詩人と評論家の立場


       新居林氏に答へて

 僕の一文に封する新居蒋君の提言は、僕にとつて啓示の深い言葉であつた。新居君の言つてることは、要す
るに僕の文章が、詩人的飛躍にすぎて蒼澄上での明確性を鉄くといふのである。まことに蛮骨の言であるが、
そこに詩人と評論家との、文革上に於ける特娩の立脚地的相違があるので、ついでにその鮎を明らかにしたい
と思ふ。詩人といふものは、ニイチエの言つてる如く、常に 「思想家の悦びを先取りする」ものなのである。
詩人は常に思想家に先立つて、時代の動いてる客気を敏感に直覚する。しかし詩人は、決して斯澄といふこと
をしないのである。そこで詩人の文筆は、必然に詩やアフオリズムやの暗示的、象徽的の文孝になる。詩人は
眞の評論家でなく、また評論を書き得ないのである。これはいつかも文拳界にも書いたことだが、外国語の文
章に於けるHt岩iH声で、詩人の思想はこのltに相首する。即ち雨天の菊分や雰囲気やを、直覚的に漠然と
知覚するのである。この最初の暗示から啓脅されて、これに押巴β∽といふ質澄的説明をあたへるのが、即ち
いはゆる思想家や評論家の役目である。
 僕は詩人としての使命を守つて、昔から多くのアフオリズムやエッセイを書き、日本の文化と文孝とにこの
−tの直覚的暗示をあたへて爽た。しかし悲しいことに、日本の文壇では、僕の暗示を柄詳して、これに沖已日払
の賓讃的解説をしてくれる人が無いのである。日本の詩人といふものは、受信機のない杢中に向つて、茎しく
jさタ 無からの抗争

電波を放迭してゐるやうなものである0外国では、プアレリイやコクトオの言ふ詩文的、暗示的の断片語が、
すぐに思想家に疎誉れて文壇の評論界を賑はすのに、日本ではさういふことが高にないのであるロ
それ故に外因では、詩人が常に文化の尖端的警者として、文壇の山頂的最高峰に立つてゐるのだが、日本
では詩人といふ存在が、文壇から全く無関心に忘却されて居る0これは詩人が悪いのではなく、文壇、特に文
男評論家が惑いのである0新居樽君の僕に封する不満的の捉言は、詩人としての僕の地位を、文化的に認識
する場合に於ては、逆に僕の方から、日本の評論家に対する不満になる0なぜなら新居君は、僕の言が暗示と
啓蜃に富んでゐながら、貰琴1の説明が軟けてるといふ鮎で、不満を言ほれてゐるからである。その詩人の思
想に軟けてる鮎を、演繹折琵して賓澄的に組攣ノるのが、郎ち思想家や評論家の役目ではないか。もつとも新
居君は僕の言葉をトピックとして、文壇の評論界に問題を興せと説いてるから、つまり僕の言ひたいことを、
僕に代つて言つてくれてるので、まことに嬉しい言葉であつた0新居君の言ふ通り、是の文壇や思想界も、
もつと頭脳を鋭敏にして、僕等の詩人から琴音電波の放迭を受け、大に寧ぷところがなければ駄目だ。但し
それには詩やアフオリズムの暗示的イマジズムが解る程度の、直覚的明敏の奉術的感受性をもたねば警Hだ。