詩の孤独とその原因




 原則的に言へば、詩はすぺての文筆中で、最も民衆的に普遍性のある文畢である。世に小説の鮮らない人は
あつても、詩の脾らないといふ人は殆んどなからう。詩が解らないといふことは、ただその蛮術形態のジャン
ルについてのみ言つてるのである。例へば菊池農民のやうな人が、自ら詩が辟らないと言ふ時、その詩は僕等
の近代詩や自由詩を指してるのである。他のジャンルを異にしてゐる別の詩、即ち和歌や俳句ならば、菊池氏
と維も昔から愛讃して居るのであり、大に解つてゐる筈である。反封に僕等の仲間の新詩人には、自由詩が好
つて和歌や俳句の解らない人たちも居る。また和歌や俳句は解つても、漢詩の辟らない人々も居り、逆に漢詩
が騨つて、僕等の作る詩が屏らない人たちもある。なぜなら詩といふ文孝は、夫々の特殊な詩形態によつて、
イア∫ 解からの抗争

棒線の約束されたレトリックの美挙を持つでるからである0それ汲に美術の鑑賞と同じく、詩に於てもまた夫
大の詩形態について、多少の漁傭知識と教養を持たねば理警れないD最も多数の大衆が、好んで民詰、小唄、
流行歌の如き卑俗な詩を愛するのは、此等の詩が拳術的に低級であり、殆んど何等の教養も漁備知識も要せず
して、直ちに理鰐され得るからである0詩は蓼術的に高級になるはど、鑑賞への教養が要求され、通俗の理解
から遠ざかつてくるのである0そして此所に、昔から天才詩人の孤猫牲が宿命されてる。
しかしこの事賓の逆定義、即ち大衆的通俗性を持たない難鮮の詳が、それ自ら肇術的高級品であるといふ断
定は−沃しで必しも成立し得ない○天才の表現する蓼術と、民衆の欲求する蜃術との相違は、主として才能上
に於ける趣味性やインテリゼンスのギャップであつて、詩精神そのものの本質的賓笹に於ては、全く同一な人
間性の普遍的情感に立つものであるD書き蓼術品とは、つまりかうした人間性の普遍的欲情を、最も純眞に、
最も力強く、最も赤裸々に表現したものを言ふのである0それ故に或る文挙が、もし眞に高級な畢術であり、
天才的の非通俗性を宿命したものであるならば、これを平易に通辞する1多くの場合、その通評は「時」が
する01ことによつて、必ず大衆に皇還的に理解さるぺき筈なのである。之れに反して濁りよがりのぺダ
ンチックや、高級意識によつて燕理に難鰐にした文学やは、本質的にヒユーマニティの普遍性がないのである
から、いかに「時」がそれを通辞しても、決して大衆に所有され得ない。
 ミ此所にこんなことを書いたのは、日本の詩といふ文筆が、一般にかうした濁りよがりの高級意識で、自
らその難膵を以で誇りとし、眞の詩文寧の磯足すぺき、人間性の普遍的根嬢を忘打がちのやうに思ふからだ。
和歌と俳句と漢詩と自由詩と、夫々詩の形態はちがふけれども、この鮎の第一原理は同じであり、すぺての話
を通じで、三−マニチイの普遍的質感に立たないものは虚妄である。
 しかしかうした事情の外にも、僕等の詩が民衆に理解され難い原因がある。今日、日本の全人口中で、七〇
Z笥一一一叩い、セントは卑俗な民話や小唄の愛好墳で、残る三〇パーセントが俳句や和歌の愛訝者であ野狙町れば、僕等
の新憶藷を苛んでるものは、おそらく全人口中の〇・〇五パーセント位のものであらう0これは僕等の詩文挙
が、他の物に比して高級であり、純蜃術的であるといふことの謹左であらうか。もし苧つ考へてる詩人があつ
たら、少々お目出度すぎると言はねぼならぬ。俗話や小唄の頬は別として、すくなくとも和歌俳句の国粋詩は、
過去に何百年、何千年といふ長い俸統を持ち、充分の季衝的洗練を経て完美した拳術詩である0この鮎で日本
の国許は、ギリシャ以爽の俸統を経た西洋の近代詩に此し、璽術的債値の高級さに於て少しも劣るところはな
い。しかも日本の民衆が、何等の務備知識も教養もなしに、容易にだれでもかうした高級璽術を理併し得るの
は、つまり民衆自身の中に、生れながら苧つした俸統の生活があり、孝ばずして知つてるところの−日本文化
の俸統的インテリゼンスがあるからである。今日俳蘭西の民衆が、ボードレエルの詩を大衆文孝的の通俗性に
於て理解し、宿屋の女中や自動車の運特手までが愛讃してゐるといふ講をきいて、羨望したり駕嘆したりする
