自然主義を離脱せよ
         歌壇に与ふ

 斎藤茂吉氏は、作品に於て現歌壇の一人者であるばかりでなく、評論に於てもまた歌壇唯一の帝王者である。
論旨の正邪はとにかくとして、その気風の高邁にして独創に富み、堂々他を圧する態の気概と情熱をもつてゐ
るところ、以て当代の偉観とするに足るところである。現代の歌人概ねその詩精神を失喪して、いたづらに節
句の小技を玩弄彫琢し、宗匠的偸安を能としてゐる時、その歌にその評論に、独り真の高邁なるポエヂイを掲
げで勇猛するもの、おそらく茂吉氏をおいて他に類を見ないであらう。
 この意味に於て、僕が茂吉氏を深く尊敬することは人後に落ちない。しかしながら氏の歌論に見る表の濁
断的詭締性は、僕の断じて承認できないところである0況んや茂吉氏の歌壇的位地と、その率ゐるアララギ汲
の集人的背景とを以て、世を著し人を誤り、和歌の正道を昧くし、詭将曲説して世の青年子弟を欺くことの罪
                 のつと
を思へば、僕また天地の理性に則り、私情を忘れて之れと抗争せざるを得ないのである。
 茂書氏及びアラヲギ渡の表は、昔から「焉生主義」を稗造し、それを以て自家歌寧の中根智寧とし、竺
のイデオロギーとしてゐるのである0馬生主義とは何だらうか0子規の説くところにょれば、自然をそのまま
の印象に於て、何等の主観を加へず、忠音に馬生するといふことである0そしてこの馬生主義が、妄に「ホ
†トギス」のいはゆる馬生文となつて態達し、後に西洋輸入の自然主義と混同して、日本の文壇に特玖の散文
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一一一一ヨ一一一ヨ一一
蓑蜜八の知も≠キ)あ恕あ患−それ故に欝生主義と自然主義とはr軋ての文畢的頼紳に於て、
元衆、本質鮎を共通するイズムである。もちろん子規の構へた克生主義には、自然主義のやうな哲寧ハ賓讃諭
的唯物主義の人生観)は漉かつたけれども、挽主観の印勤王義を構へた鮎は同じであり、言はば「素朴的自然
主義」と皇ロふぺきものであつた。この子規の門下に属し、同じイズムの流れを汲んだアララギ汲が、過去に
於て浪漫主義の歌風を排除し、文壇の自然主義小説と併行して、長く歌壇に王者の覇権を濁占したのは、ジャ
ーナリズムの時流から見て宮然のことであつた。つまり常時の文壇指令が、紹封樺威のオーソリティによつて、
泣主観主義を栴へた時、彼等のアラヲギ汲もまたそれを稀へ、文壇がロマンチシズムを排斥する時、彼等もま
たそれを排斥し、そして常時の文壇小説が、茶呑謡のやうな身遽小説を書き、日向ぼつこのやうな心境小説を
書き、退屈な日常茶飯を筆記して、それが文撃の最善最高のリアルだと考へた時、彼等焉生主義の歌壇人も、
同じやうに身遽記事的な歌を作り、タダゴトの日常事を歌ひ、以てそれが眞に最善の究極を蓋した和歌であり、
且つ歌道の正道であると思惟したのである。
 しかし既に自然主義が崩壊し、その文壇的オーソリチイの指令植を無くした今日では、かかる馬生主義者や
アララギ汲の歌撃に勤して、何人皇目信することが出来ないのである0むしろ彼等は、その自然主義的なる文
撃精神を奉じたところに、詩文撃の悼むぺき殺教者としての、本原の「原罪」を責められるのである0なぜな
ら自然主義そのものが、本来アンチ・ポエデイ運動であり、詳精神の封舵的反動として、詩精神を亡ぼすこと
を目的としたものであるから0話精神の本渡は、美と、イメーチと、情絹と、飛躍である0然るに自然主義は、
すぺて此等のものを虚妄〔非現賓のもの)として排斥した。自然主義のエスプリと詩文撃のエスプリとは、い
かにしても両立できない矛盾である。即ち自然主義琴見れば諸は亡び、語彙えれば自然主義は磨滅する0しか
もアララギ汲の馬生主義は、この自然主義の美学に則り、これをモットオとして奉じたのである0その歌学の
∫∫∫ 日本への同辟

究極する所が、所詮して「詩の殺撃に膵することは言ふまでもない。彼等の馬生主義歌論を以て、僕がきぴ
しく「原罪」と言ふのはこの放である。
