インテリとは何ぞや
先日、某所で浮世絵の展覧会を見、帰途に菊五郎の歌舞伎劇を見物した。その一幕の終つた時、僕は廊下を逍遥しながら、不思議な驚きに似た懐疑を感じた。浮世絵と言ひ、歌舞伎劇と言ひ、古典日本の完美をつくした藝術である。外国の最も厳しい批評家さへも、此等の藝術の前に甲を脱ぎ、驚異と感嘆の辞をつくして居る。しかもこんなすばらしい藝術が、どんな作者によつて創作され、どんな民衆によつて鑑賞されながら、過去に発育して来たかを考へた時、僕の新しい一つの怪訝が、解きがたい疑問を呼び出して来たのである。なぜなら近頃言はれる文学者の「教養」といふこと、インテリジェンスと言ふことなどが、意味を失つた言葉として、空無に喪失されたやうに思はれたから。
廣重も、豊國も、歌麿も、すべての浮世絵の作者たちは、目に殆んど一丁字なき無知文盲の職人だつた。此等の画家たちは、常に版木職工や製本職工と協作し、且つ自ら「職人」を以て任じて居た。今日意味する如き「藝術家」といふ類の意識は、彼等の中に全く無かつたものであらう。歌舞伎劇の作者とその演出俳優も同じであつた。そしてこれを支持し、これを鑑賞する所の人々は、漸く寺小屋に「いろは」四十八文字を学んだ程度の、無知無学の町人であり、魚河岸の兄哥であり、角力取りであり、大工職人の類であり、そして女子供と花柳界の無知な藝者たちとであつた。此所にはインテレクチュアルの者は少しも無いのだ。しかもこの驚くべき無知文盲の人々が、かくもすばらしく完美した最高の藝術を生んだのである。
然らばそもそも、文学に於ける「教養性」の意義は何だらうか? 我等の言葉で言ふインテリジェンスとは何だらうか? この疑問について、最近興味あるトピックを提出したのは、東宝支配人対花柳芸者との争議であつた。劇場の経営者は、所属俳優に対して一場の訓辞を下した。曰く。藝者は低級である。藝者を対象として演技する勿れと。之れに対して憤慨し、柳眉を逆立てた藝者たちが、痛烈にも抗議した言葉はかうであつた。藝者が低級とは何の謂ぞ。低級なるものは藝者でなく、今日一般の観客である。彼等の多数は、歌舞伎劇の約束された形式さへも知らないのである。チヨボといふ言葉も知らず、濡場と言ふ言葉も知らず、舞踊の鑑賞に於ける初等入門的の知識もない「百姓」共が、ヒゲタ醤油の総見札で、菊五郎の芝居を見物して居るのである。今日、歌舞伎劇を鑑賞し得る唯一の観客は藝者である。藝者が無ければ歌舞伎は亡ぶ。藝者だけが、この種の藝術を理解し得る唯一高級のインテリであり、他はすべて低級無知の田舎者にすぎないと。
確かに、正に、藝者の言ふことは真実である。今日の東京人等は、サッカリンで甘味をつけ、黄色色素で色をつけた「たくあん漬」を、最上の美味として珍重して居るほど、それほど文化神経の発育しない「百姓」なのである。彼等にエノケンが解り、水谷八重子が解り、早川雪洲が解り、栗島すみ子が解る如く、江戸文化のデリカな完善を尽した歌舞伎劇は、到底よく理解し得ないのである。そこで劇場興行主は、かうした大多数の観客を掴得すべく、今日むしろ歌舞伎を廃滅さすことを願つてる。藝者がムキになつて怒る理由は、自己を低級と呼ばれたことの私憤でなく、かかる非文化的の田舎者によつて、真の貴いもの、美しいものが亡ばされることを嘆くのである。
しかしながら僕等は、藝者に同情して好いものだらうか。自己を文化的高級人なりと称する藝者は、今日尚英国の地理的所在さへも知らず、日本歴史の小学生的常識さへも持たないのである。劇場経営者が、彼等を「低級」と称するのは当然である。しかしながらそれだつたら、過去の江戸文化は一切皆「低級なもの」になつてしまふ。しかも諸君の何人が、歌麿の絵を低級と言ひ、菊五郎の舞台を低級と言ひ得るか。反対にこれらのものこそ、文化的に充分高級なものではないか。藝者と東宝経営者との争ひは、此所に最も困難な裁判を開陳する。つまりこの両者の場合で、何れが真の文化的教養人かと言ふことに、時代の審判官が迷ふのである。
