青年に告ぐ
中島健蔵氏から「現代文藝論」の寄贈を受け、その中の一章「デカダンスについて」をよみ、今の時代に属する青年の気持ちと、僕等の時代の人間の気持ちとが、どこで如何にちがふかがよく解つた。この同じ一つのこと――僕等の年齢の文学者と、今の時代の青年作家との間に於ける心理上のギヤツプといふこと――については、丸山薫君や百田宗治君などからもよく聞かされ、僕が時代に封するシムパシイを欠いてることで怨言されてるが、どういふわけで、どこが実際にちがふのであるか、僕には少しも解らなかつた。それが中島氏のエツセイを読んでわかつたやうに思ふのである。
中島氏の説によると、今の時代(これはど文学者にとつての「悪しき時代」はない。)のインテリ文学青年やは、すべて一種のデカダンであるといふのである。しかしそのデカダンスは、過去に言はれた意味の世紀末的デカダンスとはちがふのである。昔のデカタンスといふのは、常識や世俗に対する一種の消極的反抗であり、本質に於てモラリスチツクのものであつたが、今の青年のデカダンスは、もつと安易で、無気力で、反抗をもたない「その日暮らし」のものだといふ。つまり毎日一杯の紅茶を飲んで満足し、どうせなるやうにしかならない人生を、捨て鉢にあきらめて居るのだといふ。つまり今日、あの疲労しきつた無希望のサラリイマンが持つてゐる心理と、丁度同じやうなデカダンスの心理が、文学青年の中にも感染して居るのだといふのである。
言はれてみれば、これは僕の周囲の青年等にも、しばしば思ひ当ることである。「あなたが羨ましいのではない。あなたの生れた時代が羨ましいのだ。」と、丸山君がいつも多少の怨恨に敵意さへも含めて僕に言ふが、さうした青年たちの悲しい心理が、今では僕にも解つて来た。そしてこの事実を考へる時、僕の心は絶望的に暗黒になる。何の希望もない人生!その紋切り型の合言葉は、僕の時代の文芸等も、昔から口癖のやうに言ひ続けて来た。しかし僕等は無理にもその人生に反抗して、希望見つけることに熱情したのだ。デカダンスとい言葉は、僕等にとつてその熱情主義のイロニイであり、敗北主義の勇しく悲壮なる軍歌であつた。しかし今では時代がちがふ。今の時代の青年には、その悲壮な軍歌さへも歌へないのだ。何の希望もない人生。そしてその無希望への焦燥もなく、毎日一杯の紅茶をのんで、呑気に悲しくあきらめてる人生! これまさしく養老院の生活である。青年にして養老院に送られ、しかもその養老院に安住する外、他に生きて行く道がないとすれば、今の時代の青年ほど、同情に値するものがどこにあらうか。
しかし彼等に同情し、彼等を悲劇人と見立てるのは、彼等の青年自身の方に、その悲劇が内在してゐる場合である。即ち言へば青年自身が、主観的にその境遇に不平して居り、どうにもならない世の中を、悲しく果敢(はか)なんで居る場合である。この場合で言へば、青年自身が尚ヒユーマニチイを所有して居り、現実への抗争をもつてることで、僕等の時代のモラルや良心と一致する。然るにもしさうでなく、彼等がその現状に安住し、養老院の椅子に坐つて、長閑に日向ぼつこを楽しんでゐるならば、反対に彼等は最上の楽天家であり、僕等の同情なんて言葉が、余計なおせつかいになつてしまふ。
今日の社会は(すくなくとも藝術的に見て)支那人のいはゆる季の世である。こんな現実の世の中に、純粋の藝術的良心などは望まれない。しかしそれかと言つて、モラルやヒユーマニチイのない文学者を、この現実的事情の故に許されない。ザインは常にザインであつても、ゾルレンの命題は不易に当為せねばならないからだ。僕がゾルレンの命題を掲げる故に、僕を「過去の文学者」と言ひ、「十九世紀的の詩人」と罵る人があるならば(確かにさう言ふ人が有るのだ)僕は悦んでその名称を甘んじるが、同時にかく言ふ所の文学と文学者を、本質的に非藝術として抹殺する。それは確かに、今の時代の最も若く新らしいセネレーシヨンにちがひない。しかしその「若さ」といふこと、「新しさ」といふことは、無価値といふことの外に意味がないのだ。今の時代の青年に対して、僕が言ひたいことは次の標語に尽きるのである。「一切を拒絶せよ。汝自身をさへも含めて。一切を拒絶せよ!」なぜならそれより外に、諸君の生きる道がないからだ。