日本詩歌の韻律に関する原理


 西洋の羨ましさは、詣でも、音楽でも、美術でも、すぺての肇衝が科挙と改行して餞展し、蜃衝が料率的研
究によつて検討されつつ、智識ともたれ合つて進歩して来たことである。特に、音楽の如きは、科挙者の音響
寧的研究によつて、和馨の新しき万別が後見され、楽器の不断の改良が試られ、今日の驚くべき凌展を逢げた
のである。詰もまたこれに同じく、上古のギリシャ時代からして、言語孝者によつて科挙的に韻律が探求され、
いはゆる語草と解するものが、詩蓼術と改行して文化の進歩を助けて来た。
 然るに日本には、かうした智識と宰術の相互補助が全くなかつた。特に詩の弧律に関する科挙的研究が全く
なかつた。上古以来、それは全く詩人の直覚にゆだねられ、彼等の漠然たる象徴的の言語で、単に言葉の「し
をり」とか「しらぺ」とか「すがた」とか言はれたにすぎなかつた0もし日本に科孝者が居たら、その「しを
イ4j 無からの抗争

り」や「しらぺ」の賓潰観念を探求して、これを科孝的に原則づけ、日本詩歌の根警ノぺき普遍の韻律詩拳を
教へたらう0そしてもしそれが有つたら、今日僕等の日本詩人は、自由詩等のフォルムについて、今さら暗中
模索の労苦をあへてし、絶望的な嗟嘆を繰返す歪もなかつたのである。
そこて日本では、止むを得ず詩人自身が、かうした哉律の言語拳的研究をしなければならなかつた。明治以
来、岩野泡鳴等の詩人が親したことは、新膿詩の哉律原則を蜃見すぺく、かかる必要に迫まられてしたことだ
つた。
岩野泡鳴の方法論は、日本語の語数律を分析して、その最大公約数を饅見することだつた。そして従来の五
七調や七五調を、扁基本的に細分して、2・3・4・3律等に此準づけ、彼のいはゆる新散文詩といふフォ
ルムを作つた0この泡鳴の研究を、さらに扁展開させて、科学的に論撃つけた詩人は、涌士幸次郎であり、
佐藤妄であつた0別に川路柳虹は、多くの口語自由詩を統計挙的に類推して、宗十六音を基準とする所の、
彼のいはゆる新律格詩といふものを提唱した。
 此等の詩人の方法論が、すぺて皆語数律を基準にしたといふことは、充分納得できることであつた。なぜな
ら日本詩歌の韻律構成は、古来皆語数律を本位として居り、そしてまた語数以外に、日本語で韻律と言はるぺ
きものがないlと表に考へられてゐた1からである0質際日本語には、支聖器やうな平伏の韻がなく、
西璧器やうなアクセントもなく、シラブルによるところの韻律要素もないのであるから、単に或る数語を一
束として、Sア享77等の律椅形態を作る以外に、詩の方則すべき韻文基準がないわけである。
 しかし此所で尿問なのは、単にかうした語数律の形態だけで、果して日本語の眞の韻律ハ音楽的節奏)が構
成されるか香かと言ふことである0例へばS7享7の形態は、塞から和歌の定律として用ゐられ、日本詩
歌の最も原始的、且つ最も自然的な基本韻律と考へられでる0しかもこの韻律形態によつて書いたセンテンス
等∃▼ぎ
が、果して債轟く散文としての節奏を具備するだらうか。一つの例をあげて見ようβ
‥りT【F.−1
】一一一一一一召一
  架陵が通つた後の午過ぎの得々の辻を風が吹いてる
 南米へ明日立つといふ友達と何皇岩はずに飲んで別れた
 孝枚は卒業したがどうしても食へないといふ融合を知つた


