詩人の文学




保招輿重郎君を初めとして、雑誌コギトにょる諸君の文筆は、過去のいかなる文増的ギルド系統にも所属し
Jお 日本への岡原

ないところの、全く新しい別種の文拳精神の出蜃である。つまりもつと詳しく言へば、彼等は小説の文壇から
出費しないで、詩のエスプリから出費したところの文学者である。所でかうした文拳や文学者は、過去の日本
文壇に全くなかつた。日本では「文壇」といふ言葉が、それ自ら「小説家のギルド」を意味した。故にすぺて
の文筆と文孝者とは − 評論家でもエッセイスーでも − 必然に皆文壇的ギルドに所属して居り、小説家の御
用聞きとして存在し得た。
 詩と詩人とは、日本に於て文壇以外に放逐され、難詰の創作欄にさへも入らないはど、文学として認められ
なかつた。故に過去の日本に於ては、いはゆる文壇(小説家のギルド)から濁立し、直撞に諸から出教して、
文壇に加盟することはできなかつた。室生犀星、佐藤春夫、横光利一、中野重治等の諸氏の如く、詩から小説
に持向し、詩人から小説家に攣つた人も、彼等が小説家になつた最初の日に、詩壇を捨てて文壇的ギルドに加
入し、そのジャーナリズムの一員としで、同じプロツタに連名せねばならなかつた。そしてその瞬間から、彼
等はもはや詩人でなく、いはゆる「文壇人」に襲つてしまつた。即ち言へば、彼等は「詩」をもつて文壇に乗
り出したのでなく、詩とは全く別種の一天地であるところの、文壇といふ舟に乗り換へをし、義経の八般飛び
をしたのである。
 かうした日本の文壇は、この最近二三年来、驚くぺき突教的攣化をしたロそれは過去の文壇的大部屋組織が、
一方に於て自然崩壊をすると共に、一万に於て青年のインテリゼンスが向上し、且つ同人組織による自由主義
の雑誌進出が、文畢の指標を革新した魚でもあるが、とにかくこの新しい時潮に乗じて、一つの高邁な指導精
神が費高く呼びあげられた。その高邁な指導精神とは、詩を以て散文の上に置かうとする認識、詩のエスプリ
にょつて、文壇を指導しょうとするところの、一つのインテリ意欲の現れである。かかる文筆の新しき欲情は、
誇のジャンクから小説の汽船に乗り換へるのでなく、詩的精神それ自憶にょつて、詩から直接に出蜃しっつ、
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文毯を指導しょうと音芸伽するのである。そして保円輿重郎君等の新しいエッセイ文挙がいれ茫rその雲脚を雲脚
した或る物に外ならないのだ。
 今日の日本に於ては、単なる詩作家としての詩人、畢なる韻文作家としての詩人は、文化的に全く無意味な
存在にすぎなくなつた。河上徹太郎氏の言ふやうに、必要なものは「諸」でなくして「詩人」であり、諸精神
を所有するところの文拳者だけが、時代のモラ〜として熱情的に呼ばれて居るのだ0そして保田君等の文拳と
文拳者が、かかる意味の詩と詩人とを代表してゐる。僕がこの文に標題して、「詩人の文学」と書いたのはこ
の故である。
 然るにこの「詩人の文学」は、過去の日本文壇にその頬系統がなく、突然攣化的の一新種として生れた為に、
多くの文壇人に驚異をあたへ、毀蕃褒乾さまざまの物議と批判を呼び起して居る0これを容めるものについて
は別に言はない。此所ではこれを赦するものについて〓岩しよう0
 大宅計二氏は、これを乾するものの極左であつた。大宅氏の評によれぼ、保田君等の文孝は「お筆先のやう
なもの」であり、日本浪鼻漁は人の道類似の邪宗敦だと言ふ。キリスト教徒の目からみれほ、俳教や同数は邪
教であり、反対に飽から見れば、キリスト教の方が彗がとされる0大宅氏にして日本の現文壇の信徒であるな
ら、保田君等の新文学は、たしかに邪教硯されるに相違ない0故に自分は、その鮎についての水掛論を故意に
