日本の女性
この一文を、佐藤春夫、室生犀星、林房雄、
中河与一、保田与重郎、堀場正夫、
その他数多き日本女性の讃美者に捧ぐ
かつて僕は「日本の女」と題する一文を書き、日本の女が外国の女に比して、いかに肉体美の点ですぐれて
居るか。いかに皮膚がデリケートで、色彩の陰影に富んでゐるか。いかに肢体が色つぼく優雅であるか。等々
をエッセイした。(小著・廊下と室房・参照)しかしこれは容貌や肢体の肉倍美に関することで、精神上のこ
とには関しなかつた。僕が特に肉体美のことばかり言つたのは、今日一般の日本人、特に美術家やインテリ階
級の定説として、日本の女の肉体美が、西洋の女に比して大に劣り、非美学的醜悪のものの如く偏見されて居
るからである。僕の前の一文は、かかる邪曲の定説を啓蒙しようとして、いささか義憤の情を以て書いたので
ある。然るに精神上の方面では、最も進歩的な人々でさへ、相当には同情と理解を以て、日本女性のユニイク
な美徳を認めてゐる。万事に西洋崇拝の人々でさへ、妻だけは西洋婦人を敬遠し、日本の女に限るとさへ公言
してゐる。して見れば今日、精神方面のことについて、今更日本の女性を讃美するのほ、いささか世論の蛇尾
に随従する如く思はれる。しかも僕があへてこの一文を草するのは、近来或る一部の社会主義者や、自ら進歩
思想の尖端人を以て任ずる人や、とりわけ特に女権扶張論者の青鞜者流や、街のアメリカかぶれしたモダンガ
ールや、自らインテリ女人のプライドを気負ふ人々やが、日本の伝統的女人気質を軽蔑し、且つこれを憎悪敵愾して、すべての日本的なる女性の美徳を「奴隷化」と呼び、ひとへにその辟放を叫んで、欧他をイデ1して
ゐるからである。
彼等のいはゆる「進歩的なる人々」は、日本女性の国粋的な美風を乾して、封建制度の呪ふぺき退侍だと言
ひ、東洋的塵制主義の弊風だと言ひ、男子専制の横暴な奴隷化だと言ふ。果して賓に苧っだらうか。他の東洋
諸園1嘉や、印度や、土革古1について見れば、思ふにこの言はよく首つてゐる。東洋の多くの諸圃が、
古来歴制政治によつて人民を奴隷化し、特に女人を物品的に音巽して、殆んど全く女性の人格を認めなかつた
ことほ草書である0しかしすくなくとも日本だけは、かうした「東洋的なもの」からの例外だつた。そしてこ
のことは、日本歴史によつて何よりもよく賓澄されて居るのである。
何人も知る如く、日本の歴史は天照皇大紳によつて始まり、太陽の女神であるところの、最高の権威者によ
つて開閑されてる0日本に於て、女性は神々の中の紳であり、最も神聖なものとして崇拝された。そしてこの
フエミl妄ムの国粋思想は、爾後の日本歴史を通じて、民族の血液に俸統し、現代迄も二見して穎いてゐるの
である0ただ中古以後、俵敦や儒教の外因思想に影響されて、女人の罪障深きを説教されたり、支郷の女性奴
隷思想を輸入したりした魚、外見上いくぷん東洋的顆型の制度を取つたが、それほ杜合判度の形式上な皮相で
あつて、日本人の民族的本能に根ざしてゐる眞の情操は、依然として常に上古以来のフエミ妄ムであり、古
事記の太陽女性中心思想は、不攣に国粋思潮の本質となつてゐたのである。
それ故に見よ○古事記以来、常葉集を経て古今、新古今等の歴代歌集に至る迄、日本の和歌抒情詩のエスプ
リは、常に女性中心に展開された相関歌であり1女性を太陽として自然的に生育した文化史である。かくの如
き文化史は東郷になく1おそらくまた印度にもなく土耳盲にもない0これは東洋に於て、日本にだけ見られる
倦搶痰閧ニパベぶ
謂領L
のフェミニズムを、いくぷん椰漁的に諷した県費である。
此所で西洋人のフェミニズムと、日本人のフェミニズムとの異なる鮎を述ぺねばならぬ。西洋人のフェミニ
ズムが、その騎士道の中心思想となつてることは、普ねく人の知るところであるけれども、そのゼスチュアの
祀儀正しさにかかはらず、彼等のフェミニズムが出態しでゐる精神は、徹底的の男性的エゴイズムと、純粋の
本能的助平根性に外ならない。その騎士道的の芝居がかつたゼスチュアは、畢愛して町の不良少年等が、良家
の魔女をたらし込み、女の虚柴心に取り入るための常套手段に外ならない。彼等の内心に本音するものは、あ
くまで男性的のエゴイズムで、女を征服し奴隷化しょうとするところの専制欲と、肉食人種の野獣的な助平根
性以外にはない。然るに日本人のフェミニズムは、逸かにずつと情操が文化的にデリケートであり、女人を人
格的に高く認めて居るのである。古事記や萬葉集の歌をみても、僕等の先租は決して女人を奴隷成したり、畢
なる獣慾の対象として、非人格的に玩具成したりしては居ないのである。職業的の淫費婦、たとへば江戸時代
の養女や肇者の如きものに対してさへも、多少の棉紳的理解と愛情とを感ずることなしに、決して如何なる男
もこれを暴辱しょうとしなかつた。そしてまた女自身が、決してかかる獣的肉情を許さなかつたqそしてその
理由は、女性の人格が社合的に認められ、尊厳されて居たからである。金銀によつてその妻子を費買し、あら
ゅる非人道的な手段によつて、一種の崎型的な賓笑好さへも養成し、しかも杜倉がこれを無良心に公許する支
那と較べて、いかに両者の国民性が、女性に対してイデーを異にするかを思つて見よ0ひとしく「東洋的」の
概念によつて、両者を顆同威するものはど皮相な見鮮はないであらう。
日本に於て、女性の権威と人格とが、いかに高く認められて居たかは、古事記の文献にょつて最もよく澄左
されてる。男がその約束を破つた時、最も熱愛してゐる女ですらが、その不誠賓をなじつて断然男を離別する
∫αF 日本への同蹄
権利をもつてた0例へばその産碍を覗かれて大に怒り、艮人彦火火出見争の破約を責めて、憤然海南の故郷に
辟つた豊玉姫0或は夜見圃に伊弊諾尋の来訪を迎へ、深くその愛情を悦びながらも、秘密の屍醜を蛮見されて
侮辱を感じ、怒つてこれを迫ひかけられた伊弊筋骨等。上古に於て、いかに日本の女性が、人格的に高く尊厳
されて居たかがわかる。降つて奈良朝ほもちろん、藤原平安の時代に放ても、女性はほぽ男子と同等の樺利を
もち、杜禽上にも極めて自由な地位にあつて尊敬されてた。然るに武士専制の封建時代に移つてから、主とし
て祀合経済事情の欒化にょつて、女性の地位が比較的下位に落されたが、偶鎌倉、裏町の時代を通じて、女性
が一般に伶人蒋を重税されて居たことは、今日倫保存されてる能狂言の多くのものや、離婚の自由を保澄する
為、常時の政府が公設した女人寺等によつて、充分推察され得るのである。ただ遺憾に耐へないのは、近世徳
川氏の専制した江戸政府が、朱子寧の儒教にょつて閲民思想を統一すぺく、これを強制的に教化した為、上古
以来侍統したすぺての純日本的の図樺思想が、著るしく支那的に襲形されたことであつた。まこと徳川氏の政
策ほ、その精神の非日本的なことに於て、猶大人の支配下にある如き襲態文化の日本を作つた。今日すべての
インテリ女人や進歩的女性からして、仇敵の如くに悼まれてゐる「女大拳」や「女今川」の女子教育も、この