鳥生といふことは、詩作に於ける一つのメソッドであり、畢なる方法論にしかすぎないのである。たとへほ
特に、初等の人が歌や俳句を寧ぷ時に、馬生から入るのが最も便利な方法である。それは歌の技巧やレエソツ
タを覚る為に、最も有益にして安全な遥かも知れない0しかしながら単にメソッドであり、決して「主義」な
どと稗すぺきものではないQ然るにかかる方法論的なものを以て麗々しくも主義と構し、歌道の第一原理的な
イデーに迄こねあげた為、そこに必然の破綻が生じ、無理な屁理窟が附合されて、遽に今日斎藤茂蕾氏等にょ
つて代挿されてゐる如き、言語の正しい限定牲をさへ踏みにじつた牽強附合なソフイスト的詭群が生れたので
ある。
 メソッドとしての馬生讃を稀へた人は、子規の前にも既に幾人かの歌人があつた。例へば香川桂題がその一
人であつた0梓園は弟子に敦へて、常に目前の事物や現象やを、その有るがままに端的に歌へと言つた。けだ
し香川桂園は、償時に於ける俸統的の宮廷歌人が、和歌の因製的な背態観念に捉はれて、何等現質的賓感のな
い茎虚な美辟を弄してゐるのを、新しきリアルにょつて排撃しょうとしたのである。そして明治に於ける子規
の立場が、丁度これと同じやうな位置にあつた0即ち彼の馬生主義は、昔時の遊戯的な背振和歌に抗争して、
短歌の新しい生命を啓かうとしたのである0故に子規の場合では、その為生主義のイズムが啓蒙運動の意義と
なつてゐるので、その「主義」といふ語のエスプリは、むしろ「為生」に関するのでなく、封歌壇的の「啓蒙
破邪」に紳つでゐたのだ0然るに子規門↑の歌人等は、既にその啓蒙破邪が完了した後の時代に於て、師の馬
生玉義を解批判に冶承した魚、メソッドを以て主義とする如き誤謬に陥入り、引いては牽強附禽の強碑をさへ、
 自家絆護のためにあへて銭ねばならなくなつた。
≡巨卜Elllll
                                               一ヨ
 馬生主義が歌の方漁論にしか過ぎ童女をてれが詩歌のモサトオすかTき椅紳で喜とは、誇粁紳
の本質について考へる時、何人にもすぐ解ることである。
 そもそも詩といふ文寧は、人間の主観する惰性が、自然や人生の現象について、何かの深い感動を受けた場
合に、おのづから表現される文拳である。たとへば崇高雄大な自然に揺する時、もしくは明朗優美な風光に接
する時、人はおのづからにして歌心を起し、詩歌や俳句を作るのである。この場合の「歌心」とは、即ち主観
の感動であり、これなくして虞の諸の作られることは有り碍ない。(もし有るとすれば、それは似而非の作り
物である。)故に詩歌俳句の目的は、封象に呼び起されたる、かかる主観の感動を、それのリズムによつて歌
ひあげょうとする意志にあるので、必しも対象そのものを、克明に葛生記述しょうといふ鮎にあるのではない。
この鮎について言へば、姶歪もまた詩と同じである。董家が檜を描くのは、対象の自然によつて呼び起された
美の感銘を、永く蓋布に留めようとするのであつて、かの記銭易眞師の如く、現にその対象を記故に残さうと
いふのではない。故に檜垂の目的とする所は、畢に対象を克明に馬賓するといふ鮎にあるのでなく、結局して
「美」を轟くといふ鮎に壷きるのである。従つてまた檜査の償値は、一切美的債億に意きるのである。そして
美的債値とは、戟者に胱惚の魅力をあたへる者をいふのである。
 詩歌の鑑賞に於ける償侶も、給妻と同じく唯一の美的償偶に表きるのである。叙景詩にまれ、抒情話にまれ、
すぺての善い詩と言はれるものは、讃者に深い胱惚の魅力、即ち「詩美」を感じさせるものを言ふのである0
そしてかかる詩美は、作者の表現に際する感動の探さ(歌心のデグリー)によつて、おのづから償値を決定す
るのである。古来、多くの秀れた詩人や歌人は、人生や自然について、常に非凡な感動性を所有する人々だつ
た。故に、たとへば、赤人のごとき歌人が作つた、多くの自然叙景歌を見よ。彼等の歌は、決して畢に自然を
無慮動でスケッチサる−これが自然亜義の教へた美挙であづた】ではない。彼等の歌人は、自然の美や雄
J∫∫ 日本への同好
▼!

