詩人の稚態




 一月の「詩人」といふ雑誌を見たら、大宅壮一氏が、詩人は皆認識不足の低能児だと言つてる。いつかも他の場所で、大宅氏は日本の詩壇を評して「鼻たらし小僧の寄合世帯」だと罵つてゐる。当時それを聞いた時、僕はあまりの暴言に立腹して、大宅氏に一矢報いてやらうと思つたが、今になつてよく考へてみれば、大宅氏の言にも確かに一部の真実があり、自分等の脚許を考へないでは、うかつに大きなことが言へない気がする。
 西洋で「詩人」といふ存在は、実に威風堂々とした立派な文壇王者的存在である。ゲエテとか、ラムボオとかいふ詩人の名の前には、パルザックやフローベルのやうな大小説家さへ、帝王の前に出た貴族のやうに、一段小さな卑俗的存在になつてしまふ。最近の仏蘭西などでも、ヴァレリイが文壇の王座に紫袍を着て威権して居る。これは勿論、西洋の文壇が伝統的に詩人を尊び、詩といふ文学に対して、宗教的な神聖観を持つてゐる為でもある。しかし試みに地位を換へて、日本にその伝統があつたと仮定し、現に今日の日本に於て、文壇の王座に地位させるやうな大詩人が、果して実に有るだらうか。西洋で詩人といふ連中は、下ッばの二流どころの奴でさへも、小説家なんか眼中に置かない高邁の気概を持つて居るし、実際にまた、それだけの高い見識と批判力とを持つて居るのだ。所で日本の詩人といふ連中は、どうヒイキ目に考へても、そんな歴々たる文学者ではない。正直に観察して、日本の詩人といふ連中は、概して皆小説家よりも頭脳が悪く、才能見識共に劣つた一段下層の人間らしい。実例をあげても、島崎藤村や谷崎潤一郎のやうな作家と、堂々正面から太刀打ちのできる詩人が、果して日本の詩壇に幾人居るか。日本の詩人といふ連中は、少数の例外を除く外は、たいてい皆無邪気な中学生的乳臭見で、見識もなければ思想もなく、単にお祭酒に酔つてワイワイお神輿を据ぐところの、そして単にそれだけを能事とするところの、大宅壮一の所謂「鼻たらし小僧」の類ではないか。
 僕の郷里の上州は、昔から政友会の本場であつて、所謂政治狂の青年がたくさん居る。これは特殊の感受性をもつた若者たちで、日常だらしのない生活をして居りながら、何かの政治的センセイションに触れる毎に、熱狂的な志士的気概に駆り立てられ、自己の財産も仕事も投げだし、所謂憲政の擁護や國體の顕揚のために悲憤憾概して演説する。この上州名物の政治狂は、つまり昔の上州に横行した侠客長脇差の時代的な変貌であつて、理智の批判もなく反省もなく、一時的なパッションに駆られて、自己陶酔し、しかも自己陶酔することに生活の意義と悦びとを感じて居るのだ。所で日本の詩人といふ連中が、たいてい皆この「政治狂」に似た連中なのだ。彼等の多くは、内に何の反省もなく批判もなく、単に無邪気な感激や感傷に酔ひ狂ひ、気狂ひじみた無知の人生を行為することを以て、自ら「純一の詩精神」だと思つて居るのだ。ラムボオは藝術よりも詩を愛し、詩よりも尚行動を強く求め欲情したところの、真の詩精神を持つた詩人であつた。しかしラムボオの詩精神には、近代文化のデリカの神経を内容してゐるところの、多くの複雑な批判と反省とがあつたのである。ヱルレーヌも同様であり、カトリック的叡智のあらゆる影深い意味の中に、彼のデカダン的詩精神を行動したのだ。然るに日本の詩人の行動や詩精神には、この文化的批判の根拠してゐる叡智といふものが殆どないのだ。それは政治狂や侠客博徒の仁義と同じく、単なる粗野の素朴的な「感激性」にすぎない。そしてこの種の感激性は、野獣の本能的な情緒と共に、藝術の詩精神に属すべきものではないのだ。
 先月文学界の詩壇時評で、自分は日本の詩人の卑小さを嘆息した。日本の詩人が卑小だと言ふことは、上述の見地から観察して、彼等に文化的の教養性と批判性がなく、素朴に単純すぎることを意味するのだ。つまり日本の詩人といふ連中は、一般に言つて子供すぎるのだ。それも幼稚園の子供だつたら、反つて素朴のところに天真の取柄があるのだが、生意気盛りの中学生的子供だから困るのである。但し此所に「子供」といふのは必しも年齢上のことを言ふのではない。ゲーテや、キーツや、ラムボオやは、二十歳にもならない少年時代に詩を作り、立派に詩人として世に立つて居たのだけれども、彼等の思想は既にすつかり成熟して居り、当時の最高な文化思潮や社会思潮を深く理解し、且つ自らその時代的苦悶に強く煩ひ悩んで居たのだ。政治狂的素朴な感激家は、浪漫派の時代にさへも、西洋の詩人には見られなかつた。彼等は日本の詩人に比して、此較にならないほどインテリであり、皆堂々たる批判をもつた、一流の卓見ある思想家だつた。