詩人があるが、よく考へてみれば督り前の話であつて、日本の大衆が芭蕉の俳句を理併し、床屋の親方までが
「古池や」の句を愛吟してゐるのと同じである。しかも芭蕉の俳句は、その詩想の高速性に於ても、その詩形
の拳術的高級牲に於ても、決して必ずしもボードレエルに劣るものではない。
 所で僕等の作る自由詩や新慣詩ほ、芭蕉よりもむしろボードレエルの系統をひいた欧風詩であり、過去の日
本に侍統のなかつた詩なのである。今日一般の日本民衆が、和歌や俳句を理解しながら、僕等の詩文拳を理解
し得ないのは嘗然である。我々の民衆は、生れながらにして茶道の寂びや風雅を知り、俳教誓畢の一頁すら学
ばないで、係数精神の穣意する因果や無常の原理を知つてる。しかも外国人がそれを知る為には、多大の勉強
と幾備知識とを以て、熱心にこれを研究しなければならないのだ。つまり僕等の詩文寧は、民衆の俸統的イン
テリゼンスにないものを書いてるのだから、民衆がこれを理解する為には、新たにそのインテリゼンスを掴得
イアア 無からの抗争
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すぺく、自ら努めて、鑑賞の銭の像備知識を教養せねばならないのだ0然るに民衆といふものは、例外なしに
怠けものであるからして、決してそんな面倒臭い勉強を好まない0彼等はその既に所有してゐるところのイン
テリゼンスで、生れながらに畢ばずして鮮るところの、俸統の羞丁や肇術の方に入つて行くのだ。
要するに僕等の詩は、その蓼術的高級性の故に民衆から迂誉れるのでなく、俸統性のない故に迂誉れる
のである0そして此所に僕等の詩人の悲劇的宿賃ある0僕が常に反覆して嘆きながら、是の詩人を「文化
の捨石」「時代の犠牲者」と呼んでるのはこの故である0なぜなら僕等の詩人は、過去の侍統になかつたとこ
ろの、明治以来の世界日本が必須すぺきインテリゼンスを、新しき時代に先騒して建設しょうとしてゐるのだ
から0詩人の使命は、自らその「文化の捨石」たることを豊し、孤高に耐へて璧することに出讐る。
 かかる詩人の孤濁感は、表無知の大衆に封しでばかりでなく、しばしば今日の知識人種を背負つてるとこ
ろの文笑に封して是嘆される0今日の文笑である小説警評論家は、自ら時代の指導者を以て任じ、新
しきインテリゼンスの建設者を以て日誇しながら、賓には民衆と同じく怠けもので、ややもすれば俸統の中に
安易し、進取的に新しい詩文箸理解しょぅと努力しない0「やつぱり俳句の方が面白い」「詩は停統の物に限
る」といふのが彼等文壇人の表的な本音である0僕等の新饅詩に射する彼等の批判は、要するに「つまらな
い」といふ表に讐る0そしてその理由は、簡畢に言つて「誓ないから」と言ふ椅明なのだ。つまり彼等
の態度は、表民衆のそれと同じく、新しい物を理苧る鳥の勉雪線儒教養が厭やなのであり、持ち合せの
俸統的なインテリぜンスで、手つ取阜く誓ものだけを求めてゐるのだ0僕等芸を理警る為には、和歌
俳句を讃むやうに、持ち合せの侍統的教養だけでは足りないので、どうしても少し努力的に勉強して、幾嘉
かの誓熱心に慧、自らその新しき奉術的教養を質せねばならないのである0しかも物臭さがりの文莞
等は1そんな督壷にならない勉慧どを、少しも管うと思はないのだ○これはたしかに「恵むべき怠惰」で
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  カ ノによて、箸の拳を理解し緋がいことの故に、横暴に良等の碧「つまヨ一一ヨ
と配し、甚だしきは「亡びてしまへ」と罵倒する。こんな我武者羅の言ひ分がどこにあるか。
 日本の詩人の不遇さは、一面たしかにその罪を自己に負ひ、自業自得の因果にもある。だが僕等の詩人が、
その怒りを他に移して、文壇人の不義と怠惰を責めることは、より以上にまた義しく正嘗である。なぜなら文
壇人の使命すぺきは、新しき文化を指導するぺく、過去の俸統を揚棄することによつて、明日の新しいインテ
リゼンスを建設することにある筈だから。かかる使命を有する文拳者等が、かかる新思潮の先頭に立つ僕等の
詩文孝を、自ら努めて理解しょうとせず、博統の団粋詳にのみその醇を充たしてゐるのほ、たしかに責罰さる
ぺきことではないか。あへて文士諸君に反問する。
〃9 無からの抗争