この法廷の陪審席で、藝者の味方をする人々は、藝人、落語家、通人、女将、及びすべての江戸趣味者と、多数の中老期を過ぎた人々である。反対に資本家の劇場経営者を支持するものは、今日都会に生活する多数の中産階級者、特に年の若いサラリイマン、女学生、男学生、有閑マダム、モダンボーイ等の大群団である。この後者に属する人々は、今日の「文化」といふこと、「教養」といふこと、インテリジェンスといふことを、前者の藝者や江戸人とは全く反対の意味に於て、特殊な解釈をして居るのである。今日多くの会社員等は、郊外にペンキ塗りの家を建て、月賦で買つたピアノを置き、安物の西洋家具で、応接間を飾ることを理想にしてゐる。そして彼等の妻たちは、日々の食事献立に必ずコンビーフを主菜とし、石鹸臭い人造バタで料理を作り、夜は蓄音機でソプラノの独唱を聞くことを以て、彼等のいはゆる「インテレクチュアルの文化生活」と思惟してゐるのである。つまり言へば彼等にとつて、文化的教養と言ふことは、洋風生活の真似事をするといふ意味なのである。
この意味の文化意識や教養意識を、最もカリカチュールに表象する人々は、無学な町の女や珈琲店の女給諸君である。彼等は教養人と無学人、文化人と田舎者との差別を、その洋服と和服とによつて判別する。それから蓄音機をかける場合に、西洋音楽を悦ぶか、日本曲を好むかによつて判定する。そしてまた、外国物の映画について語ることと、日本物を語ることと、ダンスを知つてることと知らないこととによつて批判づける。諸君にもし色気があり、町の女等に「教養人」として持てようと思ふならば、必ずレコードをたのむ場合に、新版のタンゴやブルースを註文し、ハリウッド活動俳優の名を多く暗記して語るべきである。僕はかつて或る銀座の珈琲店に行き、浪花節を聴かせてくれとたのんだので、すつかり軽蔑されて無学者扱ひにされてしまつた。同じ銀座の或る喫茶店では、抹茶を註文して恥をかかされ、場ちがひの田舎客に見られてしまつた。この手を逆に利用して、避暑地で名家の娘を誘惑したり、珈琲店で女等を蕩し込むのは、町のヨタモノや不良青年たちである。彼等は純粋に無知であり、どんな教養人にも属して届ない。しかしながらただ、ダンスを知り、洋楽レコードの名を知り、ヨットを操り、西洋映画俳優の名を多く知つてる。
そもそもインテリとは何だらうか。ぺンキ塗りの文化住宅を、銀閣寺の茶座敷よりも「藝術的」と考へ、シャボン臭い安洋食を、江戸前の料理よりも「文化的」と考へ、横浜本牧ホテルのチヤプ屋ガールを、その洋装して英語をしやべる故に、藝者よりも「教養的」と見るやうなのが、今の日本人の大多数が常識してゐるインテリ観である。そして他の少数の特殊の人は、古い伝統の江戸趣味だけを、現代に於ける唯一のインテリ的実体と考へてる。では僕等の時代の詩人や文学者は、その何れの側のインテリに所属するのか。
かつて僕等の仲間の座談会に於て、日本の詩人と日本の歌人は、何れがインテリであるかが論じられた。詩人の味方をする人は言ふ。今の歌壇人や俳壇人やは、現代の世相文化について無知であり、殆んど真のインテリ的思想性を持つて居ないと。然るに駁論する人々は言ふ。否、彼等は伝統の歌学や歴史をよく知つて居り、歌や俳句についても、伝統的に沁み込んでゐるところの、本質的な深い文化カルチュアを体得してゐる。然るに日本で詩人と称される連中は、何の根本的な教養もなく、伝統の沁み込んだカルチュアもなく、単に粗野な勇気とイグノランスで、無定見に藝術してゐる素朴な非教養人にすぎないと。この両者の説にも、前の藝者低級論と同じやうに、立場を異にするところの真理がある。即ち日本のいはゆる詩人たちは、文化の伝統的背景を所有せず、過渡期の素朴時代を表象することに於て、たしかに非インテリ的の無教養人にちがひないが、一方また歌人や俳人等の伝統詩人は、今日の時代の常識すべき思想性や批判性(それが今日の時代の詩精神である)を欠如することに於て、藝者が無知である如く無知であり、今日の言葉の意味での、インテリゲンチュアと呼び得ないのである。