 これらのセンテンスは、かつて「口語短歌」といふ名構で、或る歌の雑誌に掲載されたものであつた0賓際
に語数を数へてみると、何れも正しく和歌の定形調律を踏んでるのである。しかしだれが凄んでも、おそらく
これを調文だと思ふ人は一人も無からう。なぜなら此等のセンテンスには、どこに皇豊栄の抑揚や節奏がなく、
全く普通の散文と攣りがないからである。かうした物を、もし畢にその定形があるといふ理由で、無理に「韻
文」として押し付けようといふ人があるとしたら、此所に改めてまた「鶴文とは何ぞや」といふ巌間が、新し
く提出されて衆ねばならない。
 韻文とは何だらうか? 三日にしてこれを表せば、韻文とはリズムを有するセンテンスである。即ち浪の波
軌のやうに、一卜二下の高低張崩をもつて進行するところの、音楽的抑揚と節奏を有するセンテンスである0
所で単にS元日だけを山東とし、ア音だけを一束とし、それを幾つか連結しただけのセンテンスが、果してそん
な哉文要素を賓に構成し得るだらうか。これが疑問であることは、上例のいはゆる口語短歌ハ?)を見れほよ
く解る。日本語の韻文と錐も、決して畢に語数律だけでは成立し得ない。リズムの本質を為してるものは、他
のもつと微分敷的な言葉の万別に関するのである。
 このことについては、懲は既に久しい前から、漠然とした認識をもつて居た。日本詩歌の韻律要素が、畢な
イイア 無からの抗争

る語数律でないと言ふこと、各£語の微分敷的な関係に存することだけは、前から自分にょく鮮つて居た。
それで自分は、いはゆる律椅論者や形態詩論家の蒙を倍額すぺく、前にも「純正自由詩論」その他二三の所論
を敬表した0しかし自分には、その根本の原則となつてるところの、日本詩歌の韻律薗式がよく解らなかつた。
自分に騨つて居たことは、日本詩歌にも洋詩と同じく、壷の不文律の押散法があり、頭琴脚琴蓋のや
うなものが、殆んど一般的に常用されて居ること0定則的メカニカ〜の規約でなく、もつと融通自由の規約に
於て、散文の原則が定義されてること0等々にすぎなかつた0然るに最近、偶然の横合で藤床俊成の歌論をよ
み、解せて余常浦佐博士の或る音楽論をよんで、従来漠然と考へて居たことが、充分の理論的根捷を自信し得
るやうになつたので、改めてこの一文を革することにしたのである。
粂慣性氏は、悪書彗に放で、「是の唄は何故五線紙に書けないか」といふ妄を慧された。こ
れは自分等の詩人にとつて、多くの暗示と啓蟄に富んだ有意義の文献だつた0乗常氏の説によれば、日本の唄
(都々逸、端唄、地唄、長唄の顆)が、西洋流の五線紙に馬譜できないのは、唄の抑揚する黎のアンパイ(調
節)が、西洋音楽のそれと全くちがつてゐるからだと言ふ0即ち西洋音楽の唱歌では、D青からC音へ移る音
程の攣化が、極めて判然とメカニカルに出来てるのに、日本の唄では、これが非横械的の自然法にしたがつて
居り、〓二者から他の昔へと、特殊な有機的の関係て不離につながつて居るからだと言ふ。しかも日本の唄の
妙味と眞の旋律とは、その有機的な「つながり」の部分にあるのに、西洋楽譜の五線紙では、如何にしてもこ
れを書くことができないのである。
余常氏の説にょれば、かうした日本音楽の特挽性は、全く日本語そのものの特秩牲に基づくものだと言ふ。
即ち日本語の音頭を構成するところの原理が、西洋外国語のそれと大にちがつて、反機械的、自然流動的のも
ので雲からだといふ。例へば外璧岬で書ヱいふ語は、いつ何所にあつても蔓附にアクセンパ柑−レll−
町蘭、
Z周笥勺溜領バJ彗彗郎付乾しい冒∽勺巧監のといふ言葉は、
如何なる文→革の中にあつても、
                          へ 」勺ヨ一
                      一一ヨ一
必でノ世の前がアクセントの強者になるの1 L
である。然るに日本語には、かうした一定の機械的原則がなく、時と場合によつて、語の強窮高低が種々に攣
化するのである。例へば「いのち」といふ言葉は、これを単語として山琴音する時、「ち」がアクセントの強者
になる。然るに「我が命なにをあくせく」と言ふ場合の文中では、この「ち」のアクセントが滑えてしまつて、
全く強弱のない平坦の言葉になつてしまふのである。だがそれにもかかはらず、讃者の心理上の聴覚では、や
はり「ち」にアクセントが有るやうに感じられる。これは科拳的に言へば錯覚である。しかも日本語の詩文に
於ける領律は、この心理上の錯覚(心的イメーヂ)を根操として成立してゐるのだと言ふP
 音響埋草者としての乗常博士は、この事賓を科挙的貴族によつで確めたと言はれて居るが、さらに命少し、
自分は別の例を提出して、博士の説を補足して見たいと思ふ。例へば「今日も昨日も」とか「今日もまた」と
いふ場合、普通は「今日」にアクセントがあり、「も」は弱い看で軽く竜一音されるのである。また「放」とい
ふ言葉は、単位の場合にはアクセントがない。(足袋は「たLにアクセントがつく。)然るに次の和歌に於て、
これが如何に攣化して居るかを見よ。