大さに心を打たれ、その主観の強い感動を押へることができないで、おのづからにして歌心が詩を為したので
ある0即ち言へほ、彼等は自然を「馬生」しょぅとしたのではなく、主観の呼び起された実の感動を、韻律に
よつて「歌はう」と欲したのであるQ故に人膚や赤人やの歌は、いかに純叙景的、純自然指馬的の作であつて
も、おのづからそこに朗々たる音楽があり、主観の高揚した、りリシズム(歌心)が押へがたく必然に現はれ
て居るのである。
今の歌壇人の自然叙景歌を、かかる古人の歌に比較して反省する時、讃者は既に説明を待たずして、いかに
今の歌人が本質的に似而非物であり、眞のりリシズムを持たない技巧の細工歌人であるかが辟るであらう。彼
  ハート        ヘ ッド
等は「心情」で歌を作らずして「頭脳」で歌を作為してゐる0故に彼等の歌には、馬生があつてポエヂイがな
く、招馬があつてリリックがないのである0しかも彼等は、自らその非を自覚することなく、却つて「知性的
に透徹したもの」と自惚れて考へてゐる0そしてかかる笑ふぺき妄想が、歌それ自鰹の詩精神を根本から殺致
したところの、かの古い自然主義の先入見であることさへ、倍として自ら知らないでゐるのである。此所に至
つて讃者は、克生が単なる手段であり、初畢生の方法論的メソッドにすぎないこと、そして「馬生主義」など
と構するものが、断じて詩歌に有り得る筈のものでなく、また有つてはならないものだと言ふことは、おのづ
から分明に脾るであらう。
 茂吉氏によれば、馬生主義とは賓相観入のことであり、対象の眞如にふれて、主客が融合することだと言ふ。
これは子規の素朴な馬生主義を、大乗的に止揚したものと考へられる0しかしかうなつてくると、北原白秋氏
などが前から言つてる、賓相観照説の顆と同じであつて、すぺての叙景歌に究極するイデーであるから、為生
玉義とい彗蓑が、外延的に飛散し意味を為さない宝岬になる○子規の構へた馬生主義は、事物を畢にその印
象通りにスケッチせょといふ、極めて畢純明白の主義であつた0それをこんな風に姻り持ちして鈍璽呈のは、

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ヨ一ll廿背か妄附合の屁理窟と雷ねば鞋もぬ。dキ更里貰鯛観入なんかl育ふ位なも卜⊇鹿生主義ム心lいふ素朴な
        言葉は、思ひ切つて捨ててしまつた方が好いのである。
        かうしたアララギ一晩の牽強附合は、萬集の鮮蒋に於て最も詭頼的に甚だしい。彼等の併読にょれば、人麿
       でも、赤人でも、憶艮でも、家持でも、殆んどすぺての萬葉歌人は、馬生主義のイズムの忠賓な信奉者であり、
       そして萬葉の歌の殆んど全部は、彼等のいはゆる焉生歌だといふことになる。彼等はそれを強祝する為、あら
       ゆる詭粁的な論澄を試みてゐる。しかし世の中に、これほど白馬非馬的な詭群はない。あの火のやうな相聞歌
       や、雄渾な放情歌を作つた常葉歌人が、後世に「焉生玉義者」といふ名で呼ばれ、アララギ一汲の始組として
       舛謹されてゐることを知つたら、おそらく地下で苦笑を林がずることができないだらう。かかる強将の最も著る
        しい一例として、柿本人麿の有名な歌


          もののふの入十氏川のあじろ木にいさよふ浪の行方知らずも

       を評滞して、斎藤茂吉氏が「馬生主義によつて歌はれた馬生歌」 である如く説いてゐるのである。これがもし
       馬生主義の歌だとしたら、天下あに馬生主義にあらざる歌あらんやである。彼等の師たる正岡子規でさへが、
       この人麿の歌を許して、自己の主張とは少しく異論のある歌だと言ひ、篤生主義の本道ではないと言つてゐる。
