恋愛のない時代・詩のない時代


 恋愛といふことが、だんだん出来ない時代になつて来た。つまり世の中が段々プロゼックになり、すべてが功利的になつて来たからだ。しかし恋愛が出来ないからと言つて、恋愛を求めるイデアが、青年男女から無くなつたわけではない。反対にそれだからこそ、プラトニックな純真な愛に対して、益々強いあこがれを持つやうになつてるのだ。そこで例へばモロッコのやうな映画 ― 現実の社会で荒みきつた魂が、心の底では常に純真な愛を求め探してゐる。 ― が、時代の多くの若い男女を感激させることになるのである。
 恋愛はリリシズムの中心宇宙で、抒情詩の核心とも言ふべきものだ。(だから抒情詩といふ言葉の狭義な意味は、しばしば恋愛詩を指すのである。)そこで「恋愛のない時代」といふことは、それ自ら「詩のない時代」を意味するのだ。西洋でも日本でも、詩的精神の高調してゐる時代は、常に恋愛の栄えるロマンチックの時代であつて、詩の凋落してゐる散文的の時代は、必ずまた恋愛のないプロゼックの時代なのだ。「恋愛」と「詩精神」とは、社会文化学上に於て全く同一命題の表裏であり、同じやうなものなのである。
 今日のやうに恋愛のない時代は、詩精神の枯れ切つた時代である。しかし詩の無い時代といふことは、人々が詩を見捨ててしまつた時代といふわけではない。丁度恋愛のない時代に於て、人々がモロッコのやうな映画を悦び、純真な愛を求め探して居るやうに、今日のやうな詩のない時代こそ、逆に却つて青年等が、真の純正な詩を心に求め強い詩精神をイデアに求め叫んで居るのだ。それ故にこそ最近では、日本浪曼派のやうな文学運動が勢力を得、純正なリリシズムが広く一般に呼ばれて来たのだ。
 かつてアメリカ式モダン文学の流行時代に、恋愛なんか時代遅れだと言つて笑つた人がある。詩人生田春月君は、プラトニックな恋愛に殉死したことによつて、時代錯誤の古臭い詩人として嘲笑された。この同じ筆法で行つたら、今日のやうな詩のない時代、商業的功利主義の普遍してゐるプロゼックの時代に、純粋の詩精神を熱情したり、本気になつて詩を作つたりして居る連中は、正に時代遅れの大馬鹿者と笑はれるにちがひない。だが老子も言つてゐるやうに、逆賊はびこりて忠臣現れ、道徳廃つて聖人が出るのであつて、諸精神の亡びた世の中であるからこそ、真の詩人が益々稀れに尊敬され、且つ尊敬されねばならないのである。恋愛を「時代遅れ」と言つて笑ふ人間は、純情のモラリティを全く失つた人間であり、ヒューマニチイの「良心」を無くした俗物である。恋愛の無いといふことは、今日の社会に於ける「事実」である。だが純真の愛に対するイデアが、もし人々の心から無くなつてしまつたら、人倫道徳の根本は廃滅して、社会は全く暗黒の鬼畜界になつてしまふ。同様にまた「詩の無い時代」といふ事実の故に、詩人や詩精神を軽蔑し、ポエヂイの本質を「時代遅れ」として笑ふならば、即ち人々が詩に対する理念の熱情を失ふならば、すべての文学と文化は亡び、俗物横行して社会の良心は廃滅する。即ちそれは「世の終り」なのである。
 今日のやうな時代に於て、詩がプロゼックになつて来ることは当然である。だがそれは「止むを得ない必然」であり、詩人自身の理念に於て、悦び求めてすることではない。詩人自身の主観に於ては、自分がプロゼックになつてることを、深く心に悲しみ嘆き、不満しつつ曳かれて居る所の現状でなければならない。真の詩と詩人とは、今の時代に逆行し、敵愾し、自分自身に対してすらも、常に反抗と拒絶とを持つところのものであるべきである。況んや近頃流行の詩人のやうに、詩を時代の散文性に順応さすべく、自ら進んで詩の散文化を主張したり、もつとひどく甚だしきは、詩精神そのもののリリシズムを否定して、散文的レアリズムの地位に詩を置き換へようとしたりする如きは、全く以て詩に対するスパイ的裏切り行為と言ふべきである。
 恋愛のない今の時代は、恋愛の有る時代を呼ぶことによつて正義される。詩の失はれてる今の時代は、正しく詩を呼ぶことによつて正義される。恋愛のない時代の故に、恋愛することを嘲笑したり、詩精神のない時代の故に、真の純正な詩精神をもつ人を軽蔑したりすることの、時代の所謂「新しい」無良心な追従者を排撃せよ。今日の時代の詩人は、今日の散文時代に生きてることで、それ自ら既に宿命的の悲劇である。彼等の排撃しようとする所のもの、即ち時代の世相する「プロゼックのもの」は、彼等の破壊してゐるすべての世界 ― 文壇や、社会や、実生活や、文明や ― の至る所にある。あまつさへまた、その敵は彼等詩人の気質や性格の内部にさへ、避けがたく時代と共に同居してゐる。それ故に僕等の詩人は、今日現状してゐるすべての文学、すべての社会、すべての文明を反撃し、一切を拒絶することの決心を堅く持たねばならぬ。そして尚その上にも、自己自身に対してすらも、同じく敵としての拒絶と戦ひを持たねばならぬ。即ち言へば僕等の詩人は、自我の外界と内界との、一切の存在する宇宙を敵とし、絶望の逃走にまで追ひ込まれて詩人の復讐をせねばならない。そしてこの戦ひをするといふことが、それ自ら今日の時代に於て、詩のイデアを呼ぶところの「正義」なのだ。たとへそれが絶望であり、虚妄の戦ひであるとした所で、尚且つそれは「正義」であり、詩人の宿命されてる義務なのである。