詩人の生活


 第一同の闘勢調査があつた時、僕はまだ田舎の家で詩を書いて居たが、職業欄に「無職」と書いて提出した。
すると調査委員がやつて爽て、無職といふことは無い箸だ。貴方も知名な詩人ぢやないか。著述業と訂正しろ
と迫るのである。そこで僕は話してやつた。僕等の作る詩なんてものほ、月十画の煙草銀にもならないのであ
る。職業といふ以上は、それで生計を支へるに足る仕事を意味する。詩を作るといふことは、文牢としての仕
事にはちがひないが、職業としての仕事ではない。詩人といふ名義人は、職業名簿の中に無い筈である。著述
業なんて記入するのは、眞平御免だと言つてやつた。しかし委員の人も頑固者で、何と言つても承知しない。
たとへ月十脚でも収入がある以上は、やはり一種の職菜である。是非著述業にしろと言ふのだ。仕方なしに訂
イ丘9 無からの抗争

正されてしまつたが、部面の担果として、その翌年からは忽ち税準署に課誉れた。もちろん僕は、此所でも
また大に不満を陳述した0月忘の勤螢所得に封して、一流小説家と同程度の課税をされる法がないからであ
る0しかし税務署の将解が、また大に攣つて居た0日く0文士の収入所得は、一流、二流、三流の程度によつ
て、平均率の調査した規定慧出来↓つてる0所で普方では、辛万を一流の文士と認める。故に相富の課誓
するのであると0そこで僕ほ、詩人の稿料に関する賓情を話してやつたら、税務署の人も意外に驚いてしまつ
たらしく、結果「著述業」といふ職業中での、最↑級の部警入れられて免税見たが、それで曳間、僕は著
述業者といふ眉書〔何といふ下品なゴロツキ然たる職業名だらう0)を戸簿につけられたことが不愉快であり、
官座しばらく屈辱感に似たものを感じて楽まなかつた。
僕のかうした私経験は、要らく多くの詩人諸君に蓋のものであらう三好達治君は、近頃ある文章中で、
詩の稿料による収入が月十五圃にしかならないと言つで嘆息して居たが、三好君のやうな現詩慧寵兄にして
さうだとすれば、他の人芸ことは想像にあまりある0しかし僕は、かうした事情を悲壮の調子で語りたくな
い0なぜならそれは、結果に於て、却て逆に詩人を宰相にしてゐるからである0世に何が不幸かと言つて、旺
盛な精力と豊餞の才能なくして、文筆による職業をするよりも悲惨葉季はないであらう。生じつかもし、詩
人に収入の造があるとすれば、彼等の生活的悲惨は要らく小説家に数倍する。詩人は初めから職業にならな
いことを知つてるので、収入の道を漁め他に求めて居り、毒稼業の悲惨を免れてゐるのである。それ故嘗今
の文壇に於て、食ふか食はれるかの蓑問題が提出され、多くの文士が血眼になつて悲鳴をあげてる非常時に
際しても、詩人は一向に夙馬牛で、我関せず然として居られるのである。
 かうした事情は、西洋外国でも同じらしい0西洋の詩人といふ連中は、たいてい大挙数投かジャーナリスト
をしてゐるので、彗飯を喰づてるものは、今日では殆ど稀らしい0日本で詩人が職業にならないやうに、西
                 さ⇒還いイ 合鮒m渕瑚澗ほほ柑和淵
てるので、彼等の詩人たちは、ヴアレリイやコタトオ等の如く、単に抒情詩を作る以外に、多方面に亙る文化
評論や、戯曲、小説、エッセイ、演肇指導等の創作をし、融合的に多様性の活動をしてゐるのである0したが
ってその方面の収入があり、鵜苫には生活して行けるのである。之に反して日本の詩人は、単に抒情詩を書く
以外に、何の仕事もして居ない。(その理由は、日本の詩人といふイデーの中には、抒情詩人しか含まれてな
いからである。抒情詩一鮎張りで飯を喰つて行かうなどと考へるのは、そもそも初めから無理筋である0もつ
とも和歌俳句の方面には、それで優に生計してゐる人もあるやうだが、これは封建時代の社台制度を持ち越し
にして、宗匠的な師弟圏鰹を支持してゐるからであり、その封建的俸統がない詩壇に於ては、全く不可能な相
談である。)
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 詩で飯が喰へないといふ言葉は、悲壮の調子で語るぺきものではなく、むしろ詩人の優越感を以て朗らに語