  幾山河越え去り行けば悲しみのはでなむ園ぞ今日も旗行く   (若山牧水)

 この歌の第五句に於て、讃者はたしかに、「今日も」の「も」にアクセントがあり、「たぴ」の 「ぴ」にアク
セントがあることを感ずるだらう。(促し此所でアクセントと言つてるのは、厳重の意味での音響的強弱を言
ふのでなく、高低の関係をも一所に含めて、通俗の意味で「強い」と感じられる場合を指してるのである。)
 このやうに同じ言葉が、或る一聯の文章の中にあつて、そのアクセントの所在を攣北するのは、つまりその
文章それ自饅が律格してゐる、仝饅の調子に押されるのである。例へほ「今日も旗行く」といふフレーズは、
イイタ 無からの抗争

和歌の律楷してゐる格調の諒として、前の言葉から達概して讃まれる故に、自然的に「も」や「ぴ」にアク
セントが来るやうになるD余常氏が引例した「いのち」といふ言葉が、「我が命なにをあくせく」といふ場合
にそのアクセントを攣化するのも、やはりこの藤村の詩が律冷してゐる五七調の為なのである。
さて此所まで説いて爽たら、讃者は初めて日本詩歌に於ける敢律の基本問題に濁れるであらう。即ち日本詩
歌の韻律を構成するものは、大隈の律格を構成する語数待と、それの内在音律を構成する強窮律とであり、こ
の二部の物がからみ合つて、初めて日本語の韻文といふものが出来1るのである。然るに従来の論者やフオル
マリスト等は1ひとへにその語数律のみを研究して、賓の内部旋律となつてる彗仰の強弱律を忘れて居た。前
にあげた口語短歌や、岩野泡鳴のいはゆる新散文詩、川路柳虹のいはゆる新律椿詩等が、すぺて骨格あつて旋
律なく、定律あつて音楽のない概念物に経つたのは、所詮皆この一つの誤算の為に外ならない。よつて自分は、
この鮎をさらに詳説したいと思ふのである。