此所まで思惟を進めた時、始めて僕等はその結論に到達し得た。今日僕等の文学者が、日本の社会と文壇とに、正しく欲求してゐるところのインテリとは、外国映画俳優の模倣をしたり、洋装してピアノを弾いたり、コンビーフの家庭料理を食つたり、仏蘭西の流行詩人を語つたり、エスペラントを知つてる人々のことではない。そしてまた勿論、藝者や江戸趣味の通人たちのことでもなく、古典文藝の伝統に生きる人々のことでもない。今日の社会に於て、正しく教養人と呼ばれ、文化的インテリ人と呼ばれ得べき資格の人々は、決定的の条件として、その精神に時代の文化的指導性を所有するところの人々でなければならぬ。時代の文化的指導牲といふ言葉は、別の言葉で「時代の批判牲」と言つてもよく、さらに詳しく「モラルを所有する知的生活」と言つても好い。藝者高級論や、江戸前職人インテリ論やが、今日に於て決して承諾され得ないのは、彼等が無学文盲であるからではなく、実には彼等が今日の時代と社会に於ける、指導性のモラルを欠如して居るからである。かつて江戸時代にはさうでなかつた。江戸時代の文化意識は、何よりも「通人」を以て理念とした。民衆も、文学も、社会の一般的情操も、すべて花柳界を中心として、人生の到達すべき美のイデアを、遊里の「大通」「粋人」といふ一事に求めた。故に過去に於て、藝者はたしかにインテリの高級を代表し、時代の主潮を指導したところの教師であつた。彼等の尊ぶ「張り」といふ言葉は、自ら文化の指導者を以て任ずるところのプライドだつた。往昔に於て、藝者は決して単なるコケツトや売笑婦の徒ではなかつた。しかし今日、彼等はもはや何のインテリでもなく教師でもない。今日の藝者等が、尚伝統の「張り」や「意気地」を守つてるのは、無意味な諷刺的ユーモアの外の何物でもない。
今日の社会に於て、藝者に代つて文化の主潮を指揮するものは、学生、思想家、文士、藝術家等である。そこでインテリといふ言葉は、今日の字書で彼等の一群を総称する。すべて新時代の高等教育を受けたものは、概論的に言つて皆インテリである。なぜなら彼等は、意識的または無意識に、時代に対する感覚と批判性を持つてるからである。そこでまた、インテリといふ語の一般的概念中には、多くの学校出の会社員、事務員、官吏等を除外なしに包括する。しかし言葉のより厳重な定義で言へば、彼等の大部分は真のインテリに属しない。なぜなら彼等の大部分は、その学生時代を終ると共に、社会の凡俗中に同化されて、時代の理念すべき文化の指導意識を喪失し、モラルを忘却してゐるからだ。既にモラルを失つたものは俗物である。これを真のインテリと呼ぶことは出来ないのだ。
インテリゲンチュアと言ふこの言葉が、十九世紀帝政末期の露西亜に於て、特に深遠な哲理的意味を以て語られたのは、当時の露西亜に於ける大学生や文学者の一群が、何れも高遠な理想を抱いた社会革命家であつたからだ。即ちインテリゲンチュアといふ言葉は、昔時の露西亜語で「志士」と言ふ意味を帯びて居た。そして尚今日の日本語に於ても、同様の意味を帯びてる筈だ。故に今日、インテリが没落して居るといふ事実は、日本の文化に指導精神がなく、モラルが喪失してゐるといふ現象を示すのである。最も病理学的に悪いことは、文学者そのものがモラルを失ひ、文化の理念精神を持たないことだ。彼等は自ら弁護して言ふ。我々がそれを持たないのではない。持つべきところの理念が無いのだと。だが実の問題は理念の実在性とは関係しない。それを求め、欲情し、持たうとするところの熱意自身が、文月者にとつてのモラルなのだ。彼等にしてその良心を失つたら、それは何のインテリでもなく文学者でもない。即ち単なる俗物
― ニイチエのいはゆる教養ある俗物 ― のみだ。
インテリ出でよ。だがインテリは何所に居るのだ。この時代の文化に対して、鋭敏な批判的神経をもち、併せてその指導精神を掲げる教養人は何所に居るのだ。僕はこれを新時代の若き詩人諸君に期待する。なぜなら詩人は、本質に於て文化の批判家であり、時代の良心を呼び醒す指導者であるからである。詩人のみが、現代のキリストであり得るだらう。