       つまり子規は、「もののふの八十氏川」といふ如き序詞の手法が、鳥生的レアリズムの表現でなく、無用にし
        て冗漫なる美的修靡にすぎないことを言つてゐるのである。子規の如き自然主義的レアリズムの歌人から見て、
        この種の歌が畠ちがひのものであり、趣味的に気に入らなかつたのは首然である。
        此所で自分は、子規の歌論に於ける本原の精神が、自然主義のレアリズムであつたことを再説し、併せてそ
       の蒙を唇教したく思ふのである。思ふに正岡子規は、明治に於ける最大の啓蒙思想家であり、そして同時に最
j∫∫ 日本への岡鯨

大のジャーナリストであつた。しかし彼の本質としてゐる楕紳は、正しい意味のエッセイストに存したので、
純粋の意味で「詩人」と呼ばるる人ではなかつた。なぜなら彼の文寧精神には、虞の抒情詩的なものよりも、
むしろ散文的なものが多量に賓賀して居たからである。「眞の抒情詩的なもの」は、それ自ら「眞の観律的の
もの」である。故に子規が眞の詩人でなかつたことは、彼が韻律に対して普痢であり、萌文の眞髄を理解しな
かつたと言ふことである。
 この明白な事資は、子規が一方に苗菜集を推奨しながら、古今、新古今を全然理併し得なかつたことで謹左
される。なぜなら古今や新古今の魅力は、全くその宅調音律の美に存するので、その鵡律美を知ることなしに、
此等の歌を鑑賞することができないからだ。そしてしかも、子規の推賞する萬真の歌は、多くは散文的内容本
位の歌であつて、上例した人膚の歌の如き、朗々馨調の共に富んだ兵の翫文的萌文は、一も子規の理解できな
い所であつた。彼は古今、新古今の歌の韻律美を構成してゐた、あの精妙な序詞や掛け詞を赦して、単なるレ
トリックの遊戯だと言ひ、萬稟の歌に特有する枕詞さへも、同じ理由にょつてしばしば排斥した。彼が俳句の
方面に於て、頼村を高く許償しながら、不思議にも芭蕉を理解できなかつたのも、同じくまた芭蕉の俳句が、
本水棲めて音楽的であり、調ぺ、しをりの妙趣の中に、句の幽玄な詩情が節奏されてゐることについて、音痴
の無理辟であつたからだ。
 それ故に子規歌論は、本質上に於て反鶴文楕紳のものであり、彼自身が意識し屯い内部に於て、ポエデイの
散文的騨饉を主張してゐるのであつた。これがその反イマヂズムの平明主義と結んだものが、つまり根岸汲の
主張する馬生主義の本鰹に外ならない。したがつてこのエスプリを俸承する現歌壇人等が、結局「詣」を香定
して歌を亡ほし、自らそのポエチイを喪失させで、短歌滅亡論への墓穴を掘つてゐるのは常然である。そして
すぺて此等のことは、早く既に子規の短歌自身の中に意見されて居るのである。へ子規の歌が、その文筆的晴
攣。件ンモ撃峨憾q¶山攣郊川杏刊ぶ耶粥村ポ∽ご鶴粥巾1鮒郊剛那熱郵桝郎小計れ覇
へて見よ。つまり言へば子規は、短歌の形式を借りて彼の馬生文(散文)を書いたL歌つたのでない − に
すぎない。)
 かうした子規イズムの短歌論が、自然主義の文拳論と併立して、永い問日本の詩歌壇に横行闊歩し、詩精神
の純異なエスプリを穀栽し表したことは、自分の怪みて遺憾に耐へないことであつた。僕の記憶にょれば、つ
い数年前の歌壇 − 或は伶現在の歌壇でさへも・−次のやうな諒がもつともらしく主張された。日く。短歌は
その極めて短い形式、僅か三十一文字の中に、多くの思想や感情を叙べねばならぬ。故に枕詞の如き不用の言
葉、序詞の如き無用の修筋は、可及的にこれを避けて、賓質的内容のある言葉を盛らねばならないと。この歌
論から推して行けば「おせん泣かすな馬肥せ火の元用心風邪引くな」の顆が、理想的の一流名歌といふことに
