嘘と文学
「そもそも詩歌俳譜とは、嘘を巧みにつくこと也0」と、芭蕉がその遺文集の中で音つてゐる。「すぺての詩は
嘘である0だがすぺて詩は眞賓である0」と、ジャン・コクトオもまた同じことを言つてる。「嘘をさへ書けな
いやうな詩人ほ燕能である。異質をしも言ひ得ない詩人は似而非物である。」と、私もまた最近ある詩論に香
いた。
嘘をつくといふことは、だが詩人に限つた話ではない0すぺての文季者は嘘つきである。特に小説家は大嘘
つきである0なぜなら小説に書いてることは、皆作り話であり、ロマンスであり、作者の杢想が勝手に作つた
ノーベルだから0そこで夏目漱石の定義によれば、蛮術とは「畷装して眞を紛らはすことの技術」となるのだ。
しかし詩歌俳譜といふ蓼術は、小説に此ぺて逢か正直物の蛮衝である。詩はどこまで行つても主観人の表現
だから、作者の赤裸々の感情を、その原型のままのナイーグさで、単刀直入に書く外にない。小説家はいつも
仮装して銀座を歩き、決して自己の正慣を人に見せるといふことがない。然るに詩人は慣れ笠を持つて居ない。
詩人はいつも自己を露出し、丸裸で叙座通りを歩いてると、聴明人の小林秀雄が、座談禽で言つたことは本官
である○しかし一方から観察すれば、逆に却つて詩人の方が、小説家よりも倫役狩の暁つきである。なぜなら
詩歌俳譜といふものは、小説の如く現貰の馬質的レアリズムに拘束されず、主観の純粋なイマヂズムで自由に
放縦なことが書けるからだ0この詩と小説との相蓬は、美術と音楽との相違に似てゐる。美術1造形蜃衝と
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しての美術−は、常にその対象のモデルによつて、感覚的形態に印物されねばならないのに・青葉の方には
その束縛がなく、イメーデを勝手に構想することができるからだ0そこで昔から−詩人の牢想は天馬基を行く
と言はれてる。小説家のロマンスには、この天馬杢を行く放縦性が許されないのだ0小説家は窮屈であり、与
れだけ嘘がつけないのである。
詩人は大境つきほど天才である。白髪三千丈、愁ひによつてかくの如く長しと言つた李太白は、この駄法螺
によつて名筆を天下にあげた。ゴルレーヌは酒盃の中に聖母の叡智を見たと言ひ、ボードレエルは雲で作つた
スープを常食してると嗟を言つた。芭蕉はこれをもつと幽玄饅に標紗して、「唐崎の松は月より騰にて」と洒
落のめした。
そもそも詩に於ける嘘とは、イメーデの美的な誇張といふことである。或は讃者をペテンにかけ、逆説的に
ひつくり返して、不意打ちを食はせることの技術である0詩歌俳譜の名人とは、この手の励俸奥義を饉得して、
嘘つきのコツを知つてるものの謂である。所詮するに璽術とは、美を表現することの技術にすぎない○そして
「美」とは、人を楽しくする物の一切を言ふのである0
過去の日本に、自然主義と呼ほれた文畢のイズムがあつた0この文学上の一イズムが、その認識不足から犯
した罪の最大箇條は、賓に「美」を香定したことであつた0彼等は言つた0文筆とは、人の心を楽しめるもの
であつてほならない。反対に人の心を陰鬱にし、頭痛を起させ、療や病気の種となるやうなものだけが、厳粛
に県費の文寧と言ふぺきだと。そこで自然主義の文壇では、第一に「許」が殺致された0なぜなら詩といふ文
寧は、たとへ厭せ絶望の悲嘆を歌つたものであつても、その胡律の美やイメーデの語調で、必然的に讃者の心
を楽しくし美の悦びをあたへるから。世に悲しい詩といふものは存在する0しかし欒しくない詩(美を本質し
ない詩)といふ物は存在しない。
J2ア 無からの抗争
−づ鴻凋[一一点
詩を抹殺した自然主義は、次にロマンスを香定し、小説それ自饅を去勢してしまつた。即ち小説から、一切
の宅想や仮想を排し、畢に作者の身遽的書生活のみを、日詰的に記録することを要求した。何となればと、彼
等の自然主義者が言つた。すぺての峯想やロマンスやは嗟であり、そして文学は、嗟を書くべきものでないか
らと。それからして文壇にほ、今日のいはゆる身過小説や心境小説が繁柴した。それは讃者をして、文字通り
に「陰鬱にする」ところの、クソ面白くもない退屈千萬の去勢文孝であつた。
此所で最も馬鹿馬鹿しく、僕の背から腹が立つてたまらぬことは、日本の詩人や歌人諸君が、あへてかかる
愚劣なイズムに反撃しょうとしないばかりか、逆に自ら降服して、自然主義の美挙に返り忠をしたことである。
即ち日本の詩は、その時以来全く美と鵡律を失費し、ガヲク夕日語の似而非自由詩になつてしまつた。そこに
はもはや、人の心を楽しませる如何なる実の本質もなく、逆に却つて人の心を苛々させ、不快な雑音的現筆算
感のみ強要するところの、自然主義的悪レアリズムの詩だけがあつた。そして一方に和歌と俳句が、同じくそ
の自然主義に影響されて、いはゆる馬生主義の標語の下に、身遽小説的日常記銭の詩歌を作り、ポエヂイとし
ての本質的な高い精神を忘れてしまつた。官時の或る知名な歌人が、門人の添削に関して言つた言葉を、今で
も僕は伶記憶してゐる。日く。汝の歌は嘘である。なぜなら汝は、その時私と一所に棺の中央を歩いて居た。
その時峯には月が無かつた。然るに汝の歌に於では、橋の右側を歩いて居り、室に月があると書いてある。歌
は馬生を旨とすぺし。馬生を忘れた歌は嗟であると。つまりこの大先生は、詩作の秘倦が「嵯のまこと」にあ
るといふこと、詩歌の根接が印物主義の賢慮でなく、イマヂズムの音感にあることを知らないのである。
かかる自然主義の悪影響は、今日に至る迄も継承して、日本の詩人や歌俳人を害悪してゐる。特に僕等の自
由詩は、それの最も惑い影響から、今日未だ脱却し得ず、粗雑な行わけ散文として以外、眞の詩的陶酔を所有
しない文学として、宇宙に迷つてるやうな有枝である。肝心のことは、話の本質が美≒自然主義が遊びとし
▼
謂
たもの−−であり、美以外にないといふことを、詩人が自覚して知ることである。そして伺、美の菱
表畑一一凋一∬
現に必要されるところのものが、嘘をつくことの技術であり、硬が率衝のまことの道であるといふことを、は
つきり常識上に知ることである。そして要するに、諸君の文学的先入見の中から、すぺての自然主義的藤美挙
を、きれいに消算してしまふことである。僕はかつて約二十年も昔、かかる意美挙の自然主義に抗争すぺく、
「新しき欲情」といふ一書を書いて出版した。そして今も伶口惜しく、腹の患が納まらないのは、かかる古き
日の僕の戦ひが、今日の詩埠や文壇にさへ、尚且つそれを反覆しなければならないはど、充分に清算され蓋し
てゐないことである。