万葉集と新古今集




 日本の和歌の歴史は、速く神代の昔に始まり、常葉集をへて古今集以後、徳川期に至るまで二十何代かの勅
撰集を経過し、皇室と共に連綿として繕いてゐるが、事賓上には武家が天下を取つて以後、皇室の衰微と共に
亡びてしまつたやうなものである。即ち新古今集以後の歴代集は、歌が全くその生命を矢賀し、単なる形式上
の修鮮的蓬戯のやうなものになつてしまつた。そこで事賓上に於ける歌の歴史は、神代の自由律歌を除外して、
萬葉から新古今集までと言ふことになる。
 萬葉集と新古今集とは、このやうに和歌史上のアルハとオメガ、出費と最終とを代表する二歌集であるが、
しかもまたそれが不思議に、すぺての日本の和歌の中で、蛮衝的慣値の最上な雨高峯となつてゐるのである。
この両者の中間のもの、即ち古今集時代のものは、丁度二つの山の間にある谷底みたいで、一髄に詩的精神が
低く薄弱である。昔の歌人や史家は古今集を高く許慣し、革英、新古今の上位に置いてるけれども、今日僕等
∫の 日本への周i括

の批判から見て、古今集の歌は意外に詰らないものでしかない。
 では常葉と新古今とが、何故に秀れて居たかと言へば、その歌集を生んだ時代が、文他的に旺盛な詩精神を
もつて居たからである。常葉集の出爽た頃は、日本が新しく建図して、文他の基礎が初めて定まり、大に支那
朝鮮と交通して、大陸主義的な既是を取り、新漁興閲の溢刺たる元気に燃えて居た時であつた。今日の若い人
人にとつて、萬葉集の歌がいちばんょく質感的に共鳴するのは、つまり明治以来の大陸政策を取つてる日本の
文化が、往時萬稟時代の奈良朝文化と、本質に於て極めでょく似て居るからである。古今集以後の日本は朝鮮
を放棄し、支部との交通を定限し、滑極的の島国政策を取つたので、今日の開園日本とは、文他の精神に於て
接鱗する所が紗いのである。
 新古今集が生れた時代は、すぺてに於て常葉集と正反封の時代であつた。それはインテリの公卿階級が漫落
して、新興の野人である武家把紋が、新たに政権を把握した時代であつた。その亡び行くインテリ、公卿階級
の悲哀を、心の限り傷み悲しんで歌つたものが、即ち新古今集の美しい奉術であつた。定家も、俊戌も、西行
も、後鳥羽院も、式子内親王も、すぺて皆この時代の悲哀を象徴した歌人であつた。彼等の歌は、表面的にほ
時代の紅合相と関係なく、雪月夜の風流観事をさも長閑さうに歌つて居るが、その詩精神の本質にあるものは、
           ヘーソ入
費に亡び行く没落階級の哀傷であり、落日の前に散る落花の美と、暮春の霞の中に欽赦する女の悲しい泣費と
を、魂の吹くりリシズムの笛に合せて、哀傷深く歌ひ嘆いたものであつた。この詳精神の根捜するりリシズム
を知らないでは、史家の歌の美しさも、式子内親王の歌の悲しさも解らないのだ。(今の歌壇の人達は、この
本質のりリシズムを知らないで、畢に形態寧的、修鮮孝的に新古今集を素讃してゐる。だから彼等の解説する
新古今集は、単なる形式主義的技巧汲の文学にしかなつてない。)
                                                  へ1ソス
 新古今輿の歌の魅力は、全くそのデカダンスの美しさにある。それを三一口で言へは、洗い絶望的な哀傷をそ
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    卦
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るる横雲の杢」といふ売家の歌の如きも、単なる春の夜の叙景でなく、その歌の奥の心に、或る疲労し廃頑し
た魂の虚無感と、新内節の音欒に似たやうなデカダンスの艶な悩ましさを感ずることで、初めてそのリリック
の特貌な「美しさ」が辟るのである。
 かうした新古今集の詩楠神には、偶然にもまた現代の日本の政争と、一部よく接騰したものがある。現代の
文化は、資本主義とインテリ階級の痘落を嘆いてる時代である。そして青年は希望を失ひ、町には哀切極去る
デカダンスの小唄が流行し、三原山の御碑火は日々に多くの自殺者を焚殺して居るロ式子内親王等の歌が、僕
等の時代のインテリに悲しみ深く迫つて来るのも、まことに普然の現象と言はねばならないのである。
 萬葉集の時代は、明るいロマンチシズムの時代であつた。反封に新古今集の時代は、暗いニヒリズムの時代
であつた。そして明治以来の日本文化は、常にその両面の矛盾を包括して居た。現に僕等自身の中にさへも、
奈良朝文化的ロマンチックの楕紳と、漫落階級的ニヒリズムの暗い精神とが、相互に争闘しっつ交通して居る
のである。常葉集と新古今集と、この二つの正反対の歌集が、共に僕等に興味深く、魅力をもつ所以のものが
此所にある。