       ワ】
 乗常博士の言ふ如く、日本語のアクセントや抑揚やは、外園語のそれの如く、純聴覚的、純音響孝的に譜表
されるものでなくして、むしろ人芸心理的聯恕にょつて、イマヂスチックに表象されるものなのである。し
たがつてそれは、西洋欒譜に記入できないものであり、西埠音楽で節付け出来ないものなのである。同棟にま
た日本の詩歌は、西洋流の菰律拳や詩孝によつて、決して批判同律することが不可能である。すぺて日本の文
化を研究しょうと欲するものは、西洋人からその科学のエスプリだけを畢んで、その西洋科挙の方式を捨てね
ばならねD西洋科挙の常詩的方式を以てしてはJ初めふら日本的なる何物をも知ることができないだらう。
 しかしながら事物の最も本源的のもの、即ち韻文の構成を約束する第→原理について言へは、もとより支那
町戸
も日本も西洋も、貰の詩が棲同じである0世界のポ烈りn架か、拍節と旋律との二部で出水言領一潤[柑柑柑柑柑相浦
世界のすべての散文は、律格律と音韻律、即ち「律」と「韻」との二部で出来てる。支那の詣では、この律に
属するものを五音律、七言律等で方則し、萌に関するものを○●○●0の如き竿灰で示してゐる。西洋の詩で
ほ、例へばアレキサンドリア調の如く、語のシラブルの数によつて律を規定し、各ヒの語の抑揚に関する寵を、
アクセントによつて【(−(−のやうに指定してゐる。然るに日本の詩歌では、前言ふ如く畢語のアクセント
ゃ抑揚やが、外園語のやうに固定的の者でなくして、前後のセンテンスや格調によつて攣化し、その上にまた
心理的聯想によるものであるから、支部の詩や洋諸のやうに、これを譜表上の記硫として、具饅的に定律づけ
ることができないのである。そこで表面上の規約としては、日本の詩歌には語数律以外の公則がなく、単語の
抑揚や普報に関することは、全く無條件に放任されてる如く思はれるのである。そして此所に、多くの人々の
普遍的な誤謬があつた。
 詩が、七五調等の律部ばかりで成立し得ないことは、音楽が拍節ばかりで成立し得ないのと同じである。よ
り肝心のものは旋律であり、一つ一つの言葉に於ける、高低強弱の抑揚である。日本の詩撃に於て、それを具
績的に規定しなかつたのは、それの譜表的明記が困難のためであつて、それを必要としなかつた為ではない。
規約こそ無かつたけれども、古来すぺての日本の詩人は、直覚的にこの韻文の原理を知り、不文律的にそのル
ールをよく厳守して居た。むしろ定規づけられた規約がないだけ、それだけ却つて我等の詩人は、漢詩や洋詩
の詩人よりも、この鮎の韻律で苦心したのだ。古来日本の歌人等が、「しらぺ」「すがた」「しをり」「風情」等
の言葉で語つたものは、すぺてこの不文律の詩孝に関する、鶴律上の奥義と秘密部分を説いたのである。以下
これを賓例について解説しょう。
イjJ無からの抗争

                   lノれ
 巻向の柑原もいまだ雲去ねは小松が未ゆ淡雪ながる
順序として薫集の歌から始める三十妄から成つてるこのセンテンスには、各こ竺語表に高低強弱
の芙があり、それ自ら抑揚の判然とした讐を構成してゐる0これを解り易くするため、全文を平仮名にし
て書いてみよう。
 まきむくのひばらもnだcfばcつがcゆ卵はccる
 ◎ ◎  ◎
傍鮎のある所は讐讐あつて、それの無い所は誓彗ある0前に詳説した通り、是語の芸や高低や
は、外圃語のやうに純讐的の物理現象でなくして、心理↓の表象にょるイマヂスチックのものであるから、
もし厳雲科挙的立場から見る場合には、かうした讐や琴菅やの関係が、讃者の錯覚的な心的イメーデにす
ぎないか暴れないのである0しか豊たその故に、日本の詩は貰に驚き幽玄象徴の詩美をもつので、外
国詩の如き単なる笠上の感芙でなく、もつと心理的に除韻の深い、イメーヂとしての慧美、象徴美をも
ち得るのである0昔の歌人が、この幽玄な観律の秘密を指して、「しらぺ」「すがた」「風情」等の誓言つた
ことは、外国語に嘩詳ができないほど、まことに含嘗の深い意味をもつてるのである。
 ながからむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ
 是詩歌に於ける、この不文律の琵が構成する不風雲魅力は、芸朝の歌人によつて毒意識的に研究
され、純粋詩的フオルマリズムの蕎として、歌をその最高の形式実にまで震豊た。上例の歌の如きも、
その代表作の三であつて各ヒの名詞や、形容詞や、てにをはやが、夫蔓別後の音彙と有機的につながつ
那で軍廿への昂奮した吐息のや▲是、不思議な艶めかしい節奏と抑揚を感じさせる。前と同じく、これを全部
   平慣名にし、軍曹部に傍鮎をつけて見よう。