なる。一つも無駄の言葉がなく、資質的内容性のある言葉ばかりで、揺詰式にぎつちり語つて居るからである。
 かかる奇説が自室天下に横行して、しかもそれを怪む者さへない歌壇のことを考へる時、僕はしばらく「論
文」を休載して、此等文筆入門のイロハを知らない、小学一年生諸君の歌人のために、寧枚の講義鏡を述ぺね
ほならないのであるっ
 昔、僕が中撃校に居た時、図譜の教師に愉快な先生が居た。作文の時、彼はいつも生徒に教へて、「文は意
を表すにあり」と言ひ、出来るだけ簡潔に、明瞭に、無用の修鮮や粉飾を除いて、自分の思ふ所を率直に書け
と数へた。その先生は、常に名文の見本として、「おせん泣かすな馬肥せ」を黒板に書いた。その限りに於て、
僕は先生の言に敬服して居た。しかし他の周語の時間に、或る教科書の詩文に関する彼の批判は、僕の容易に
納得できないところであつた。例へば議曲中の名作と言はれる「松風」や「羽衣」に封し、講義の後で、先生
の批判はかうであつた。「これが悪文の見本だよ」と。そして理由は、かうした謡曲の文のすぺてが、殆んど
j∫ア 日本への同辟

一丁−
皆洒落や掛ケ詞の達績であり、無用な粉飾的美鮮の遊戯にすぎないからと言ふのであつた。先生ほまた、数百
行に亙る「松風」の全文内容は、僅かただ十行にょつて意を蓋し得ると言ひ、他は惹く無用の粉飾的冗句にす
ぎないと言つた。
 古歌に対する先生の批列は、一層辛辣に徹底的であつた。先生は教科書に出てゐる萬薬集の歌を、殆んど一
首残らず駄作だと言つた0その理由は、枕詞なんて無用の者を書くからだと言つた。況んや古今集あたりの長
い序詞のついた歌が、たまたま教科書に出てくる時、先生の毒舌は極致に達した。「有馬山ゐなの笹原風吹け
ばいでそょ人を忘れやはする」といふ百人一首の歌を生徒が質問した時、先生はその歌を黒板に書き、上旬の
序詞全文を赤チョークで滑してしまつた二足曳の山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を濁りかも寝む」は、最後
の「濁りかも寝む」だけ助かつて、他は全部滑殺されてしまつた。それだけで意味が透きるのだから、他は無
用の冗句だと言ふのである0この先生の講義は、僕等の生徒にとつて極めて痛快のものであつた。しかし僕は、
少年ながらに納得できない不満を感じ、幼稚な議論で度々先生に反間した。だが僕等の議論は「文は意を壷す
にあり」といふ先生の公理で、結局僕が屈服されてしまふのだつた。如何に考へても、文章詩歌の目的は、結
局「意を轟す」といふことの外にはない0然らば先生の言はすぺて正しく、論理上から之れに反駁することは
できないのである。
 だがそれにもかかはらず、僕の内心には屈服できないものが建つた。そしてそY後、ずつと年を取つてから、
初めて僕の正義がわかり、昔の先生を論駁することの自信を得た。つまりその先生は、自然主義のプロゼツク
な文学静で、詩歌の韻文を一律に論じょうとしたことに、その猫断的な錯誤と認識不足があつたのである。
   お▼ヽひ
「又は意を秦すにあり」といふことは、詩にも、散文にも、一切の文学を通じて疑ひのない公理である。しか
                   匁もひ          ぉもひ
 し肝心のことは、誇の表現が意志する「意」と、散文の場合での「意」とが、少しく質を異にしてゐるといふ
     カゝ      ロ ′J イ      。笥潤
する「意」は、主として内心の情緒、意志、気分等のものである。然るに事件、事柄、思想等は、軍にその一要
鮎を捉へて叙述し、観念の概括を平明に書けばすむのであるが、感情や気分の表現では、さうした一元的描馬
が役に立たない。なぜなら気分や感想といふものは、心内に於ける一種のリズミカルの波動であつて普通の散
