ヒューマニストとしての啄木
点屋頂
石川啄木の日本の文拳史上に放ける地位ほ、正に西洋のハイネと酷似してゐる0ハイネは浪漫汲最後の詩人
であつて、同時に自然主義の先騒をした詩人であつた0啄木の生れた時代が、丁度日本のさうした時代の文壇
だつた。曹師の輿謝野絨幹と衝突し、明星漁を脱退した啄木は、時代の自然主義的懐疑思潮を、早く眈に洗虚
されて居たのである。それ故にまた、ハイネが理想主義者であつて同時に懐廃家であり、ロマンチストであつ
て同時に1言リストであつた如く、啄木もまた同じ矛盾性を所有して居た0その上にもまた、ハイネが杜曾主
義の運動に投じた如く、殊木もまた一時その同じ行動のコースをとつた。そしてハイネが後にそれを捨てた如
く、啄木もまたそれを捨てたのである。味木とハイネと、その拳衝はちがふけれども、その詩人的気質や、文
季上の時代的地位に於て、これほど酷似した二人は居ない。
ハイネの理念した人生が、眞善美の饅現されたユートピアであつたやうに、啄木もまた、苧フしたメタフイ
ヂツタの世界を夢みた。だがそんな人生は何所にもなかつた0彼は寧枚数師から碑々しで、色々な人生を経験
し、そして常に自分の仕事に不満であつた。
快よく我に働らく仕事あれそれを仕遽げて死なむと思ふ
と歌つた味木は、結局この地上の人間杜禽で、永遠にその虞の「仕事」を蜃見しない人であつた0詩や歌を作
イαタ 無からの抗争
習 ▼
さ
i■町1
ることさへも、彼にとつては「仕事」でなく、叩貰る「悲しき玩具」にしか過ぎなかつた。詩作や茎学を以て
自己の天職と考へ、それに精進を打ち込んでゐる人たちから見れば、啄木は福の羞丁的アマチュアとして批
刺される0しかも禁の生きた人生こそ、眞の詩人の生きるぺく宿命された人生だつた。なぜならば啄木の求
めたものは、詩を技術する窺の人生でなくしで、詩を纂するための人生だつた。即ちつまり言へば、役は本
質的のヒューマニストであつたのである0「人は如何にして善く生くぺきかヱこれが彼の一生考へた詩人生
活のモラルであつた。
しかしながら啄木は、不幸にして無知のオプチミストでなかつたD彼はハイネと同じく、自己反省の鋭い批
判をもつた懐疑家だつた0そこで彼の左は、結局ニヒリスチックな敗北に終る外なかつた。
高きより跳びおりる如き心もてこの一生を終るすぺなきか
と歌ふ啄木は、宴融合に於ける敗北を自分で意識したのである三して東海の小島の渓に、蟹と泣き戯れて
る啄木は、卑小な1言リストとしての自己を自嘲して居るのである0ハイネがイロニツタの諷刺簸であつたや
うに、啄木豊た反語的の諷刺家であり、時には故意に造化て自分をピ…のやうに表現したり、皮肉な毒舌
で人を罵つたりした○しかも彼の若い魂は、最後までロマンチスとしての夢を持ち経けた。そして此所に彼
の痛ましい詩人的の悲劇があつた。
明治以来、日本には多くの天分ある詩歌人が出た○しかし眞の人生熱情を持つたところの、眞のヒユーマニ
ス三しての詩人は、要らくただ石川票一人であらう0それ故に清爽の歴史に於て、味木一人が宴詩の
新しき黎明を約束しで居る0和歌皇日由詩も、すぺての清爽的なる日本の若い詩精神は、正に石川啄木から出
費し直さねばならないのである0即ちやや誇張しで言へば、日本の新時代なる詩と詩精神とは、始めて啄木に
卜lr&E
ょつてh撃花されたのである。
Jj州一彗
彗一■