中河与一氏の偶然文学論について


中河輿一氏の「偶然文争論」は、前からその論争などを断片的に讃んで居たが、僕にはその主意がよく解ら
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なかつた。つまり物理寧上の偶然説が、文撃と何ういふ工合で交渉するのか。またそれを提出する必然性が何
所にあるのか。その鮎が僕に解らなかつたのだ。然るに今度氏の著書「偶然と文学」を通讃し、始めて中河氏
の主張する構紳がょく解つた。
 十九世紀の大きな悩みは、決定論の因果を切りぬけ、如何にもして自由を獲得したいといふことだつた。カ
           】ものLでの・もの
ントはそのために「物自爾」のせ界を設け、ショーペンハウエルは捏奨を説き、ニイチエは超人の飛躍を説い
た。中河氏の提出する精紳も、つまりこの十九世紀以来の宿題であるところの、自由の獲得といふロマンチシ
ズムの熱情にもとづいて居る。賓際ロマンチシズムは死んでしまつた。そしてこの下手人は箕澄主義の合理観
であつた。自然主義の文挙がはぴこる時、天才は地下室に監禁されねばならなかつた。
 中河氏の炸語法は、料率孝説と文寧とを関聯する鮎に於て、少しくスコラ風の煩煩があり、難鮮を指摘され
る鮎があるけれども、議論の根本的精神は一貫してよく辟つて居る。箕にその主張する精神は、自然主義に対
する駁撃であり、合理主義の人生温と、メカニズムの方法論への挑戦である。いかに久しい間、我等の仲間で
「科挙的」といふ言葉が樺威を持つたか。そしてこの言葉は、文学に於ての「常識化」を意味して居た。それ
はすぺての飛躍的、天才的なものを排斥し、凡俗的、卑俗的、一般性的のものを蔓延させた。文筆の新しい復
護川は、・今日〓血たこイチエの貴族・王義を呼び起して、寸ノべての卑俗“化した 「常孝・王義」 を反撃しなけれlばたらた
いのである。
 自然主義文撃の誤謬は、事賓と眞理、存在と慣値との不聴明な混錯だつた。践瓶の水が湯になるのは、畢な
る一つの「事賓」である。しかしながらそれは、何の科挙でもなく文孝でもない。この事賓の賓験からして、
蒸菊横綱を磯明するのが科学ハ僧侶)であり、同じその現象から、一つの人生的な意味を態見するのが文学
ハ償値〕である。自然主義の文拳論は、この慣俺の世界を忘却して、有るがままのザインの世界を、軍なる馬
生主義で書けと数へた。そのため文挙が「意味」を失ひ、日常茶飯的卑俗な身遽小説になつでしまづた0中河
氏の偶然論は、よくこの鮎で自然主義の急所を衝き、現文増の病癖を啓蒙しで居る。
一月司d題
 合理的メカニズムの横行は、文筆に於ける「話」を殺す悪疫である。しかも今日では、詩人自身がそのメカ
ニズムを唱へるほど、病気が一般に蔓延して居る。此虞で中河氏の偶然論が、ペルグソンの直配主義を繰出し
て、痛快にまでこの文孝的妖怪を退治されてる。詩人としての立場に於て、僕等は中河氏を支持せねほならな
いのである。
 要するに中河氏の主張は、現文壇に対する第一原理的革命論である。それは反自然主義と、反合理主義と、
反卑俗主義との全命題を包括した、lつの新しきロマンチシスムの主張である。そしてまたその故に、これは
「詩を呼ぷ」所の精神である。


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                       プロパビワサイ
 中河氏の偶然論は、人生が確然律の法則でなく、蓋然律の法則で支配されてることを説くのである。つまり
砕けて言へば、この世には人智の換想されない不思議があり、目算のつかない「運」の紛れ首りがあるといふ
のである。思ふに中河氏は、この詩人的な思想の閃きを、成る日の競馬場から拾はれたにちがひない。(氏ほ
競馬を好んで居るJ競馬場にあつては、常に確然律が破れて蓋然律が勝利を得る。そして同様にすぺての賭
博が、この偶然のチャンス(運)をねらつて賭けるのである。そこで偶然論の結論は、人生が一つの賭博であ
るといふアフオリズムに辟着する。
 この思想は詩的である。そして詩的であるといふことは、常識的でないといふことを意味するのである。常
識的な思想は、常に冒険を避けて安全をとり、飛應を恐れて千几を悦ぶ。常識人の常識思想は、その鮎で常に
J引 水からの抗争
一軍▼≡

科挙の合理主義を歓迎する。人生がもし賭博であるならば−−22ケ4の確然律でないならば −彼等ほ不安
で一日も生きられないのだ。夜の次に朝が来り、朝の次に室が来る。そして妻をめとり、子供を生み、月給を
取り、年を取り、隠居をし、最後に死んでしまふ所の、平凡で常識的な人生のみを考へてる。彼等の現念の法
則は極つて居る。原稿の次に稿料を表象し、稿料の次に女を考へ、女の次に屠物を考へ、潜物の次に百貨店を
表象する。この表象の法則は、1234S67の順位敷で、いつでも22ケ4の確然率で規定されてる。
 自然主義の文孝は、かうした常識人の常識思想を代表してゐる。そこで彼等の文筆は、22ケ4的中凡人の
平凡生活を書くのである。だから自然主義の柴える閏は、すぺての「詩」と「天才」が香定される。天才とナ
ポレオンとは、いつでも奇想天外の着想をする。彼等は22ケ4の確然律を香定して22ケSの超常識に飛躍
をする。詩人の表象する観念は、1234Sの順位敷的配列でなく、馬の次に濯が来たり、空母の次に嘲爪が
出たり、偶然の次に毛穣が現れたりする。即ちグアレリイの言ふやうに、詩は偶然の逓の産物であり、不思議
なチャンスの達績である。詩人と天才とは、決して合理主義のメカニズムを承諾しない。ナポレオンが運命論
者であつた意味に於て、すぺての詩人は皆運命論者なのである。
 中河氏の偶然論は、この鮎に於ける「詩人の勝利」を主張するのだ0そして詩人の勝利とは、それ自ら「自
然主義の敗北」を意味するのだ。我々は眈に長く、自然主義的なる人生観に悩まされた。それは天才を香定し、
詩人を香定し、人生に放ける「夢」を香定し、その上にも命、すぺての貴族的なる高邁の構紳を虐座した。そ
こで戟々の文学は、夢を持たない常識人の卑俗的屠眠文孝になつてしまつた。それは打倒しなければならない
のだ。
 僕は今より約二十年前、「新しき欲情」といふ書を著して自然主義を攻撃し、来るぺき浪漫主義の勝利を約
束したが、今日、中河輿ノ氏を始め、文壇の若く新しい機運の中に、次第にその敬牙する季節を感じ、僕の古
葛▼賢
き新約が叱礼づくことを知つて嬉しいのである。