猶大人的政府が強制した支那女子教育の和語である。その限りに於で、これはまことに非日本的のものであつ
た0しかもこの非日本的な支那思想すら、僕等の先組はこれを充分日本的に情操化し、民衆の現質の生活では、
政府の教育形式が大に別種のものにアレンヂされた0「女大挙Lは女性に紹封服従を強要し、女性の自由を奪
つてこれに支那的三従の兼徳を敦へ、男子の奴隷的地位に甘んずることを強制した。しかもかかる杜曾状態に
於てすら、日本の男子は女子の人希を高く認め、決して支那人の如くこれを非人格に奴隷覗しなかつた。常時
の武士階級者が、いかにその妻女に対して稽儀正しく、責任感を以てこれを愛撫教育したかは、今日却つて女
性を玩弄物祝し、妻子に封して雑費任な、時代の軽眺な人々に遠く優り、むしろ思ひ半ばにすぎるものがある。
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顎
は ■箋 にゼ箋攣應£還誓お那覇れ軋にこそ督時郷照瑚盛
と町人の妻とを問はず、毅然たる自尊心を持して高く守り、古代ローマ人の妻の如く、出征に臨んで良人をは
げまし、子女を厳格に教育し、自ら人格者たる威厳を持して護らなかつた。そもそもまたかくの如きことが、
自ら自己を奴隷親し、男子の玩弄物を以て自任してゐる如き女性によつて、果してょく可能されることであら
うか。
日本の女性が、その気立に於て此ひなく優れて居り、世界のいかなる団々の女にもまさつて居ることは、白
人萬能の自負を誇る西洋人すらが、異口同音に認めてゐることである。賓際白人の女たちは、結婚を以てエゴ
イズムの享欒と考へ、物質的奪移を表して革圭を苦しめ、我がまま放題の行為をして、結局自他を破滅させる
ことしか考へてない。支那人の女に至つては何度しがたく、殆んどそのすぺての者が、恐るぺき妬婿に非ずば
悍婦であると言はれてゐる。濁り日本の女は愛情深く、貴任感に富み、貞操の念に厚く、情操がデリケートで
美を理解し、従順であつてしかも卑屈でなく、内に毅然たる勇気と自尊心とを持ちながら、しかも外面は常に
淑やかで慎み深く、些少の恩や愛志に封してすら、殉情的の涙ぐましい感激をし、どんな逆境の下にあつても、
常に嬉々として人生を楽しく快活に暮してゐる。男たちのイデーとして、これほど望ましい理想的の女人はな
いのだ。
しかしかく言へば、今の所謂女権携張論者や、自ら進歩主義を以て任ずるインテリの女たちは、たちまち怒
って反塩してくるであらう。彼等はいつも極つて言ふ。女が、男のイデーとして理想的であるといふことは、
それが男の専制的歴制に適應すぺく、都合よく奴隷的に教育されたことを意味するのである。日本の女性が、
かかる意味で讃美され、世界的に好評であるといふことは、とりも直さず我等の奴隷的屈辱を護左するのだと。
恐ろしき青鞘諸君よ。先づそのヒステリーを止め、静かに理性に訴へて反省し給へ。そもそも幸福とは何だら
∫0ア 日本への固辞
うか0他の場合の事は知らない○男女異性聞の生活に関して言へば、相互の愛が蒜の物であり、愛を離れて
どんな事滴な人生も有り得ない0ところで愛は孤濁に濁存し得ない0愛は相互交換的のものであり、相互依存
的のものである0男が女を愛し、信ずることが深けれは、女もまた男を愛し、信ずることが深いのである。
人間は、知性と感情をもつた人格的の存在である0女もまた忘人間である以上、いかにこれを強樺的に屈
座し、形式的に、非道な教育を強ひたところで、その人の本性する気質や情操を、不自然に穀致することはで
きないだらうDその一つの賓例は、支那が最も好い見本である0支部人はそのデカダン的放怒の肉慾を満足さ
す爵、儒教主義の厳格な教育を女に課して、すぺての女性を男子の奴隷的地位に安住さすぺく、紹封服従のロ
ボット的美徳を女に敦へた0だがその教育と魔制とによつて、支那の女が少しで皇Rくなつたらうか。結果は
畢に彼女等を卑屈にし、陰険にし、いたづらに嫉妬深い悍婦を養成して、あらゆる奴隷的気賀に女を悪北した
ばかりであつた0然るに日本の男たちは、歴史関蹄以来のフェミニストで、心から女性を崇拝し、女人の人格
を高く認めるところの人種であつた0近世徳川氏の政策に歴刺されて、支那式儒教の女子教育を課せられた湯
合でさへが、その棉紳の本質を全く別種の物に攣質し、ユニイクのものに民族化したことは、既に前述した通
りである0形式上の習慣や偽善でほなく、眞の純情から良人の死に殉死する如き女人は、日本では何等異とす
るに足りないほど無数に居る○しかもこんな殉情の行為が、自己に封して眞の愛情を捧げなかつた男の為に、
果してよく衷心から出来るであらうか0かかる女が日本に多く居るといふことは、過去に於ても現在に於ても、
日本人の男がいかに忠賓な三ミニストであり、女性に封して人格的な愛と理解を持つてゐる人種であるかを
質澄する0結局日本の女が気質的に薯艮であるといふことほ、日本の男がそれを善く教育し、県情からの愛を
以ていたはり扱つた爵に外ならない0鳥や犬のやうな動物でも、鞭にょる苛酷な教育では、却つてこれを悪化
する以外になく1ただ長の愛と理解とを以て扱ふ時、初めて善良にして忠箕なものとなり解るのである。
別封」匂潤瀾凋調調調瀾瀾割引川創刊引い剣一晰郡利別が郎仇サ針恕軒町鮎掛ぶ
洋人のフェミニズムは、男性的横暴のエゴイズムを、助平根性によつて反語的にゼスチュアしたものに外たら
ない。既に男性の心情が苧つである。故に女性もまたこれに反映して、同じくまた女性的エゴイズムでこれに
封應し、男子の横暴に反抗して、あらゆる勝手気ままの行動をするのである。西洋に於ては、すべてのものが
相互征服的、窮肉強食的の矛盾争繍である如く、男女異性間の関係も同棟であり、男と女とが常に封立し、互
にその「樺利」を主張しながら、不断の洩ましい対抗争議をしてゐるのである。だから彼等の家庭生活では、
男と女が各自にそのエゴイズムを角突き合せ、良人は良人、妻は要で、各自に気まま放題のことをしてゐるの
である。それは全く二人の別々の人間が、畢に一つの星根の下で、アパート的共同生活をしてるにすぎない。
即ちそれほ眞の意味の「夫婦」でなく、展の意味の「家庭」でもない。況んや日本の結婚生活がイデーとする
「一心同鰹」といふやうなことは、西洋人の夫婦観念にはないのである。これは人顆の生活史上で、まことに
悲惨な不幸事であり、西洋の傷ましい悲劇ではあるけれども、我等のモダンガールや女権絹張論者が思惟する
ゃぅに、決して望ましい幸礪事ではなく、況んや決して眞の「文明的生活」でもないのである。(彼等の誤謬
は、すぺての西洋的なものを以て、無批判に文明的のものと錯覚してゐる。)
日本人の異性覿は、他のすぺての日本的な知性や感性と同じく、自他の一致、主客の融合といふ、自然の調
エ ゴ
和をイデーとしてゐる。故に哉々の結婚は、男と女とが互に融和し、各自にその「自我」を揚棄して、一心岡
津の夫婦になることを理想としてゐる。西洋人の結婚は、男女が互にそのエゴイスチックの快楽を満たさうと