避け、他のも一つのことについて述ぺょう。
「お筆先のやうなもの」といふ言葉は、たしかに大宅氏の名言であり、よく保田君等の文拳をアイロニイに批
評して居る。といふわけは、畢にそれが文鰹上での、ユニイタな癖を皮肉に諷したといふ意味ではない0「詩
人の文筆」といふものが、本質的に言つて、元来皆「お筆先のやうなもの」に外ならないといふことの、革質
の普遍的原理を指してるからである。だがその理由にょつて、大宅氏が「詩人の文寧」をやツつけ、僕等をコ
∫∂ア 日本への同厨
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キ下し得たと思つたら、これほど笑ふぺき誤謬はない。大宅計二氏は、前にもかつて「詩人認識不足論」を書
き、逆に却つて自ら詩を知らないことの認識不足を暴露させた。詩を理降しない人間が、詩精神に立脚する文
畢やエッセイを理併し得ず、これを漫馬的に嘲笑するのは自然である。僕等の詩人は、今日文壇にゴロゴロし
てゐる瓦石の如き此等多数者に封して、詩の何物たるかを初拳的に啓蒙併設することの必要さを、常に深く嘆
き感じてゐるのである。
 人間は−どんな天才でも−一人で萬能の才能を余ね得ない。敢禽の職業には分業があり、畢術のジャン
ルにもまた分業がある。所で詩といふ文筆は、常に杢束の上層に浮ぶところの、アトモスフイアのやうな文学
である0詩はHT河P冒∽.の言語命題に於て、l→(雨がふる時の気分、操感)を歌ふ文学である。たとへば
牡合改革の一大攣化が、近く迫つてる時潮に於て、詩人は常に漠然たる不安を訴へ、或る意味のない象徴の言
語によつて、心の動格、悲嘆、絶望、懐廃、怨恨、憤怒等の諸現象を、言葉の函数的フォルムに形象しながら、
何かの繚紗たるイメーヂに現はして歌ふのである。詩人は決して、具債的なる如何なる主義思想も表現しない。
なぜなら詩人は、かかる抽象観念の生れる前の、現賓の人間生活そのものを、自分の杜合的環境から膿験して、
それをア下モスフイアの気分裡に於で感じ、且つそれを感覚することにょつてのみ生きてるからだ。まことに
詩人の生活は、不断に規敏なアンテナを張つてるところの、神経それ自鰹の生活に外ならない。故にまた詩人
の言葉は、常にlT押わH宅S のl→に轟きてる。
 かうした詩人の言葉は、多くの拳術的教養のない人々にとつて、たしかに意味の牌らない迷語であり、づフ
モン教徒の呪文の如く、正しくまた「お筆先のやうなもの」に見えるのである。大宅肝二氏が、保田君等の文
学を解して、かく言つたのは、この意味に於てまことに親切の批評であつた。しかしその「お筆先のやうなも
の」こそ、資に入間杜曾の文化を指導し、昨日の雅紀を今口の世紀に導くところの、あらゆる襲化と革改との
先騒音なのだ。なぜなちそれは、すべての行動と思想との前にあるところの暗雲藍すぺての行動
と思想とは、それの暗示の啓餞から、迷語の註輝から後に来るからである。
 それ故にまた詩人は、決して眞の思想家でもなく、決して眞の行動者でもない。詩人は武器を持たない兵卒
であつて、しかも軍の最先頭に立つで進むところの、花やかにして勇ましい軍架手である0彼等は常に例外を
吹き、太鼓を叩いて行軍する。詩人の文化戦線に於ける軍務は、一方で行進の先導をすると共に、一方で「士
気を敷舞する」といふことにある。詩人が嘲爪を吹かなかつたら、行軍に疲れた兵士たちは、士気を浪費して
道路に倒れ、文化理念への戦志を失ひ、卑近の俗化主義へ稗落して、忽ち落伍者の群を穎出する0
 しかしながら軍欒手は、自ら敵を殺すところの戦士ではない。詩人の濠盛したHTの暗示は、後に績いて進
むところの、賓の武器を持つた行動者等−印ち政治家や、軍人や、宗教家や、祀合主義者−等の、一大軍