          ◎  ◎    ◎     ◎    ◎  ◎    ◎  ◎  E    ◎    ◎  ◎
    ながからむこころもしらずくろかみのみだれてけさはものをこそおもへ

  「長からむ心も知らず」と、さり菊なく人事のやうに言つて、男の愛情のたのみがたきを、やや皮肉に冷たく
  怨じながら、下旬に移つて一気に烈しく、「乱れて今朝は物をこそ思へ」と、一語一語に強いアクセントをつ
  けて、畳みかけるやうに歌つてゐる。特に「物をこそ思へ」といふやうな言葉の節奏には、女の身をくねらせ
  て悶えながら、自暴自棄的に怨言してゐるイメーデさへが浮ぶのである。そしてこのイメーデは、言葉の意味
  する表象よりも、むしろその韻律の音楽的抑揚感に存するのである。即ちグアレリイ等の俳蘭西詩人が理念し
  てゐる「純粋詩」を、我等は今かうした日本の古歌に見るのである。そしてこのことは、日本詩の韻律構成法
  が、如何に心理的に深く、複雑微妙な「すがた」「しをり」を本質してゐるかを澄明してゐる。明治以来の新
  膿詩や自由詩は、かうした過去の日本詩について、その完成された図語の詩撃と哉律撃とを、少しも知らない
  無知の冒険に出磯した。そして今日の日本詩を殆んど全く非韻文的、非肇術的の雑駁のものに低落させた。
   詩、特に日本語の詩に於て必要なものは、語数律よりもむしろ音韻律であり、希調よりもむしろ旋律(語の
  抑揚)にあることを示すために、次に伶一つの古歌を引例しょう。