欲するところの、畢なる物質的享柴主義のものにすぎない。だが我々は、もつと結婚の意義を高く、楕紳的モ
ラリティのものに考へてゐる。即ち我々は、結婚生活を以て一の紫厳な人道的、倫理的創造事業と考へて居る。
そして此所に、日本人の特秩なフェミニズムが、その敷島の大和心と共に原理してゐる。
∫0夕 日本への同辟
かかる大和心のフモ、二言ムは、西洋の騎士道の如く、女性の前に膝まづいて、接吻を哀願するやうなこと
はしない○しかしまた勿論、支那人や土耳古人の如く、女性を物質的奴隷現するやうなこともしない。我々は
最も紳士的な自然の仕方で、女性の正官な「人格」を認め、且つその異性としての、特挽な美や償値やを尊敬
するのである0(そしてこれほど、女性に封する正しい尊敬の道はない0)西洋人の如く、我々は単に性の乱舞
と享楽のみを、唯忘目的として結婚するのではない0故に日本人の家庭に於ける夫婦愛の表現は、接吻でな
くして理鰐であり、抱擁でなくして碩譲である0そして夫婦仁義の道は、男女両方に要求される相互の忍耐、
努力、貞節、信頼、檀譲、及び不攣の純眞な愛情である。
かうした日本人の愛情表現は、西洋人の目から見て、甚だ冷酷非情のものに映るかも知れない。おそらく或
は、日本の男性に騎士的の感情が少しもなく、フモ三ストの封択的なものに見えるかも知れない。皮相の外
人観光客が速断して、しばしば日本人を東洋的冷酷のタイラントと見、誤つた同情を我等の女性に寄せるのも
表がある0しかし日本の女性ほど、世界に於て比頬なく辛礪な女性はないのである。なぜなら日本の男性等
は、西洋人とは全くちがつた仕方に於て、心からその妻を深く愛撫し、且つ信頼尊敬してゐるからである。昔
の武士たちは、盲もその妻に封して媚欝や甘言を言はなかつたqしかもその厳粛の中に、限りなき愛撫と無
言の信頼とが示されてゐるのだ0そしてこの「璽日の愛L「ゼスチュアのない接吻」を知つてるものが、また
嬉しくも日本の女だけであつた○西洋の女たちは明らさまに行為される接吻や、峯々しくゼスチュアされる甘
言以外に、少しも男の心底を理解し得ない0彼等は浅薄の者共であり、決して男の深遠な「腹警がわからな
いのだ0それ故に彼女等は、その近代的の高い知的教養にもかかはらず、常に男の杢々しい甘言に誘惑され、
騎士的貰チ;の巧みな軽薄漢や、紳士的外貌を飾る不良青年の徒に欺かれて、その不幸な棒愛結婚の破綻
を懇しむ運命に定かれるのである0今日時代の進歩主義者を以て任じ、インテリゼンスのプライドを気負ふ西
▼
約…粥約…粥…………粥絹‥山“絹硝L
近時、保由輿重郎君は、その 「日本の楕」と題する一文中に放て、典型的な一日本女性を紹介した。その日
本の一女性は、慧臣秀吉が小田原征伐に出陣した時、これに従軍した堀尾某といふ武士の妻であり、十八歳に
なる愛児を戦場に失つたことから、悲嘆のあまり橋を架してこれが冥頑を供養した。その楕の銘文は次のやう
なものであつた。
「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣堀尾金助と申す、十八になりたる子を先立たせてょり、また
ムため
再日とは見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架けるなり。母の身には落涙ともなり、印身成体し給へ。
逸岩世俊と後の世のまた後まで、この書附を見る人は、念備中し給へや。三十三年の供養なり。」
この銘文の筆者は、もとより何等高い教養のない一武者の平凡な妻女にすぎない。しかも愛兄の死を悼む悲
嘆の眞情は、おのづからして好個の名文を為してゐるのであるP十八になる愛児を失ひ、また再目とは見ざる
悲しさの飴り、今この橋を架けるなりと言ひ、「母の身には落涙ともなり、郎身戌併し給へや。」と言ひ、檎の
通行人に向つて、子供の戒名(いつかんせいしゆん)を長く後の世迄栴名してくれと頒み、三十三年の供養也
と結んだところ、眞に一字一格の睨もない名文であり、哀切の飴報側々として人に迫るものがある。しかしそ
れょりも伺異に心うたれるのは、かかる女性の心に賓在してゐる日本的な情操である。此所にはもちろん俳致
の深い影響がある。だがそれにもかかはらず、如何にまた日本の武士の蒙らしく、凛々しく貞烈の志節がある
だらう。西洋人の女たちは、かかる場合におそらくただ沸泣働笑し、動物本能的な自然感情に狂気するほかり
∫〃 日本への同締
であらう。然るにこの銘文の筆者は、此所で少しも取り乱しては居ないのである。彼女の心ほ悲嘆に破れるば
かりであつて、しかもヒステリカルの狂気に走らず、知性の深い教養によつてこれを押へ、俳敦の幽玄な智季
(無常覿)にょつて、よく高遠の思想の中に情操化し、物のあはれの催しいりリシズムを原形させてる。しか
もそれは文章の技巧ではない。筆者その人の心に具備されてゐる、日本女性の侍統的な眞相である。そしてお
そらくこの眞相は、他の一般的な女性に共通普遍するところの、日本婦人の母性愛や夫婦愛を表象するもので
あるだらう。
最後に自分は、日本の女の最も普通に有りふれた一典型を、外図人が如何に驚異の目を以て観察し、如何に
またその美徳に三嘆してゐるかを示すために、小泉∧雲の蒐集した日本の女の一文戯を引用しょう。次に掲げ
るこの日記の原稿は、八雲が偶然の機縁で手に入れたものであり、筆者は極めて貧しい境遇に育つた、日本の
下層融合の一女性である。そして彼女の配偶となつた封手は、役所の小便をして月給金十固をもらつてる男で
ある。八雲の註によると、彼等夫婦の家は僅か二間(六盈と三畳)しかなく、寝室も食堂も居間もすぺて皆一
所であり、到底西洋の最下級の貧乏人すら、想像のできないやうな質素の生活をして居たのである。筆者の女
性は、この日記を書いてまもなく病死してゐること。及び時代が明治二十八年頃であり、物傾が今より温かに
安く、人力車が唯一の交通横関であつた時代。電車も自動車もなく、娯楽物には寄席と芝居しか無かつた時代
であることも注意しておく。八雲はこれを「或る女の日記」と標題して儀表した。しかし原文の日記にほ、表
紙に「昔話」と書いてあつた苧フである。
昔話
明汚二十∧年九月二十五日の夕方、向ひの家の人が爽て問うた。−彗
た巨hEヒ臣島Fl■■ll■
「御宅の御絶領の事ですが、お片づきになつてもいいのでせう」
そこで返事はかうであつた。
「出したい事は出したいのですが、何分支度ができてゐませんのでL
向ひの人は云つた。ト
「しかし、さきでは支度などはいらないと云ふのですから、私の云ふ人におやりになつて下さいませんか。中
中堅気な人だと云ふ評判です。年は三十八歳です。御漁領は二十六位だと思ひますから、先方へ云ひ出して見
たのですが…・」
「いいえ − 二十九ですょ」と答へた。
「ああ: それなら先方へ今一應話して見なければなりません。先方に話してから御相談に参ります」
さう云つて向ひの人は出て行つた。
翌晩、向ひの人が又衆て−今度は岡田氏の細君(うちの知人)と一緒に【それから云つた。