文のやうな説明法では、到底表現することができないからだ。「悲しい」といふ情操は、百度これをくどくど
と説明しても、他人に意を侍へることが不可能であり、「俺しい」といふ気分は、いかに繰返して解説しても、
到底、人にその賓感を了解させ得ない。かかる場合の表現は、音楽のやうにこれを音の旋律として、直接にそ
の悲哀の情を、感覚から感覚に訴へるか、或は多くの詩歌がするやうに、かかる気分を言葉のイメーデに表象
させ、一種のシムポリズムによつて表現するかの外にはないのである。
 故に詩歌の表現は、本然的に散文とほ別の手段を選ぷのである。散文の表現法は「説明」である。だが詩歌
の表現には説明がない。詩は音発と同じやうに、常に「歌ふこと」「韻律すること」を欲求し、美術と同じや
うに 「イメーデする」 こと「象徴化する」 ことを望んでゐる。かうした詩文寧の作文規範は、散文のそれと原
理の公則を一にしながら、方法論で根本的に矛盾してゐる。例へば「判然明白」や「簡潔直裁」を尊ぶことで
ほ、詩も散文も原則的に同じであるが、方法論の鮎では正反射である。即ち詩は説明から遠く離れ、韻律の節
秦実に多く富んだり、言葉がイマヂスチックに績紗としてゐる程好い。なぜなら気分や情緒の表現としては、
                      海もひ
それが最も印象深く、且つ最も判然直接に「意」を侍へるからである。
 僕の学んだ中拳の先生は、かうした詩歌の方法論を、散文の方法論と混錯し、散文のそれを以て詩文拳を律
しょうとした所に誤謬があつた。古来日本の歌が常習した枕詞や序詞やは、決して先生の言ふやうに「無用の
冗語」でもなく、「不必要の粉飾語」でもないっ「ひさかたの」といふ枕詞は、「天つみ杢」の鶴窮永遠を思ふ
j∫ク 臼本への周王抒

時に、心の感動がリズムの節奏となつて出た言責である。それは事柄の説明ではなく、情緒のイノーヂする表
現なのだD「足曳の山鳥の尾のしだり尾の」といふ序詞は、女と離れた孤猫の男が、長い秋夜を反柊しながら、
濁り床中に悶々としてゐる寂しい思を、かかる言葉の節奏に托して、情緒のイメーヂとして敬つたのである。
「もののふの八十氏川のあじろ木に」といふ序詞も、単に「いざよふ浪」の形容詞として、事柄の説明として
書いたのではない0此所には作者人膚の心に表象してゐる、或るメタフイヂツタの時間的郷愁が、そのりリシ
ズムの詠嘆する心の波動を、さながら言葉の抑揚に馬生して歌はれて居る。それは少しも「不必要な粉飾」で
はなく、却つてそれがボエデイそのものの「内容的資質」なのだ。掛ケ詞の美もこれと同じく、日本語の特質
を巧みに利用した押哉法で、歌の音楽要素と旋律美を構成する目的上から、最も必貌にして洗練された手法で
ある0そして詩歌が韻律の整調美を求める以上、此等のレトリックもまた必頻のもので、決して或る箆薄な人
人の庇する如く、単なる「洒落」や「語呂合せ」の遊戯ではない。
 すべて此等のもの−詩歌の賃質を構成する必須のレーリツク1を、無用の冗物と考へたり、非文筆的の
遊戯と考へたりするのは、要するに皆自然主義の思想である0自然主義の文筆論は、人生から「芙」を穀致し、
文早から「詩」を抹滑することをイデーとした0すぺでの美なるものは、自然主義にょつて遊戯と言はれ、す
ぺての詩的なものは1自然主義によつて虚偽と言はれた。そしてしかも日本の詩歌は、子規イズム以来永くこ
の自然主義の悪鬼につかれ、自らその詩碑紳(歌心)を失費し、自ら矛盾にも「歌を亡ぼすことの熱意」に歪
・刀した。
 今や自覚した歌壇人等は、よろしく先づその為生主義の迷夢から醒め、過去のあまりに自然主義的なる先入
見から、一切を離脱して新たに一配生せねばならないのである。
巨.E臣邑llll−邑