囲によつて質行される。そして伺その前に、寧者や思想家によつてイズム化される。学者や思想家やは、詩人
の象徴するイメーヂを分析し、それの暗示する内容を抽象して、一つの鰹系ある杜曾科学や文化批判に構成す
る。詩人ルツソオの一文撃は、かくしてリベラリズムの哲畢を生み、資本主義の牡倉卒を建て、速に悌蘭西革
命を行動させた。
 詩人の文寧とは、常に「トピックを提出する文筆」である。詩人は決して論理を語らず、思想の解決を演繹
しない。彼等ほ常に、現象の起る一歩前を歩いて屠り、而の降る革質の先に、それの漠然たる濠感(T→)を直
覚する。それ故に詩人の文筆は、いつも文壇の一般的歩調に先立ち、それの文墳的ジャーナリズムが起る前に、
早く眈に五年も十年も先行しで居る。そして文壇の一般歩調が、漸くそれに迫ひ附いた時、詩人は既にそのも
一つ先のことを考へ、別のまた新しいトピックを提出する。しかしながら詩人は、畢にそのトピックを、トピ
ックとして暗示的に表出するにすぎないのである。そこで頭脳の鋭敏な文学者や思想家が、かうした「詩人の
∫6夕 日本への岡締

文寧」から、今日の問題を後見し、それを演琴註辟することにょつて、彼等自身の議事と毒を構想する。講 和
人はすぺての文学と文学者とに、最初の啓示を輿へるところの母岩であるO j

詩人は噂鳥のやうなものである0彼等は文化の新しい夜明に於て、いつもその「朝の歌」を唄つてゐるのだ。
詩人は常に心の朗らかな歌を持つてる0たとへ最も暗鬱な絶望的な世紀に於て、最もニヒリスチックな生活を
してゐる時でも、詩人は「美」以外のいかなる文孝をも表現しない。なぜなら詩人は、永遠に夢みる心の楽し
さを持つでるからだ0そしてまたその故にこそ、世紀の最も紹望的な時代に於ても、詩人が常に文化の指導者
として思慕されるのだ0十九世紀末の欧洲詩人は、あの虚無思想のデカダンスが氾濫した時代に放ても、尚且
つヱルレーヌの如く、ボードレエルの如く、文筆に於ける最高の「美」を表現し、人の世の生甲斐ある喜悦を
敦へた8もし詩人が居なかつたら、十九世紀はその重病の苦悩に耐へず、おそらく文仕的の自殺を遽げた。
 詩人の生命は「若さ」である0年齢の著さでなく、魂の青春性を言ふことの著さである。おょそ人間は、そ
の魂の青春性を喪失しない時期の問、だれでも「心の歌」を所有して居る。そして詩人とは、その心の歌を唱
歌にして、天下公衆の前に朗吟することの名手を言ふのだ0人がもしその心の歌を失つたら、個人としての青
春が絶つたのだ0文化がもしそのエスプリの歌を失つたら、文化が既に老衰して、療亡の死期に近くなつたこ
とを意味するのだ0そして現代の日本文化は、正にその不吉な前兆を暗示してゐ・る。即ち個人的にも社台的に
も、どこにも全く「歌」がなく、歌ふことの意志さへも燕くなつてゐるのだ。そもそもこの時、だれか一人立
つて歌を唄ひ、公衆に演説して、歌ふことの梢紳を敦へるものが居るだらうか。もしその精紳を数へるものこ
そ、現代に於けるナポレオン的英雄に外ならない0そして保田輿重郎君等の文寧が、ひとり新しきリラを弾じ
てこの時代に青春を呼び、歌ふことの意志を呼び起さうとして居るのだ0彼等はキリストの前に生れて、野
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一一ヨ
に埠を噴つた準富者の如く、今日の文化に於て、正に「義」とせらるぺきものにちがひないのだ。そしてすぺ
ての漁言者の言葉が、それ自ら二種の 「お筆先」 である如く、彼等の文学もまたお筆先みたいなものにちがひ
ないのだ。しかしながらそれは、断じて大宅氏の言ふ如き邪宗門ではない。むしろ過去の文壇的邪教と挑戦し
て、新しき頑音を呼ぷための新約なのだ。