「先方は満足です− そこであなたも御承諾ならこの縁談は整ひます」
父は答へて、
「二人とも(七赤金)だから合性です!大丈夫差支ありますまい」
仲人は尋ねた。
「それでは見合は明日致すことに取計つて如何です」
父は答へた。
「全く何事も緑ですから・・・それでほ明晩の今頃岡田さんの宅で合ふ事にして下さい」
∫Jj 日本への国府
す▼
こんな風に、約束が貸方でできた。
向ひの人は翌晩岡田の宅へ私を連れて行かうと云つたが、私は何分一度踏み出した以上、のつぴきならぬ事
ですから、母と二人だけで参りたいと云つた。
母とその家へ行つた時「こちらへ」と云つて迎へられた。それから初めてお互に挨拶した。しかし何だかき
まりが悪くて顔を見る事ができなかつた。
それから岡田氏は並木氏ハ夫の姓) に向つて「あなたは内で相談する人もないのだし、薯は急げと云ふから、
早速よいと思つたら、きめなすつては如何ですか」
その返事はかうであつた。
「私の方は充分満足ですが、先方は如何考へて層なさるか分りません」
「御覧の通りで引取つてもよいと思召すやうなら 」と懲は云つた。
仲人は云つた。
「それなら婚祓の日はいつがょいのでせう」
「明日はうちに居りますが、十月一日の方がいいでせう」と並木氏は答へた。
しかし岡田氏は直ちに云つた。
「並木氏の留守の間の心配もあるから、明日の方がよくはないでせうか1どづでせう」
初めはそれは除り早過ぎると思はれたが、私は直ぐに翌日は(大安日)であることを思ひ出した。それで私
は承諾しで、それから辟宅した。
父に話したら、不機嫌であつた。傑り早過きる、せめて三四日位の猶改がなけれほならないと云つた。それ
から方角が宜しくない、外にょくない革もあると云つたU
町
私Lは考
患淵L
「でも、もう約束してしまひました。もう日を襲へて下さいと耕む宰はできません。資際留守の関に据棒でも
入つたら気の毒です。方角が悪いと云つて、よしそれで死にましても私不服はございません、夫の家で死ぬの
ですもの 」それから又云つた。「それで明日は忙しくて後藤ハ妹婿)へ行く暇がありますまいから、只今
行つて参ります」
後藤へ行つた、しかし舎つたら、私は云ひに爽た事をその俵云ふのがこはくなつた。私はただかう云つてほ
のめかした。
「私明日よそへ行かねほなりませんの」
後藤は直ぐに尋ねた。1
「御嫁さんにですね」
もぢもぢしながらやうやく云つた。1
「ええ」
後藤は「どんな人ですか」と尋ねた。
私は答へた。 −
「私の考へがきまる程、その人をよく見る事ができるやうな私なら、なにもわざわざ母に一緒に行つて貰ふわ
けがないぢやないの」
彼は云つた、「それぢや、姉さんは一鰹何のために見合に行つたんです。至しかし」大分愉快さうに云ひ
足した、「おめでたう」
私は云つた、「とにかく明日の事なんです」
∫〃 日本への同‘拓
それから私は家へ師つた。
さて約束の日になつて見ると(九月二十八日)どうしてよいか分らぬ程渾山用意する串があつた。それに幾
日も雨降りであつたので道が大層悪く、そのために一屠困つた。ただ事に、その日は雨が降らなかつた。私は
何かこまごましたものを巽はねばならなかつたが、母に何でも頼むと云ふわけにも行かなかつた、(観みたか
せゐ
つたのだが)何分年の放で、母の足は飴程弱くなつてゐたから。そこで私は随分早起きをして濁りで出かけて、
できるだけの事を一所懸命にしたが、それでもまだ充分準備のできないうちに午後二時になつた。
それから髪を結ひに髪結の虞に、又風呂にも行かねばならず1それがまたみんな暇が取れた。それから着
物を着換へに辟つたが、並木氏からは何の俊ひも爽てゐなかつた。私はそれが少し心配になつた。丁度、夕飯
が済んだ時、使ひが来た〇二同に山々喘乞を云うて居る暇さへなかつた、それからもう一生辟へらない覚悟で
出かけた、そして岡田氏の家に母と歩いて行つた。
そこで又母とも分れねほならなかつた。岡田氏の家内は私の世話をして、一滴に並木氏の家へ行つた。
三三九度の盃事も無事にすみ、又御開きの時も思ひの外早く衆たので御客は皆辟つた。
「あとには二人差向ひとなり、胸打ち騒ぎ、その恥かしさ筆紙につくし難し」
全く私の感じた事は、初めて両親のうちを出て衣嫁となり、知らぬ家の塊となつた事の革えのある人にだけ
分るであらう。
あとゼ食事の時、私は大居きまりが意かつた。
町琴
ニミ日後に乗の先妻へなくなつた) の父が私を訪ねて来て、云
∈臣.−k■
j虹
「並木民は本官にょい人です − 堅い着賓な人です。しかし小さい事にもやかましく小言を言ひ勝ちな人だか
ら、気をつけて、気に入るやうになさるがょい」
私は初めから大の様子を注意して見てゐて、資際中々厳しい几帳面な人だと思つた。それで萬事束に逆らは
ぬやうにしようと決心した。
十月五日が里締りの日であつた、それで初めて二人で一緒に出かけた。途中後藤を訪れた。後藤の家を出て
から、急に天気が悪くなつて雨が降つて衆た。そこで雨傘を借りて相合傘にさした。こんなにして歩いて居る
のを以前の近魔の人にでも見られはしないかと気が気でなかつたが、幸に無事に両親の家に着いて挨拶をした。
幸に雨はまもなく止んだ。
同月九日初めて一緒に芝居へ行つた。赤坂演伎座に行つて山口一座の芝居を見た。
十一月八日洩革寺に参り、それから御西域にも参詣した。
その年の十二月に夫と自分の春着をこしらへた。その時初めてかういふ仕事の面白い事が分つて大層嬉しい
と思つた。
二十五日東大久保の天神様に参り、そこの御庭を散歩した。
二十九年の一月十一日に岡田を訪れた。
〃ア 日本への同辟
十二日に後藤へ二人で行つて面白かつた。
二月九日に「妹青山」を見に二人で三崎盛に行つた。途中思ひがけなく後藤氏にあひ、それから一緒に行つ
た。しかし廃りには折悪しく雨降り出し道がひどくぬかつた。
同月二十二日、天野で二人の馬眞を取つた。
うぐひ†づか
三月二十五日「春木座」に行き「篤墳」の芝居を見た。
この月のうちに一緒に一同(両親、親戚、友達)打連れて花見に行く約束をしたが、中々都合よく行かなか
つた。
四月十日、午前九時、二人で散歩に出た。初めは九段招魂杜へ参詣し、それから上野公園まで行き、そこか
ら洩革へ行つて観音様に参詣し、また門跡様にも参詣した。それから洩革奥山の方へ梱るつもりの虞、先づ御
飯をと云ふので − そこで或料理屋へ入つた。食事をして居るうち、戸外に大喧嘩があるのかと思はれる程の
大騒ぎやら叫び費やらが聞えた。その騒ぎは見せもの小星に火事が起つたからであつた。見て居るうちにも火
が早く撰がつて、その町の見せもの小屋は大抵焼けた。
1私共はすぐ料理屋を出て浅草公園をあちこち、見物しながら歩いた。
ハつぎに原稿にはこの婦人が作つた小さい歌がある)
今戸の渡しにて
あひ見た事のなき人に
不思議に三めぐり”楷荷
かくも突止卿になるのみか
し・.ピ臣L臣.■l−■■■l
葵胃▼
l刊ちの息じに引きかへて
いつしか心も隅飼川
つがひ離れぬ都烏
絹ヨ
人も羨めば我身もまた