らるぺきものである。なぜなら金銭で換算ができないといふことに、詩の純粋な喪術的高貴性があるからであ
る。詩がもし市場慣値の買備にかけられ、詩人が文士稼業の職業人になつたとしたら、その時即座に詩の純粋
性は亡びてしまふ。詩がもしジャーナリズムから商品化され、詩人が一人前の文士稼業者となつて、稿料のた
めに賓文生活をするやうになつたとしたら、詩は果してどんなものになるだらうか。諸といふ文学は、決して
商品慣値に身資りをせず、また自律的の良心からも、身費りのできないところに眞意義がある0つまり言へば、
詩は職業としての仕事でなく、詩人は著述業者でないといふことが、話の高貴性と純粋性を支持するのである0
(しかしそれかと言つて、詩の稿料を踏みつけたり、只で書かしたりするといふ法はない0詩の創作は小説以
上に努力を要するのである。詩人はその労力に射して、充分の報酬を強く要求する樺利があるJ
昔、かつて自然主義の文壇では、生活のための文撃といふ事が強く言はれた。しかもその「生活」といふ言
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薬は、常時の常識で「食ふための生活」即ち「生計」を意味して居たのである。そこで他に生計の道を持つて
ながら、完で茎学をやる人々は、像技的遊戯のヂレツタントとして積斥された0軍腎絶監としての竃外や、
大挙教授としての上田敏やが、昔時の文壇からヂレツタントと呼ばれたのも、全くこの馬鹿げた理由によつた
のだつた0そこでもしこの自然主義の筆法で行くならば、今日の詩人と稀する連中は、殆ど皆例外なしにヂレ
ツタンーと呼ばれるのである0しかしヂレツタントの本官の定義は、人生熱意のモラルを持たない人を言ふの
であつて、墓稼業を職業とすると奄とには関係がない○蓋丁は腎術と同じく、天下のため仁術であるのだか
ら、もし理想を言ふならば、米盤の資とは別にして、杜禽奉仕の犠牲として書くのが本然である。しかし腎術
も既に職業化し、腎者が商人と選ぶ所のなくなつた今日では、こんな抽象的な理想は痴言にすぎない。
今日に於て、文挙が職業化してるのは嘗然である0しかしそれかと言つて、羞丁の本質的の目的性が、歪
のための労働や金もうけにないことも明らかである0それ故に茎学する仕事を、初めから米鍵の資と別問題に
してゐる1しなければならない境遇にゐる−我芸詩人群は、この鮎で羞丁者の理想を賓現してゐるので
ある。
しかし質際の妾を言へば、多くの場合、かうした二重生活には危険がある。眞に宗教を信ずるものは、家
をも捨て、妻子をも捨て、一切の地位と職業とを挿つて、磯陀やキリス£敦囲に入るのである。」方で杜禽
的の世俗生活を営みながら、妄で求道の説教をきいてるものは、眞の熱意ある求道者ではなく二種のヂレ
ツタントにすぎないのである0羞丁する精神もこれに同じく、眞の求道的モラ〜を持つ場合には、必然にその
節曾的環境の一切を捨て、専念に「この造一つ」につながるぺく、したがつてまた墓丁以外に、米慧賀を求
めることができないやうな宿命ハニれが文筆者の最も傷ましい宿命である)に陥つて来る。森鴎外のやうな人
は例外として一「警非讐的の文寧葦が、概して皆趣味の好事的遊戯者であり、人生や文蛮に封」gb卜lllll■

、柑細川柑柑柑柑渦川畑柑柑柑謂
 その上にも筒、文筆以外に食ふ道がないといふ一つの自覚は、文学者に封して背水の陣を覚悟させる。文学
者の職業戦線は、角力と同じく貰力本位の競争であり、残酷にまで生存競争が烈しいのである。文化やジャー
ナリズムの第一線から、もし少しでも後退したら、忽ち文壇から地位を失ひ、食を失つて路頭に迷はなければ
ならなくなる。それ故に文孝者は、一日の寸時と雄も頭脳を休めず、不断に勉強して請書や思索に努めて居る。
その競争の烈しくして、非常の努力を要することでほ、他におそらく文士と此すぺき職業がないだらう。
 そこで背水の陣をしいた文士たちは、かうした必死の勉強からして、加速度的にまた文化人として成長して
