批判精神のない詩壇
日本の詩人の孤独さは、全く批判のない世界で、寂しく創作してゐるといふことである。西洋では、詩人が一冊の書物を出す毎に、全文壇が総立ちになつて批判をし、最も大きな問題と反響とを呼びおこすのである。ヴァレリイが二十年ぶりで詩を書いた時、仏蘭西の文壇は引つくり返るやうな騒ぎをした。ボードレエルの「悪の華」が出た時も、非難や賞讃やの混つた批判で、全文壇が大騒ぎをした。単に抒情詩ばかりではない。小説やエッセイのやうなものを出しても、詩人がそれを書いたといふだけで、文藝年鑑の第一頁を批判で埋めてしまふのである。これが日本はどうだらうか? 僕等の実情を考へれぼ、殆んど寂しくて言ふ言葉もない。日本の詩人ぐらゐ、批判もなく反響もない孤寂の世界で、黙々と仕事をしてゐるものはないのだ。
文学といふ仕事は、もとより世評を目的にするものでなく、心の止みがたい衝動から、自然的に「書かねばならない」と信ずることを、自我の表現欲にしたがつて書くのである。しかしすべての表現は、必ずその聴者を求め呼んでゐるのである。高山の山頂で、空と烏とを対手として、黙々冥想してゐるやうな哲人でも、一度口を開く場合は、必ずその聴衆を求めて居るのである。故に仏陀やツァラトストラでさへも、表現のためには山を下つて、自ら群集の中に立つのだつた。全く聴き手の居ない無人の世界で、人は決して演説できない。文学が「自分のための表現」であることは、同時に「他人のための表現」であることを意志して居る。批判もなく反響もない孤寂の世界で、ひとり黙々と書き続けて居るといふことは、どんな文学者にも決して出来ない仕事なのである。
かうした孤寂の真空圏内で、ひとり黙々と仕事をしてゐる日本の詩人は、まことに超人以上の神仙人と言はねばならぬ。単に僕等の仕事は、文壇的に黙殺されて居るばかりではない。詩壇それ自体の内部に於ても殆んど批判らしい批判がなく、年々刊行される多くの詩集は、闇から闇の沈黙へと、空しく埋葬されて居るのである。数年かかつて一冊の詩集を書き、そのまま無批判に黙殺される詩人の不幸を考へる時、僕はむしろ鬱憤に似た悲しみをさへ感ずるのである。詩人は小説家とちがつて、全く生計費にならない所の、無償の原稿を書いてるのである。それでしかも批判がなく、無記名に黙殺されるのが運命だつたら、詩人の仕事ほど果敢なく報いられないものはない。
かうした詩人の不幸は、一には全く詩人自身、詩壇自身の罪なのである。「武士は相見互ひ」といふ言葉がある。日本の文壇が、僕等の藝術を理解せず、詩を批判の圏外に除去するなら、せめては仲間の詩人同士で、大いに批判精神を盛んにし、互ひにその仕事を高く認めてやらねばならぬ。然るに日本の詩人たちは、この点で全く冷淡であり、少しも仲間の仕事を認めず、却つて嫉妬心で排他し合ひ、何等の批判精神をも呼ばうとしない。甚だしきは、故意に他を黙殺しようとするやうな態度を取つてゐる。彼等の詩人群をたとへて言へば、絶海の無人島に漂流しながら、自分等の地位と不幸とに気がつかないで、同士互ひに噛み争ふやうなものである。「相見たがひ」の武士道精神を知らない日本の詩人が、自ら求めて孤寂に住むのは当然である。
詩人に比して、日本では小説家の方が却つて概して大人であり、人物の器宇が大きく、文士相見互ひの武士道精神もよく知つてゐる。小説家の文壇では、何よりも批判精神が盛んであり、多少の力作が出づる毎に、常に喧々囂々の批判と反響が湧きおこる。特にたとへば、島崎藤村氏の「夜明け前」とか、谷崎潤一郎氏の「春琴抄」とかいふ如き、一代の力作や傑作が現はれた時、全文壇は口をそろへて激賞し、有名無名の全作家が、こぞつて皆批判の筆を取るのである。かうした文壇でこそ、初めて文学者の生活する張り合があり、物質に報いられない境過にも、他の代償される生甲斐を感ずるのである。もし批判といふものが絶対に無かつたら、純文学者は到底孤寂に耐へないだらうと、或る小説家が正直に告白したが、僕等の詩人といふグループは、全くその孤寂に耐へて生きて居るのだ。しかも自ら、その不幸な境遇を傷み悲しむことさへなく、大部分の連中は、無神経にぼんやり暮して居るのである。もしさうでなかつたら、小説家の文壇以上に、詩壇は批判精神で賑やかになるべき筈だ。日本の詩壇は、たとへ「春琴抄」や「夜明け前」のやうな力作が出たところで、ロクな批評一つ起らず、問題もなく反響もなく、冷淡に黙殺してしまふばかりであらう。最近最も傑出した新進詩人、伊東静雄君の如きも、僕等がもし批判しなかつたら、詩壇は例によつて黙殺したかも知れないのだ。その説の正邪賛否は別として、西脇順三郎氏の詩論集の如きも、充分内容的に批判さるべき問題を持つてゐるにかかはらず、詩壇は極めてこれを冷淡に白眼視し、多く問題にさへしなかつたのである。
ボードレエルは、批判精神の無い詩人はニセモノであり、信用が出来ないと言つた。ゲーテもまた、真の詩人は本質的に批評家であるべき筈だと言つた。日本の詩壇に批判がないのは、日本の詩人に批判精神が欠乏してゐる事実を意味する。もしさうでない場合は、詩人が互ひに嫉妬深く、他人の功名を卑屈に妬んで、故意に沈黙してゐるといふ事実を意味する。二つの場合に於て、もし前者であるとすれば、日本の詩人がニセモノであり、信用のできない非本質的なポエトであることを実証するし、もしまた後者であるとすれば、人物の器宇が小さく、女子小人に類する卑小漢であるといふ実証になる。そして何れにしても、僕等の仲間の恥辱である。