嘆きみだれたる土手の花よりも
花より増したその人と
自責やしろになるまでも
添ひとげたしと斬り念じ
:・それから、うちの方へと吾妻椿を渡つた。蒸気で曾我兄弟の御寺の開帳に行つた。そして私共や兄弟姉
妹がいつも仲よく欒しくくらせるやうにと断つた。その晩厨つたのが七時過。
1同月二十五日、私共は「色物の寄席」に行つた。
×
五月二日つつじを見に二人で大久保に行つた。
同月六日私共は招魂牡へ筏火を見に出かけた。
1これまで二人の問に何の風波もなかつた。そして私は二人で出かけたり見物に行つたりする時にきまり
の意い革もなくなつた。今ではお互に気に入るやうにとばかりつとめて居るやうだ。そして私は二人はどんな
事があつても離れる事はないと信じて居る。…:・私共の関係はいつもこんなに幸であるやうにと斬る。
j∫夕 日本への同辟
六月十八日は須賀神社の祭祀なので父の家に招かれた0髪結が間に合ふやうに来てくれないので大欒困つた。
しかし妹のおとりさんと父の豪に出かけたqやがてお睾さん(かたづいて居る妹)も参りlにぎやかであつ
た○晩になつて後藤氏(お幸の犬)が見え、最後に私が一心に待つてゐた夫が見えた。それから大攣嬉しかつ
た事が一つあつた0夫と私が一緒に出かける時、よく私がこしらへた新しい春着を着ませうと云ひ出しても、
夫はその度毎に古いので澤山だと云つて聞き入れなかつた0それでも今度は−父の招待だから着なけれはな
らないと思つて−新しい方を着てくれた〇一同折よくこんなに集つたので皆が一層機嫌よくなつた。そして
仕舞に別れる時にただ夏の夜の短かさをかこつた。
づぎのはその晩私共の作つた歌である〇
二夫婦そろうて覗ふ氏神の
祭りも今日はにぎはひにけり 並木(夫)
氏神の祭りめでたし二大婿
同じく並木
『町
いくとせもにぎやかなりし氏神の
祭りにそろふ今日の嬉しさ 妻
祭りとて ノ家集る楽しみほ
げに氏紳の恵みなりけり 妻
二乗婦そろうて・今日の親しみも
一坤の山恩みぞめでたかりけり
氏一押の一患みも深き夫婦づれ
妻
祭りとて封に仕立てし伊橡がすり
今日楽しみに着ると思へば 妻
思ひきやはからずそろふ二夫婦
何にたとへん今日の蕾日
祭りとて初めてそろふ二大婦
後のかへりぞ今は悲しき
故郷の縁りにそろふ二乗婿
語らふ問さへ夏の短夜
後藤
虫垂丁
お章T
七月五日に播磨太夫のかかつた金津牢に「三十三問堂」をきいた。
∫2∫ 日本への同厨
八月一日大の先妻の一周忌につき浅草寺に参詣、それから吾妻橋のそばの鮫畠で中飯。そこに居るうちに丁
度、正午の時分に地震があつた。河に近いので家が大へんゆれて、随分恐ろしかつた。− 先に櫻の時分に衆
た時大火事を見たのを思ひ出してこの地震は心配になつた。今度は雷でも落ちはせぬかと思つた。
二時頃に鮫星を出て浅草公園に入つた。そこから横道馬車で神田に行き、それから神田の涼しい虞で暫く休
んだ0途中父を訪ねて辟つたのは九時過。
同月十五日八幡神社の祭碩、後藤と妹と、後藤の妹と宅へ爽てくれた。私は一同揃つて宮参りをしたいと思
ってゐたが、この朝犬が少しお酒を飲み過ぎたので、そこで仕方なく犬を置いて出かけた。参詣してから後藤
の宅へ行き、しばらくしてから辟つた。
九月お彼岸の中日にひとりで寺参りをした。
十月十一日おたかさん静岡より衆られる。私は翌日芝居へ案内したかつたが、おたかさんは翌朝早く東京を
立たねほならぬ事になつた。それでも央と私は翌晩柳盛座に赴いて「浪岡美談貞忠鑑」を見物した。
×
六月二十二日父から頒まれた着物を仕立てはじめたが、加減が悪くて充分できなかつた。しかし新年(明治
三十年) の元日に仕上げる事ができた。
…今度は子供が生れるので大攣嬉しい。それから私は両親が初孫せもつてどんなにか得意になつて喜びな
さるかと息づた。
ヒ、‘a....■■【−−1
▼
渦柑題ヨ
五月十日母と盤釜棟へ参詣し、それから泉岳寺に参詣に出かけた。そこで四十七士のお墓や色々の賓物を拝
観した。新宿まで汽車で辟つた。堕町三丁目で母と別れ、うちについたのは六時。
×
六月八日午後四時男子出生。母子共この上もなく健やかに見えた。子供は夫によく似てゐた。大きい黒い眼
をしてゐた。・…・しかし大へんに小さい見であつた。八月に生るぺき筈の虞六月に生れたのであつた。・同
日午後七時弊を飲ます時になつで、ランプの光で見ると大きな眼を開いて、その遽を見廻してゐた。その晩一
晩私の母の懐に眠つてゐた。八月子だから餞糧暖かくしてやらねばならないと聞いたから夜蓋懐に入れて置く
事にした。
翌日1六月九日 − 午後六時年子供は突然死んだ。・
− 「嬉しき間は僅かにて、又悲しみと襲ず、生るるものほみな必ず死す」とあるは茸にこの世のよい成で
ある。
僅か一日母と呼ばれ、ただ死ぬのを見るために子供を生んだのであつた。1−本官に生れて二日位で死ぬの
なら生れない方がょかつたのにと思ふ。
十二月から六月まで私は随分病気であつた。それからお産をしていくらかょくなつて喜んでゐた。今度の慶
事につき万々から御硫を受けたが、それに子供が死んでしまつた。1本官に私は悲しさにたへない。
六月十日大久保、泉稲寺と云ふ御寺で葬式を行ひ、それから小さいお基をたてた。
∫2J 日本への圃締
その時の歌 −
思ひきや身にさへかへぬ撫子に
別れし袖の蕗のたもとを
さみだれやしめりがちなる袖のたもとを
それから間もなく人が卒塔婆を逆さに立てて置けば、こんな不幸に再びあはないと聞かせてくれた。そんな
事をするのは飴程かはいさうに思はれて、色々迷つたが、八月九日遂に卒塔婆を逆さに立てた。・
九月九日赤坂の芝居に二人で行つたっ
十月十入日本郷春木座へ濁りで行き大久保彦左衝門の芝居を見た。そこで下足札をうつかりなくし、皆出て
しまふまで残らねはならなかつた。それから漸く革履を見つけて辟る事ができた。しかし眞暗な夜で途中が大
へん淋しかつた。
三十一年正月の節句に堀の伯母と友人内海の奥さんと講をして居る最中、急に胸が痛み出したので驚いて箪
笥の上にある水天宮様のお守りを取らうとする途端に束が遠くなつて倒れた。親切に介抱されて直ぐ正気づい
たがそののち長い病気になつた。
▼
四月十日が東京確都三十年祭なので、父の家に集る事にしたり重之助ハ多分親戚〕と一緒に先に行
L巨lll−1111邑
ヨL
を待つてゐた。夫はその日朝のうち、一寸役場へ行く筈であつた。入時牛頃に夫は父の家に衆で、皆とノ綿に
なつた。それから私共三人だけ一緒に出かけて市中の景況を見た。麹町から永田町に行き櫻田門を通つて日比
谷見附に出て、それから銀座通から眼鏡橋を通つて上野に出た。そこで色々見物ののち、又眼鏡穂に出た○そ
の時徐程疲れてゐたので私は腐らうと云ひ出したら、夫もやはり疲れてゐたので賛成したが、重之助は「こん
なよい時に大名行列を見落してはつまらないから銀座へ行かう」と云つてきかない。そこで重之助と別れて小
さい天ぷら呈に入つて天ぷらを喰べた。それから渾のよい事には折よくその家から大名行列を見ることができ