 大宅壮一氏の言によれば、日本では馬鹿が詩作し、利口が小説を書くのださうだが、一部の例外を除いて言へば、たしかにさう言つた事実が見られる。室生犀星君は、詩人と小説家との人物評で、詩人は単純でウマミがなく、空気饅頭みたいで面白くないと言つたが、僕も多くの詩人と交際して、やはり同じやうな不満を感ずる。詩人といふ連中は、概して皆正直で人が善く、純真に明けつばなした性情を持つて居るので、その点小説家の功利的で、陰険に世間ずれしたのに比して感じがよく、人間的に深い愛と親しみとを感じ得るが、概して皆頭脳が低劣で、批判力が欠乏し、犀利な智慧と神経とを持たないので、あッけなく食ひ足りないと言ふよりは、こつちが苛々して来て腹立しくなる。
 つまり日本の詩人といふ連中は、概して文化情操のデリカシイとインテリヂェンスとを欠いてるのである。然るに「詩人」といふことの特質は、その文化情操のデリカやインテリやを、尖鋭的に所有してゐる人物を指示するのである。そこで日本には、すくなくとも外国で観念されるやうな意味の詩人が、甚だすくないといふことになる。かつて春山行天や北川冬彦等の諸君が起した「詩と詩論」の運動は、かうした非インテリ的無教養の日本の詩壇に、基本としてのカルチュアと知性とを与へようとしたことの運動だつた。そのため彼等の知性主義は、角を矯めて牛を殺すやうな弊害を招いたけれども、動機としては正当の運動であり、すくなくとも日本の詩壇は、これによつてその政治狂的、中学生的素朴な感激性を、自ら芸術的として反省するやうに目醒めて来た。

 詩人のカルチュアといふことは、広義の意味での「批判性」を意味するのである。それ故にボードレエルも、批判性を持たない詩人は駄目だと言つてる。実際また、外国では詩人が常に文化の批判家を兼ねて居り、詩人といふ言葉の中に、それを権威的に意味して居るのである。プラトンがその国家諭の中で、詩人を国外に放逐すべしと言つたことは、彼自身が詩人であるところのプラトンとして、常にその自家矛盾を指摘されて居るけれども、真質の意味することは当然である。なぜなら詩人は批判家であり、そして理想国家のユートピアでは、批判の存在する余地がなく、詩人の必要がないからである。その上にまた理想国では、詩の欲求される本原のもの、即ち悩みや悲みやの人生苦がなく、すべてが円満自足した状態に存する故に、詩人の生存意義が無くなるのである。
 日本の詩人は、客観的批判性を持つた場合に、たちまち詩を捨てて小説家になる。批判性を持たない幼稚乳臭の子供だけが、日本では詩を書いてるのだ。即ち詩人とは、認識不足者の謂であると、大宅壮一氏が言つてることも、すくなくとも日本の詩壇に於て真実である。外国の詩人にあつては、その客観的批判性が、詩的精神の強烈な主観の中に取り込まれて、客観が客観でなく、批判が単なる批判でなく、詩人の純一な主観の焔で直感的に燃えてるのである。故に彼等にあつては、詩人が常に純一の詩人であつて、同時に犀利の批判家で有り得るのだ。然るに日本では、正に大宅氏の毒舌する通りに、詩人とは認識不足者の謂であり、批判を所有しない故に詩人であり、智慧を持ち得ない故に詩人なのだ。彼等が智慧と批判に目ざめる時、たちまち詩を棄てて小説家になる。なぜならその時、彼等はもはや詩精神の純一主観を失ふからだ。
 しばしば他の論文でも書いたやうに、日本で詩人と称する文学者は、すべてに於て最も不幸な犠牲者であり、過渡期文明の受難を一人で負つてる殉教者である。自分はあらゆる点に於て彼等の受難に同情して居る。そして尚且つ、文壇的、社会的にも、彼等の位置を高めることに努力して居る。仲間の詩人を罵り、詩を軽蔑するものに対して、自分は常に正面からの抗争を続け戦つて居る。しかし一度退いて自己の陣営を反省する時、意外にその言ひ甲斐のない実質を知り、敵に対して誇語しただけ、一層また自ら羞爾として寂しくなる。要するに日本の詩人は、もつとインテリ的に成熟し、文化的カルチュアに於て生育したところの、一人前の大人になることの必要がある。