所謂「詩人」と自縛した人々は、この牛世紀の新日本で、一
膿何をして来たのだらう。おそらく彼等の為したことは、英詩や彿蘭西詩の模倣をし、それのハイカラな香気
を嗅いで嬉しがつたり、欧洲詩壇の最新流行を追つてモダンを誇つたり、或は古典に掃つて雅語の美文的惨辟
をもて遊んだにすぎなかつた。彼等の頭脳の中には、いつも外圃詩や、古典の「俸節季」が充満して居た。そ
して彼等が現音に生活してゐる、眞の社禽的情操は少しもなかつた。つまり彼等は、眞の「生活」を持たない
ところの、基底な「修新家」にしかすぎなかつた。日本で「詩」と構する文学は、概ねこの修新家が作つたと
ころの、気取つたダンヂイズムの文孝遊戯に外ならない。もしそのダンディズムと、ぺダンチックと、エキゾ
チシズムとを除いてしまへば、日本の詩に残るものは何物もない。眞の「生活」を持たない詩人に、如何にし
て眞の「抒情」があり得るだらうか。日本の文壇に於て、輿の抒情詩人と呼ばるぺき作家が、いはゆる詩人の
側になくして、却つて小訟家の側にあることの不思議を、此所でさらに考へねほならないのである。
 ではそもそも、何故に日本の詩が、かかる崎型的な蜃育をし、無意味な文学遊戯に経つたらうか。その理由
を尋ねれは、再度前述べたことに腐るのである。即ち文化の一大過渡期に於ける、国語の不統一と混乱とによ
るのである。おょそ今日の日本の如く1言語が支離滅裂に狼乱し、季術性を失つてる時代はない。このことに
ついては、僕もかつて他でしばしば論説したが、先日或る座談倉(国際文化普及曾) に出席し、識者諸氏の日
∫アj 日本への同鰐

本語論をきいて一層驚きを新たにした。その合の出席者は、専門の図筆者や言語筆者を初めとして、何れも日
本語研究で名を知られた権威者だつたが、その人々の結論は、要するに現代の日本語が、研究に手が附けられ
ないはど混乱し、かつ世界の歴史上にも、類例がないほどデタラメで獲雑な言語だと言ふことに一致した。第
一外国人に日本語を敦へる場合、文法のグラムマアがないのに困ると皆が言つた。現代の日本語は、文法のル
ールを作ることができないほど、未完成に猥雑を極めて居るのである。かかる未完成の言語によつて、韻律の
美挙法則を蜃見したり、圃語の補筆と言はれる最高奉術の詩を書いたりするのは、おそらく木によつて魚を求
めるより室難であらう。今日のやうな日本に於ては、すぺての「詩」と「詩楠紳」とが、散文にょつて書かれ
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る外に道がないのだ。しかも我々の詩人たちは、単なる詩といふ観念の妄執から、無理にもかかる言語をもつ
て、諸作品の奉術形態を探さうとした。
 明治以衆、日本の詩人が熱意したすぺてのことは、資にただこの一つのこと − 詩作品の褒衝形態の摸索
 − といふことだつた。しかもそれは、今日迄全く無益に絶つてしまつたところの、姦しく悲しい絶筆の熱意
であつた。そしてこの図のあらゆる詩人は、悲惨にも肯この熱意にょつて憶俸し、この熱意のために憑かれて
しまつた。「藷を作るよりも、先づ詩の形態を。」と人々は考へた。それからして彼等は、避けがたく皆「修辞
筆者」になつてしまつた。そして眞に「詩人」であることを忘れてしまつた。即ち言へば、異に人生を生活す
ること、眞に人生を抒情すること、眞にポエヂイをポエムすることを忘れてしjひ、軍なる修辞畢の技工人に
なつてしまつた。原則として、詩人は常に悲劇人である。だが今日の日本の如く、詩人が悲劇人である類例は
世界にない。
 僕のとこしなへの悔恨は、かうした過渡期の日本に生れて、僕が過去に小説家でなく、詩人として一貫して
衆たことである。僕がもし早く詩と告別し、小詮を書き績けて来たならば、僕の貧しい才能を以てしても、す
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ョくなくとも今少し豊富に自我を語り、現代日本に於ける一生活者としでの宅鶴を、より自由に破く抒情し、且
      っょり高い文争的償値で作品することができたであらう。詩黍術の有り得ない現代の日本の国語で、詩肇衝を
      作らうとして焦燥し、無益に文学才能を浪費し表してしまつたことは、僕にとつてとこしなへの「過失」であ
      った。しかし僕は、今さらその過失を、自ら嘆かうとは思つてない。むしろ僕は、それを自我の「宿命」だつ
      たと考へてゐる。なぜなら眞の純粋の詩碑押は、所詮いかにしても、詩形態による外に表現の法がないからで
      ぁり、その詩形態を摸索するのが、日本に生れた詩人の義務でもあるからである。勿論前に言ふ通り、詩精神
      は散文の小説でも表現できるし、それが今日の日本に於てほ、最も聴明な方法でもある。然し散文で書いた詩
      棉紳は、委するに詩楕紳の生気なき横為にすぎない。眞の高揚した純粋の詩精神は、それ自身が心に波亨フつ