た。その晩辟つたのは六時牛。
四月の牛ほから妹おとりの事で随分心配した。〔その事は書いでない)
×
明治三十一年八月三十一日二番日の子供が殆んど何の苦痛もなく出生1女であつた。初と名づけた。
出産の時に世講を受けた人々を七夜に招いた。
− 母はそれから二日程ゐてくれたが、妹のお幸の胸がひどく痛むので、せん方なく辟られる事になつた。
事に夫がこの頃きまつた休暇を得たので、できるだけの世話をしてくれた −洗濯や何かの事まで。しかし自
分のそはに女がゐないので私は時々大へん困つた。【
大の休暇がなくなつてから母は時々大の留守に衆てくれた。二十一日もこんなにして過ぎたが母子共健康で
あつた。
j−Zj 日本への同蹄
ー 娘が生れてから百日になるまで時々呼吸が苦しさうに見えるのでたえず心配した。しかしそれも漸くな
くなり段々張くなるやうであつた。
それでも一つ不幸な事があつた。それは不具の事で、初は生れた時から片方の手の拇指が二本であつた。手
術を受けに病院に連れて行く気には長い間なれなかつた。しかしっい近虞の婦人が新宿の大へん上手な外科瞥
の事を話してくれたのでたうとう行く事にきめた。手術の間、夫が膝に子供をのせてゐた。私は手術を見るこ
とはとてもできなかつた。どうなる尊かと思うて、心配と恐ろしさで胸一杯になつてつぎの童で待つてゐた。
しかし済んでから子供は何事もなかつたやうな蔚をしてた。暫くしていつものやうに乳を飲んだ。それで案じ
たょりも好都合に事が済んだ。
うちに辟つて前の通り組いて乳を飲んだ。そして小さいからだに何事もなかつたやうに見えた。しかし大攣
に劫いからあんな手術などを受けて、何か病気でも作りはしなかつたかと心配した。用心のために三週間程毎
日病院に通つた。しかし意い桂子は少しも見えなかつた。
三十二年三月三日の初節句に父と後藤と両方から内裏雛、その外御統の品々、箪笥鏡葦針箱を貰つた。私共
もこの時に子供のために茶茎、御膵、その外の小さい物を色々買つてやつた。後藤と重之助はその日見えて、
にぎやかであつた。
四月三日穴八幡ハ早稲田)に参詣しで子供の息災延命を析つた。
四月二十九日初は病気のやうで私ほ腎者に診て貰ふことにした。
… …L
智者へつれて行かうと決心した。一晩中心配でならなかつたが、朝になつて少しょくなつたらしい0そこでお
んぷして濁りで出かけて赤坂の或響者へ行つた。診て下さいと頗むと未だ患者を診る時刻でないから待つてゐ
るやうにと云はれた。
待つて居るうちに子供が前よりも一層ひどく泣き出して乳にも吸附かず、ただ歩いてみたり休んでみたりし
て、すかすょり外に仕方がなく大へん困つた。やうやくの事で暫者が見えて子供を診て貰つたが、その時に子
供の泣き蟹が段々弱くなつて、唇が段々蒼くなつた事に気が附いた。そこでそれを見て獣つて居れないので
「如何な様子でせうか」と尋ねると「晩までもたない」と云はれた。「何かお稟をやつで下さいませんか」と尋
ねると「飲めたらよいがね」と云はれた。
私はすぐ霹つて乗や父のうちへ云つてやりたいと思つたが態りひどく驚いたので−−一時に力がなくなつた。
幸に或親切な老婦人が、傘や何かを持つて車に乗る世話をして下さつたので人力車で辟宅する事が出来た。そ
れから人を穎んで夫と父に倖へた。三田の奥さんが世話に衆て下さつた。そのお蔭で子供を助けるためにでき
るだけの事をした。・それでも未だ央が尿つて衆なかつた。しかし心配やせ講した事は皆無駄になつた。
それで三十二年五月二日子供は十萬億士の尿らぬ放へ赴いた。
子供の父と母は未だ生きて居る − よい腎者にかけて診て貰ふ事を急つてそれで子供を死なしてしまつたや
ぅな父と母とが。さう思へば本官に悲しさにたへない。時々私共ほそれを云つて身を責めて居るが腐らぬ事ほ
仕方がない。
しかし子供の死んだ翌日腎者が私共に「あの病気は初めからどんなに手を蓋しても、とても一過問以上生き
j2ア 日本への同辟
てはゐなかつたのです0十か十一にもなつてゐたら手術をして或は助かつたかも知れないが、今は飴り幼少だ
から手術などは思ひもよらないことです」と云つた。それから子供は腎臓炎で死んだのだと聞かせてくれた。
こんなにして、私共の持つてゐた望みや、これまで色々心配して世話した事や、九ケ月間段々生長するのを
見て喜んだ事は皆一切無駄になつた。
しかし私共二人はこの子供との緑が前世からうすかつたのに相違ないと思ひあきらめて、漸くいくらか悲し
みを慰める事ができた。
退屈な時の淋しさに、私は義太夫本の宮城野しのぷの詩の風に歌を作つて、心のうちを云つで見た。
これこのうちへ線づきしは
思ひ廻せば五とせ前
今度まうけし女の子
可愛ものとて育つるかと
我身のなりはうち忘れて
育てし革も情けない
かうした事とは露知らず
この初は無事に育つるか
首尾よう成人したならほ
やがでむこを取り
W打
架しませ』男付こうしてと勺1等々挙】1ご′ l
物見遊山をたしなんで
我兄大事と
大の事も初の事も
赦しなつかし思ふのを
柴しみくらした効もなく
親子になりしは・婿しいが
先きだつ事を見る母の
心を推してたもいのと
− 手を取りかはす夫婦の欺き
なげきを立ち聞くも
貰ひ泣きし表口
障子もぬるるばかりなり
初の死んだ時分は、葬式に関する規則はよくなつて、大久保で火葬する事も許可される事になつたqそこで
並木に願つて、もし面倒な規則さへなかつたら並木一族の手つぎのお寺へ遺骸をもつて行く事にして貰つた0
そこで葬式は門浮寺で行つた。この寺は眞宗本願寺の浅草汲である。遺骨はそこへ約めた0
−妹の幸は初のなくなつた時、大分ひどい風邪で寝てゐた。しかし知らせが着いたあとで間もなく衆てく
∫2夕 日本への困蹄
れた0それから又二三日して大分よくなつたから、最早心配して下さるなと云ひに衆た。
1私は又私で、何虞へも行く事がいやになつて↑庶二月、家を出なかつた。しかしいつまでも出ないでゐ
る事も、穐儀上できないから、たうとう出かけた0そこで父の家と妖の家へ義理上の訪問をした。
×
1大分病菊になつたので、母に衆て世話をしで貰ふつもりの虞、お睾も又、病気になつたので、よし(こ
こに初めて出てくる妹)と母と始終ついてた0それで父の宅からは世話して貰へなかつた。ただ近魔の女の人
人が暇のある時、全くの親切から衆て世話してくれるほかりで、誰も世話してくれるものもない。漸く堀氏に
頼んで、世話してくれるよいお婆さんを一人雇うて貰つた0この人の介抱でょくなりかけて、八月の初め頃に
は私も態程よくなつた。=・
九月四日嫌お幸は肺病でなくなつた。
I萬一の事があつたら、妹のょしが辛の代りになると初めに約束してあつた。後藤氏も全く猥りで居るの
も不自由故、同月十一日に結婚式があり、それから一通りの祀をした。
四月三十日に岡田氏が急になくなつた。
こんな事が重なつて色々費用がかかつたので大分困つた。
−事が死んでょしが飴り早く行つた事を初めて聞いた時、私は大へん気もちが悪かつた。しかし、私ほそ
の心もちを暖して以前の通り後藤にはなしをしてゐた。