         亡ひはりつくは
    新治筑波をすぎて幾夜か疲つる
    かかなぺて夜には九夜日には十日を

   これは人も知る如く、日本武尋とその臣下との合作になる連歌である。ここで日本武尊が歌はれた片歌は、
イ∫J 無からの抗争
▼ 声

4●4●チ4‥Jの語数律言つて、頑丈としでの定則律的なフォルムが全くない。印ちこれは純粋に不定
則の自由詩である0それにもかかはらず我等は、このセンテンスから「散文」を感じないで、可成に調子の高
い「萌文」を感ずるのである0何故だらうか↑その理由を説けば、言葉の一つ一つのつながつてる概数の中
に二種の心的イメーヂによる藁の抑慧があるからである0即ち「新治筑波」といふ最初の詩語の中に、
既に或る長哺するやうな吐息の詠嘆が感じられ、そこに韻文としての節奏が構成されてゐるのである三の歌
の場合、もし「鳥羽伏見をすぎて」とか「↓野武蕨をすぎて」とか言つたのでは、決してこの節奏は感じられ
ず、したがづてこの全文は詩として受入れられなくなる0思ふに作者の是武尊は、この時過去の長い征放の
苦警思ひ起され、自己の寂しく悲壮な左を追懐されて、その苗感胸に迫る嘆息の情(鳴呼と云ふ言葉)が、
その笠された新治筑波の地名の育と、偶然に晶景表して心象に浮ばれたので、自然的にこの御歌が朗詠
されたにちがひないご日分が常に言ふ如く、詩情が常に先にあつて詩の形態は後にしたがふD心に眞の詩情が
動けば、言葉はおのづからして節奏や報律をもつのである0この盲に限らず、すぺて記紀に載せられてる多
くの古い片歌が、革不定則の散文的自由詩であり、何等韻文としての定形を具備しないに関はらず、本質に於
て詩といふ感じを輿へるのは、皆これと同じ理由によるのである三しでこの反対は、近頃の詩讐歌壇に見
るところの、表の不可思議なる似而非観文、例へぼ前例のロ語短歌の如き、定形あつて節奏なく、フォルム
があつて報律のない文畢である。
 以上和歌にづいて述べたことは、他のすぺての是語詩ハ俳句・新懐詩・自崇等)に通じて皆同じである。
此所には新燈詩の」節を引例し与つ。
ゝ 〔巨「.FEレーーrll邑
小諸なる古城のはとり
雲白く遊子かなしむ
当周一
 この詩句の報律を構成するものは、次に示す如き各語の抑揚強弱である。
    ◎  ◎  ◎    ◎
  小諸なる古城のほとり
    ◎  ◎    ◎  ◎
  くもしろく遊子かなしむ

 以上の賓例でわかるやうに、大饅に於て日本詩歌の調律法は、支那、西洋のそれと基本的に同じである0た
だその普覇部の規約が外国の如く純機械的、純数理的でなく、多少の不規律を自由に許可することだけでちが
って居るが、これとても大鰹に於ては同じく、洋詩の−(1(−(1や漢字の苧灰法に準じて、日本詩の場合

  (、.ノ()Jll\一・ノ()J−トーーノJl\1〈1・ノ(

のやうに波状で表示し得るのである。


       っJ

最後に口語の話を引例しょう。口語、即ち現代の日本人が使つてる日常語は、江戸時代から侍統した、庶民
の日常語を養踏したものである。之れに反して文章語といふのは、奈良朝、平安朝時代に於けるインテリ階級、
帥ち貴族の日常語を骨子として、之れを拳衝的に薫練し、充分高級な詩文の表現に適するやうに、徐々に欒持
美化した言語である。
イ∫∫ 鮨からの抗争

所盲本の完の妄不幸は、最近明治に至る迄、庶民が眞の「市民植」を掴得せず、西洋の貰にみるや
うな、眞のデモクラシイが行はれなかつたといふことである0デモタテシイといふことほ、庶民が貴族の警
奪つて、従爽彼等によつて彗された学問知識のインテリぜンスを、庶民雪が呈樺し、「定」「町人」と
呼ばれた虚言同然の生活を、昨日の貴族と同様なインテリの教養人、即ち「紳士」「市民」の地位にまで、
芸に樺利を高めることを言ふのである0然るに具には、かうした市民権の梱待避動、即ちデモクラシイが
行はれなかつた魚、つい明治の最近に至るまで、庶民は全く若書の状態にあり、何等のインテ品数誉
なく、何の高邁な理念是たず、要フ同然の↑郎として、蓮町人の名で呼ばれたところの、憐れにしがな
 FEFr
い生清をしてゐたのである。
今日、一驚本人の使つてる晶口語は、かうした↑司↑郎の庶民たちが、江戸時代から遺産してくれた言
葉である0それが本望に警↑司ばつて居り、調子が卑俗で、インテリの教養性に紋け、高邁な詩精神に映
けてるのは纂である○それは江妄拳の霊紙や、こんにやく本や、洒落本や、碧、狂歌、川柳、都違
などの文孝表現には苧るけれども、少しく高邁な楕誓もつたインテリの毒、特にエスプリの妻な詩文
畢には、最某驚喜葉である0(だから江戸時代に於てさへ島蕉や蘇村の俳人は、その詩毒に於て口
語を用ゐず、すぺ妄葦誓用ゐた0ただ小説家と俗流の狂歌師だけが、大勝に口語を採用した。)
大正時代に入つてから、是の詩人が自然主義の影響をうけ、瀬批判に晶を採用したといふことは、今か
ら考へで大に反省すぺき馬であつた0賓際是の詩が、その撃としての拳術的償値を失ひ、卑俗に散文化
してしまつたのは、口語の採用がその算的の原璧つた0しかし前言ふ通り、川柳、狂歌、都還俗肇
の如き、芸プリの低い卑俗な民衆詩には、却つ言語の方が邁切であり、よく人情のレアリスチック表徴
を創挟し得る0ノ例としで、此所には都違をあげる。           巨巨邑
                   1」k止、リノい†..一 人−
潮来出払叫の異人孤の中で菖蒲吹くとはしをらしや
l
 韻律上の原則からは、口語詩も文語詩も同じであり、少しも塗る所はない。即ちその音韻の抑揚構成ほ、次
に囲式する通りである。