来る。たとへ天分が貧困であり、一流の大を為し得ないやうな凡才者流であつても、文壇に出て背水の陣をし
いた以上は、必妥に迫られて勉強し、とにかくにも相首のインテリゲンチェアとなり、相普の文化的カルチユ
アを鰹得して来る。「小説家には馬鹿が居ない」と或る人が総評したが、特に日本のやうな文壇では、馬鹿は
生存競争に耐へない。たとへ天才は居ないとしても、とにかく一通りの常識家だけは揃つてゐる。
 之に反して詩人、特に日本の詩人には馬鹿が多い。そしてこの理由は、彼等は米鍵のための心配がなく、ま
たそれが有つたとしても、文筆稼業の職業戦士ではないのだから、文筆上に於て背水の陣をしく必要がなく、
したがつて何の勉強もする必要がなく、暢気にのらくらとしてゐるからである。少数の例外を除いて言へば、
日本で詩人といふ連中位、およそ暢気千萬の怠けものは居ない。彼等の大部分は、殆ど何の反省もしないし讃
書もしない。そして人生や文化の問題につき、一度も眞別に考へたり、眞面目に悩んだりしたこともない。す
ぺての文寧者の中で、これほど苦労知らずの楽天家はない。しかも文壇の烈しい生存競争から、無関心の戦線
圏外に住んでる彼等は、それで一向に喰ひはぐれがなく、千束ですまして居られるのである。大宅牡一氏の評
によれほ、日本の詩人は槽滞馬鹿であり、稚気の鼻たらし小僧ださうである。この許は酷にすぎるし、特に
イフワ 無からの抗争

「皆」といふ言葉は不官である1たしかに或少数の詩人だけは、文壇全鰹をくるめての一流者である岳が、
概して一般には、さういふ烏敗因も見られるのである。
 かうした詩人の低劣さは、今言ふが如き非職業的の暢気さから爽てゐる以上に、もつと本質的の第一原因が
ある0前にも既に言つたやうに、文筆する精紳の本質は、米鍵の資を稼ぐための目的ではない。宗教の求道と
同じく、それは止むに止まれぬ心の飢餓の慾求である0詩人がもし、眞の生れたる本官の詩人であつたら、他
の文櫨的文士と同じく、不断に勉強して人生を考へ、自ら努力して時代の先陣に進むぺきだ。詩が商品償俺と
しての市場を持たず、詩作が職業にならないといふやうなことは、この文筆的熱情の前で問題にならない。ボ
▼ドレエルはその熱情から、窮乏によつて餓死する迄も退樽せず、不断に人生の秘密を考へて居た。
 畢責日本の詩人が暢気なのは、かうした眞の文拳精神、釘ち眞のモラリチイとヒユーマニチイとをその出教
意識に持たないからである0概ね多くの詩人たちは、言葉に対する軽いダンヂイの趣味性と、遊戯的なレトリ
ックの興味でばかり詩作してゐる0即ち本官の意味の「文学精神」といふものが快けてるのだ。そこで況んや、
詩が米堕のための職業でなく、喰ふか喰はれるかの死活問題でもない以上、彼等の文学が本貿上のヂレツタン
チズムとなるのは官然である0谷崎潤一郎氏は故芥川寵之介との合議に放て、日本の詩人は皆酢豆腐なりと言
つてゐるが、この酢豆腐といふ言葉を、もし濁りよがりな街畢的なヂレツタントと解するならば、たしかに日
本の詩人の大部分は酢豆腐である。
 今の日本の文士小説家に、もし何十苗固かの金をやつたら、彼等の大部分は文拳を止め、行動的の世俗人に
化するであらうと、或皮肉な諷刺家がかつ三占つたが、かりにさういふ場合があるとしたら、それらの世俗人
化した文士たちは、おそらく小説を書く代りに、時々月並の俳句を書いたり、今のいはゆる詩のやうなものを
書くであらう0つまり今の詩といふ文挙は1それはど眞の生沌熱情が稀薄であり、趣味性の遊戯に淘れたヂレ
ツタンチズムの、ものなのである0
 詩が商品償俺としての市場を持たず、詩人が餌乏に苦しんでゐるといふことは、詩のためにも詩人のために
も、決して本質的に悲しむぺきことではない。むしろ我々は、その逆の場合に於ける陛俗的の幸頑を、詩の堕
落のために恐れるのである。(かつて欧洲大戦後、民衆汲の詩が流行した時代には、最も詰らない詩人の駄詩
でさへが、一第三十固五十囲の高慣で要れた。それから多くの詩人が濫作し、詩が全く低級に商品化して、最
悪にまで堕落した。)僕等の眞に悲むのは、詩人が生活者としてのモラルをもたず、賓の文学棺神を映如して
ゐることである。