十一月に後藤ほひとりで札幌に行つた。
明蹄ノノノ十三年二月二日後藤氏は東京にかへり、同月十四日よしをつれて再び北海道に出かけた。
ぎ.E.F巨
二月二十日午前六時三番日の子供(男鬼)出生、母子共に無事。
ヨ瀾
【女のつもりでゐた虞生れたのが男であつた。それで夫が勤めから辟つた衆て男子である事を見て大へん
驚いて喜んだ。
Tしかし子供は十分乳を飲む事ができないので哺乳器で育てねばならなかつた0
生れて七日日に少し髪を剃つてやつた。それから塊に七夜の統を今度はうちだけでした0
】少し前から夫は風邪を引いてゐたが、つぎの朝、咳がひどく出て出勤ができなかつたので終日うちにゐた0
その朝早く子供はいつもの通り乳を飲んだ。しかし午前十時頃胸がひどく痛むやうで、それから欒にうめき
出したから智者を呼びにやつた。折悪しく迎ひにやつた瞥者は市外に出てゐて晩までは辟らないとの事、それ
で直ぐに外の腎者を迎ひにやる方がよいと考へて迎ひにやつた0その留者は夕方来ると云つた0しかし午後二
時頃子供の病気は急に悪くなつて二月二十七日、三時少し前に子供は僅かこの世に八日ゐてあへなくなつた0
−今度又こんな不幸があつて、夫に嫌はれるやうになるまででなくとも、こんなに代る代る子供に別れる
のは、前世に何か犯した罪の罰に相違ないと濁りで思つた0さう思へば袖のかわく間もなく涙の雨も止まず、
私のためにはこの世で峯の晴れる事がないやうに思はれた0
鵜のために繰りかへしこんな不孝にあふので、夫の心も悪い方に攣るまいかと益ヒ心配になつて衆た○私の
心にある心配のために、大の心のうちも思はれて心配した○
∫∫∫ 日本への岡辟
それでも夫はただ「天命致し方これなく」と繰りかへしてばかりゐた。
一子供ほどこか近いお寺に葬られた方が、参りに行くのによからうと思つたので、大久保泉頑寺といふ御
寺で葬式をし、遺骨はそこへ納めた。
楽しみもさめてはかなし春の夢
(日附なし)私が色々心配した故か、子供が死んでから二七日問、瀦と手足が少しふくれた。
1しかし飴り大した事でもなく、直ぐに直つた 今ではもう三七日も過きた。
この日記が、小泉八雲のラフカヂオ・ヘルンにょつて英語され、初めて外国の雑誌に掲載された時、西洋の
‖′ア ル
批評家や文筆者は、これこそ眞のヒューマン・ドキュメントであると許し、驚くぺき眞質の人間記録であると
言つて紹賞した0しかし他の多くの人は、この筆者が日本に於ける特殊の例外な婦人であり、以て一般的な日
本女性を律すぺきでないと抗言した。これに封して、八雲は反駁大に努め、決してこれが稀有の例外的のもの
でなく、日本の至る所にザヲに屠る普通の平凡の女であることを力説したが、何且つ讃者はそれを信用しなか
つたといふことである0けだし結婚を以て奮修遊興の手段と考へ、良人を自己の経済的奉仕者としか思惟しな
い西洋挿入を以て、一般的女性の通有性と考へてゐる彼等外人にとつて、この日記の筆者のやうな一女性1
月俸十囲で生活してゐる最下級の貧乏人0しかも全然緻愛のない未知の男と結婚して、貧苦を厭はずこれに仕
へ、殉倖を以で良人を愛し、ペストを蓋して家庭を守り、しかも次々の子供に天折され、尚且つ絶望の底にあ
T
畑増加ヨ月町餞て生活を架泊瀾がめ=祁が入鮎=が、到管メーヂに想鮎郡朋ポ可新劇潤川和柑柑淵淵凋淵
ただへルンの如き辟化外人だけが、親しくこの事賓を知つて驚嘆讃美の情をつくすのである。ヘルンは命この
日記に註解後尾してかう言つてゐる。
「日本の生活状態に通じない人には、この簡単な歴史を全く理辟することができないだらう0(中略)自分はこ
の夫婦は家賃を入れずに、一日平均二十七八鏡で暮してゐたに相違ないと考へる0娯楽といつても、賓は験程
安上りであつた。入銀出せば、芝居見物にも義太夫開きにも行かれた。それから見物をするのは徒歩であつた0
それでもこんな娯楽は、この人々にとつては贅澤であつた。必要な着物を買ふとか、結婚、出産、死亡の時に
は贈物をせねばならない。かういふ費用は、戯身的経済によつて初めて出せるのである0賓際、東京の数千の
貧民は、これょりも一屠貧しくくらして居る。しかしいつも小締盟にさつばりとして、愉快に暮してゐる0こ
んな境遇にあつて子供を生んで育てて行くには、ただ飯程強壮の婦人にして初めて出来る0こんな境遇は、田
舎のもつと苦しいが、しかしもつと強壮な農民の境遇よりも、はるかに危険である0それで多数の弱いものは、
倒れて死ぬことが想像できる。」
賓際この日記の筆者は、最後の日附を書いてから、まもなく十数日後に死んでゐるのである0「昔話」とい
ふ日記の標題は、その死期の近いことを知つた女が、臨終にのぞんで自ら表紙に書き入れたものであらう0そ
してこの日記は、女の針箱の中に秘められてゐたのを、死後に態見されたものだと言ふ。その薄倖な生活に満
足し、良人の愛に感謝しながら、すぺてを過去の締らぬ「昔話」として、侍しく微笑しながら死んだ一女性の
ことを考へる時、たれかその可憐さに落涙を禁じ得ないものがあらうか。八雲がロを極めて絶質する如く、か
かる日本の女の心情には、まことに宗教以上に崇高で荘厳なものがある。昔、天主教のバテレン宣教師が日本
に爽て、聖母マリアのあらたかな幻影を、日本女性の信徒に見た、と言つたの息田然である〇八雲は伺これを
∫Jj 日本への同辟
姪ふ人の魚に、憩切にも次のやうな註解をしてゐるD
「この日記をよむ人は、こんなに慎み深くやさしい婦人が、竜も知らない他人の妻にならうと熱心に恩つたこ
とを、不思議に思ふであらう。資際日本に於ける大多数の結婚は、ここに書いてある通りの非小説的な方法で、
また仲人の力で整へられるのである。しかしこの人の境遇は、例外と言ふぺきほどに気の毒である。その理由
は哀れに簡単である。善良なる子女ほ皆結婚する事にきまつてゐる。或る時期を過ぎて未だ結婚しないのは、
本人の恥辱であり、また人の指弾を受ける。尿ひもなくこんな撰斥を受けるがいやさに、この日記の記者は、
自分の官然の運命を果たす眞先の横合を選んだ。この人は既に二十九歳であつた。こんな横合は再度出て来な
かつたかも知れないご
二十九歳と言へば、日本の現状としては眈にやや婚期を遅れてゐる。日記の筆者が、その結婚を以て唯一紹
封のチャンスと覚悟し、献身的の努力を以て良人に蓋したであらうことは、殆んど想像するに難くない。しか
しこれを以て功利的打算による行為と考へるのは、西洋風の唯物主義に捉はれた偏見である。なぜならすぺて
のモラルは、賓生活の功利と塘接に相関しながら、しかも功利を超越するところに木賃の良心を持つからであ
る。八雲は伶嘆賞して言ふ。
「自分にとつてこの哀れな奮闘と失敗の憐悔銘の真の意味は、何も稀有な告白があるといふ鮎でなく、ただ日
本人には、青杢や日光のやうに有り解れた何物かを示してゐるといふ鮎にある。柔順なることと、義務を立汲
に仕遂げることにょつて、愛情を得ようとのこの婦人の健気なる決心。どんな僅かな親切に射しても有する感
謝の念。小児のやうな信仰心。この上もない無私の念。この世の苦難は、智前の世に犯した過ちの報いである