     ◎  ◎  ◎  S  ◎    ◎    ◎    ◎  ◎  ◎  
  いたこでしまのまこものなかであやめさくとはしをらしや

 近頃の新日本風俗を表象する、例の町の流行小唄もまた、この時代の口語詩として代表的なものである。最
近の流行唄から一例を取らう。


  アアそれなのに それなのに
  怒るのは 留り前でせう

 最姓の流行唄の歌詞は、音楽と提携して、著るしく卑俗主義に徹底し、その鮎で江戸小唄以上に戯作的、洒
落本趣味的である。しかし一方からみれば、文学的に言葉の使用法が巧みになり、よく大衆の情痴的貴慮を轢
                      こつ
ぐるやうに作られてゐる。そのレトリックの骨は、つまり韻律の騒使が巧みになり、青菜の急所急所に、強い
アクセントを入れることを覚えたのである。ここに引例したのは、流行唄の一部分だけを切断したのであるけ
れども、資際この唄が流行つてるのは、この一部分だけの魅力によつてる。つまり大衆ほ、この歌詞と作曲と
の巧妙なコンビによつてエフエクトされてるところの
アアそれなのにそれなのに
イ∫ア 無からの抗争

 ■FトトFrhF
の「な」と「に」に於ける強いアクセント、女のすねたやうな感じがする、妙にエロチックで煽情的な抑揚感 朋
                                                        J「
を興がるのである。
しかし口語を使用する詩は、毒的に皆かうした卑俗主義の覿文に於て成功し、エスプリの高邁な貴族主義
の詩に於て宗する0次の例は少し極端かも知れないが、前田夕暮氏の難詰1詩歌」に所載された歌壇のいは
ゆる自由律短歌である。
 食へるだけでも好いと言ふものが俺の周饅に十指にあまるはどある
藷の内容の慣値は問はない0畢に形態↓から見て、このセンテンスの散文的償値はぜロである。なぜならど
こにも格調としての節奏や抑揚がなく、全く平坦無味の典型的散文にすぎないからである。そしてこの失敗の
形而上的原因は、かうした反卑俗的な詩構紳を、卑俗な晶口語で書いたと言ふ事にある。召姓、町人と親王
れた封建時代の日本の庶民1それが今日の口語の創作所有者であつた−は、盆廟唄や情痴小唄の作者であ
つても、牡合の不義に対して憤慨したり、高邁な理念を掲げて文拳するやうな人ではなかつた。そしてこのこ
とほ、かかる人々の日常用語が、壁芳情換をエスプリする詩文に於て、初めから不革笛であり、本質に調子
の高い報律要素を軟いてるといふ革質を指示する0その調子の低い卑俗の藁で、無理に高邁な詩想を歌はう
とするからして、そこに官然の破綻が起り、結局口語本来の観律さへも失費して、虻蜂取らずの退屈な散文に
堕落化するのである0これは↓例の歌ばかりでなく、詩壇の鎖骨主義詩やプロレタリヤ詩を始め、他の殆んど
一般のロ語自由詩につい三召ひ得る事なのである。
 雲ノるに宿題は、今日の伶あまりに封建的、江戸町人的の遺俸を背負つてゐる日常口語を、もつと知性的に
カルテ;し、より高邁な楠紳を気負ふところの、眞のインテリゲンチェアの萎術語にまで薫線すること。印
                                     トし■lllF
穎虹
ち現代の日本に放て、正に我等の所有すぺき「巧民の言責」を、過去の「町人の言葉」に代へて 新しく、創
造建設することである。日本の未来の口語詩は、それによつて初めで「肇術」としての允許を得、眞の光輝あ
る歴史を持ち得るだらう。