      ところのリズムであり、書架と同じやうに、言葉それ自身のメロヂイから、調べ高く節奏され、知覚から知覚
      へと、直ちに感能されるものでなければならない。散文で書いた話精神は、かかるリリックを鮮治して、観念
      の上に説明づけ、客観によつて描馬し、感動のない裁適によつて平面化する。すぺての散文はリズムを持たな
      い。そして領律を持たないものは、本質上に於ての詩文孝ではないのである。なぜなら詩梢紳が訴へょうとす
      る思ひは、必然に調律の音楽を呼ぶからである。詩は韻文を離れて成立し得ない。
       僕の過去の歴史は、現代の日本語に賓在せず、また箕衣し得ない「調律」と「詩黍循」とを、杢しく摸索し
      て来たことの漂泊だつた。しかも僕は、自分の努力の無益を知り、その愚かさを充分によく知つてながら、筒
      止みがたく流浪の漂泊を穎けて衆た。なぜなら僕の心の底に、常にその表現を求めて止まない、必死の詩精神
      が有つたからだ。しかもその詩楠紳は、散文によつては輌詳が出来ないところの、眞の純粋の詩精神であり、
      眞の高揚したリリックだつた。例へ日本語が絶望であり、詩形態が資に有り得ないものとしても、自分の文学
      を生きるために、無理に自分はそれを求めなければならなかつた。そして僕は長い間、過去に未完成の詩人と
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して、文筆の故郷を持たない、あはれな漂泊者として生活して衆た。僕の詩人として生きたことは、とこしな
へに失敗の過失であつた。だがその過失を、どうして僕が自ら避けることが出来るだらう。なぜならそれが、
この圃に生れた僕等詩人の、皆人共に避けがたい宿命であるからである。
 所でしかし、かうした僕等の悲劇を、文壇の誰れが知つてくれるのだらう。「今日の露西正に於ては、詩人
の為すぺき仕事を、代りに小説家が為してゐる。此所に我が国文化の、悲しむぺき政略が語られてる」と、か
つて十九世紀の露西亜に於て、メレヂコフスキイを嘆息させたところの、その同じ「嘆息Lが、一も現代日本
の文壇から、嘆息されてないことを怪しむのである。反対に彼等は、詩人の為すべきことを、代りに自ら為し
てることに満悦して、詩人無用論を構へたり、詩磨滅論を栴へたりしてゐる。周作人氏でさへも、現代支部に
於ける詩の不振を肯定して、現に支那に有り得る文学は小説のみだと首ひながら、それにもかかはらず、やは
り支那が眞に求めてる文学は詩であると言つてるのだ。もとより僕等の詩文孝は、拳術的慣値に於て未熟であ
り、諸君の嘲笑に償するものであるかも知れない。だが僕等の「作品」を嘲笑するといふことと、詩人の「理
念」を嘲笑するといふことは別である。つまり詳しく言へば、日本に眞の詩文挙がなく、僕等の作品がガラタ
タであるといふ認識は、詩人を嘲笑するための認識でなく、逆にこの穎望的な理念に向つて、悲壮な文化的苦
闘を績けてゐるところの、現代日本の詩人に封する、同情や尊敬の認識となるぺき筈だ。もしまた我等の詩と
詩人とが、過去に崎型的の蜃青をし、基底な修辟的ヂレツタンチズムに低迷しで、一も眞の詩人や詩文早を生
まなかつたといふならば、その事賓の中にこそ、現代日本のあらゆる文化的映陥が指摘され得る。そして不幸
な詩人たちが、彼等のインテリゼンスの敏感さから、身を以てその秋陥の穴に跳び込み、時代の人柱的犠牲者
になつたのである。これをしも筒諸君は、詩人の迂愚として笑ひ得るか。
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響甘乱寸息作人民の談話によれば、今の支那には、二浪の詩人が居るさうである.」は支那古典の倖統語形を護る漢詩人で−ノ
         は現代支郡の口語を用ゐる新漁の自由詩人である。然るに前者の古典詩は、唐、宋以来、明を経て既に完璧の域に達し、
         今日では新しき敬展の飴地がない上に、古語の漢文そのものが、時代の生きた情操と合はない為に、支部の現文壇では骨
         篭扱ひにされてるさうである。所で後者の新渡自由詩、印ち時文や白詩文の現代語で書いたものは、言葉の過渡期的混乱
         に鍋されて、眞の朝律美もなく肇術形態もなく、本質上に詩としての洩味や魅力を軟いてるため、これまた一般に迂遠さ
         れ、文壇的にも無償備に冷遇されてるさうである。そこで要するに今の支部には、詩文挙が存在しないことになるのであ
         るが、この事情は日本にそつくり同じである。日本に於ける和歌や俳句は、今日正に支那の漢詩と同じ運命に置かれてあ
         るし、僕等の作る新汰自由詩は、支那のそれと同じく、全く蛮術品として未熟であり、本賀上に詩としての魅力を軟いた
            ものが多いのである。