といふ沸敦の鰐揮。絶望の眞中にも詩を作らうとする努力− すぺて此等のことは如何にも感動すべきこと。
いかに感動しでも及はないことであるD − しかしこれは例外とは思へない。ここに現はれてることは一例に
1T
ノ † ナ 1、.ぞ こ 威か・悪劉柑ヨ一一
いでる婦人は、日本には幾首萬人あるか知れない。」
まことに八雲の言ふ通りである。かくの如き女性は西洋の「例外」であるとしても、日本では有り解れた
「平凡」の女性にすぎない。我が友、室生犀星は善い詩を作つた。
君が可愛いげなる机の上に
▲わけ
色も朱なる小箱には
何を秘め給へるものならむ
と。かかる受難の生活記録を、その胸に侍しく秘めて「昔話」と表記し、人知れず針箱の中に隠して死んだ若
い女を、日本のイメーデの中に想念するほど、この園に生きる悦びを強く感ずるものが他にあらうか。女寧枚
の修身教科書は、細川忠興の妻を致へ、明智光秀の妻を数へ、乃木大将夫人のことを数へ、日本女性の典型的
な規範を説く。しかしもつと一般的な修身は、僕等の身遽にうようよしてゐるところの、かかる日記の平凡な
記者にあるのだ。つまり言へば、かうした一般的の平凡な日本婦人が、一朝事ある非常時に際しては、自害し
で節を全うする細川忠興夫人になり、良人に殉死する乃木大賂夫人にもなるのである。そしてこれを逆に言へ
ば、細川夫人や乃木夫人は、その平和な日常時の家庭に放て、この日記の記者とほぼ同じやうな情操生活をし
てゐるのである。
かかる日本の女性として、恵まれた境遇に生れながら、かの女種族張論者や欧化主義のインテリ女性は、そ
もそも何を僕等に新しく説かうとするのか。もとより今日の時勢に於て、僕等は極力、徳川時代の女大草的儒
j∫∫ 日本への伺辟
教主義を排斥する。今日以後の日本女性は、上古、中古に於ける王朝時代の女性と同じく男子と同等に畢問を
し、充分の高いインテリぜンスを教養せねばならないのである。そして命その上にも、古代に於ける如き自由
と鰐放を掴得し、儒教教育によつて零された個性を回復せねばならないのである。日本女性の全歴史から、徳
川時代を抹殺することは必要である。しかしながら決して、日本女性の美徳である本質のもの1忍耐、従順、
貞節、報恩、犠牲、献身、優美、快活、義務の観念等1を抹殺してはならないのである。況んや西伴風の征
服思想で、理由なく男性に反抗し、エゴイスチックの我がまま放題をふるまふことを以て、女権進歩の文明思
想の如く考へる輩に室つては、以ての外の認識不足と言ほねばならぬ。かうした軽薄の欧化思想は、日本の男
性を不幸にすること以上に、もつとより多く日本の女性自身を不幸の運命に欠落させる。そしてこの賓例は、
何よりも近く、西洋の女性等が膿験してゐる孤濁悲惨の生活1彼等の大多数は、眞賓の愛と家庭に恵まれな
いところの、不孝な楕紳上のオールドミスである。1について見れば知れるのである。良人の愛と抱擁を拒
み、自ら求めて抗争しながら、その所謂「人形の家」を出たノラの娘等は、今日でも命家郷がなく、前よりも
一層孤猫に漂泊し穎けてゐるのである。
しかしながら以上の警告は、今日の場合、日本の「新しい女」に対してょりも、むしろ日本の 「新しい男」
に対して、一層きぴしく成筋されねばならないのである。なぜなら世界の何所に於ても、女は常に男の教育を
反映するところの、受動的の「鏡」にすぎないからである。そこでたとへば、支那の女が一般に嫉妬深く、陰
険で手に負へないのは、支那の男たちが彼等を教育して、長く非人蒋的の奴隷化し、男子の肉慾的玩弄物とし
たからである。そしてまた同じやうに、西洋の女たちがエゴイスチックで手に負へないのは、西洋の男たちが、
自己のエゴイズムにょつて彼等を教育したからである。過去に日本の女が善かつたのは、つまり言つて日本の
男の数奇が書かつたからだ。それ枚に今日もし日本の女が、昔に比して少しでも悪化して居るとすれは、その
可▼
。一】ヨ一一
ヨ一召一
幸ひにして僕等は、今日まだ日本の女が悪化した革質を知らない。(モダンガールが生意気を言ふのは、賓
.タノJティ
際のところ口先ばかりである。おそらく彼等は、これをインテリとしての見得や虞粂の為に言つてるのだ。そ
してすぺての洋装婦人は、その外皮の下に固有の大和撫子を含んでゐる。)しかしながら日本の男性は、今日
サ ラ リー マ ソ
たしかに或る危険の状態に傾向してゐる。特に大多数の若い月給生活者は、結婚に関するモラルの理念を矢賀
し、西洋流の物質的享楽主義に走つてゐる0彼等は女性のヒューマン・キャラクタアを殆んど認めず、妻を以
て持参金附の娼婦と同硯し、肉慾の封象以外に女性の僧侶を認めてゐない。しかも彼等の家庭に於ける日本の
女は、かかる浮薄漢に対して誠意を蒸し、普ながらのしをらしい日本女として、心から貞節に仕へてゐるのだ。
かかる今日の世相を見る時はど、日本の女がいぢらしく可憫さうになることはない。そして同時に、日本の男
が卑しく下劣に見える時代はない。彼等は既に日本人の大和心を喪失し、かの日本式尊以来の日本的フェミニ
ズムと、日本的騎士道の凛々しい精神を失つてるのだ。
小泉八雲は、他の別の文章中で、日本の女が、男に此して逸かに色が白く皮膚が綺歴で、容姿が文明人的高
級であるばかりでなく、情操に於ても、男よりずつと純眞で感嘆すべき突徳を多く持つてると言ひ、日本の男
と日本の女とは、到底同じ人種とは思はれないほどだと書いでる。自分はこれを讃んだ時、八雲のあまりに誇
張した詩人的フェミニズムが可笑しくなり、微苦笑を禁じ得なかつたけれども、現に今日の西洋かぶれした、
功利的で樫桃浮薄な世の多くの男たちと、今日筒その志に堅い節操と殉情を持し、しかも従順にして義務の念
に厚い日本の一般的な女を見る時、僕等もまた時に「同じ人種とは思はれない」とさへ考へたくなる。今日多
少良心のあるインテリの男たちで、自己の浮薄でエゴイスチックな心を厳み、その妻や女性の前に、自ら儀悔
を感じてないものは一人もあるまい。まことに今日の日本に於て、女性は男たちの「良心」であり、併せてま
∫∫ア 日本への回辟
た日本の国粋なる美しいもの、貴いものの民族的美徳を守護する「良心」でもある。日本の女さへ攣らなけれ
ほ日本は永久に亡びない。と或る軍人が言つたといふ言葉ほ本官である。
しかしながら、要するに女は男の鏡像であり、男の感化の映像である。日本の男性等が、今日のやうにひど
く堕落し、モフルもなく、理念もなく、ひたすら卑劣な功利主義に惑溺して、大和心の純潔性を失つた時代に
於ては、今日の愛すぺき貞淑な彼等の妻も、やがて一髪して悍婦となり、情婦となり、妬婿となり、支那式の
女性に化するに非ずば、エゴイスチックな西洋式の女性に化して、たちまちその我がままな樺利を主張し、良
人に対してノヲの叛逆をあへてすることは明らかである。そしてその時こそ、日本のすぺでの美しいもの、貴
いものが磨滅し、民族的にも文化的にも、日本が永く亡びる時に外ならない。