 以上自分は、日本詩歌の韻律について、大破根本の原理を説明した。基本的な事項に関する限り、自分の考
には誤謬がないことを確信してゐる。しかし部分的には、伺多くの不備の鮎があると思ふし、多少の濁断や侮
見にすぎた所もあるか知れない。幸ひ篤畢の讃者によつて、自分の不備を訂正され、且つその蒙を啓蜃指摘さ
れんことを嘱望する。




   追  記
 語数律の律格と音敢の節奏とが、如何なる原則的のルールによつて交渉するかを、自分は伺研究中であり、
充分に鮮つてゐないことを告白する。例へば引例中で「巻向の檜原も未だ雲いねば」は、S・7・Sの定律で
あるが、これをさらに内部の語数によつて細分すると、221・313・23となる。そして各語の強撃音ほ、
この歌の場合大饅に於て「かき」「むく」「の」「ひばら」「も」「いまだ」といふエ合に、各∵綴音の頭部に来
て居る。然るに「長からむ心も知らず」の歌では、アクセントのつく強饗部が、反封に各一轡音の中央部に凍
て居る0即ち「なが」「かbん」「こhろ」「も」「しbず」といふエ合になつてる0この語数と節奏との微妙な
有機的関係も、讃者の研究によつて指数を仰ぎたいと思つてをる。
 前文にも書いた通り、かうした日本語のアクセントや抑揚感は、讃者の心理的イメーヂに多く関聯するもの
イ∫タ 無からの抗争

であるから、この文中の引例歌に附した筆者の傍鮎(抑揚の所在指示表)は、或は讃者によつて異見があり、
人芸見る所を別にするかも知れない0しかし大饅に於て、高低強彗起伏するリズムの浪が、是語の詩歌
に本質してゐることの妾だけは、何人も異存なく肯定してくれると思ふ0そしてこれが鮮つてもらへば、自
分の論旨はその大要を轟したのである。
この論文は、前に他の雑誌に饅表した二三の論文(詩と藁の関係、純正自由詩論、口語詩歌の調律を論ず
等○)の思想的不備を禰ひ、それ等の論文で曖昧の鮎を判明して、綜合的に完成蜃展させたものである。故に
もし他の論文を参照していただければ、自分として最も確足であるqそれらの論文は、近刊の詩論集「詩人の
使命」(第一書房磯行)の中に皆編集してある。
岩野泡鳴の調律研究は、畢に語数律ばかりでなく、かたはら日本語の押韻法則にも及んでゐる。日本語の詩
に壷の押琴万別があることは確かであつて、自分も智者「懸変名歌集」中に、その多くの具慣例をあげて詳
説した0しかし泡鳴や輿謝野晶子氏やが、かつてそれによつて試作したやうに、是語で浄詩風の定則的な頭
彗脚彗を誓、張ひて洋詩の形式を模倣するといふことは無意味である0要するに日本語の韻律は、「無
                                           かん
万別の方則」「無定形の定形」とも言ふぺき、壷のアンチ・メカニズムの有機的な「勘」に有するのである。