復讐としての文学


 此頃僕が方々へ書き散らすので、皆から元気旺盛だとか、エネルギッシュだといつて祝福されるが、僕自身の側から言へば、全く反対のわけなのである。文学するといふこと、物をかくといふことは、今の僕にとつて全く悲しい諦観であり、絶望的な復讐であることの外、積極的な何物でもないのである。といふのは、近年僕は心身共に衰弱して来て、生活上の現実的希望を失なつてしまつたからである。
 昔、青年時代には、僕は人生に対して色々種々な夢を持つて居た。それらの夢の中には、荒唐無稽に近いメタフィヂックのイデアもあつたし、もつと現実的社会に触れてるところの、可能性の多い夢もあつた。僕の今日までの生活は、ひとへに全く此等の夢を追ふための生活だつた。文学なんて言ふものは、僕にとつて単なる「ありのすさび」に過ぎなかつた。ペンを取つて机に向ふ時間があつたら、夢の破片だけでも見付けるために、何かを探し廻つて居る方がましであつた。昔二葉亭四迷は、文学は男子一生の仕事にあらずと言つた。その人の意味の中には、多分に政治的の行動主義が有つたのだらう。僕の場合はこれとちがつて、政治的の野心は無かつたけれども、その行動主義を文学の上位に見ることに於て、やはり二葉亭四迷と一致して居た。僕は詩や文学やに対して、真に「仕事」といふ観念を持つたことは一度も無かつた。話作や創作やは、僕にとつて単に全く生理的の排泄作用にすぎなかつた。
 僕が酒を好んで飲んだのも、やほりその同じ行動主義に外ならない。つまりアルコールの麻酔中に、自己の求める夢を現実して、主観上の満足を買はうとするのであつた。だから僕は文学する時間よりも、むしろ酒に酔ふ時間の方を求めで居た。文学のための勉強として、書物を買ふ金がある時、僕はいつもそれを酒の方へ費つてしまつた。「仕事」でもない文学なんかを、もとより「勉強」しようなんて気はなかつた。本を読むといふことも、僕にとつてほ全く早なる忘却 ― 苦痛からの忘却 ― にすぎなかつた。
 しかしながら今では、そんな数々の昔の夢も、みんな散り散りに消えてしまつた。僕は年を取り、人生を経験し、そして夢と現実との残酷な区別を知つた。僕の過去に考へてたこと、夢見てゐたこと、イデアしたことのすべてが、如何に現実社会に於て馬鹿馬鹿しく、痴人の妄想に過ぎないかといふことを、今になつて始めてはつきりと認識して来た。僕の過去の生活は、現実を知らないことの迂愚に於て、子供よりも尚甚だしく、笑ふべきことの限りであつた。
 その上にもはや、僕は体力を衰退して来た。たとへ巨万の富が有つたところで、今の僕の肉体では、到底何事の快楽をも実現できない。僕は罰された幽鬼のやうに、あらゆる美味と美色と美女との中で、空しく焦燥するばかりであらう。僕は疲労して来た。その上アルコールでさへが、もはや昔のやうに僕をエクスタシイに導かなくなつた。
 次第に一つ宛、僕の悲しい夢が消えて行つた。たとへ実現されたところで、今の憔悴した僕にとつて、そんな人生は何にならう! 何事も過去に来らず、未来には既に遅すぎて居る。そして人が、未来を考へることなしに、いかで望みある人生を生き得ようか。僕の現在は暗黒であり、絶望の深い嘆息に充たされて居る。それは地獄の深淵のやうに、いかにしても這ひ上ることができないのである。
 ああしかし、言ふ甲斐もない嗟嘆を止めよう。今にして始めて、僕は「文学に生きる」といふ意味を知つた。なぜなら文学によつて訴へ、文学によつて嘆き、文学によつて遊戯し、そして過去の口惜しかりし人生を、文学によつて復讐することの外、今の非力の僕には何事もできないからだ。世の多くの人々は、僕と同じやうな人生を経験し、同じやうな怨嗟を抱いて、空しく地下の墓に降つて行く。彼等は単に無力であり、何一つの怨言も告白できず、いかなる手段の復讐さへも為し得ないで、運命のままに死滅するのだ。独り僕等の文学者だけが、この点での特権者であり、告白の自由と復讐の権利を持つてゐる。僕等は精霊と同じやうに、この世に於て実現できなかつた夢や希望を、あの世の未来に実現さすべく、ペンと紙に書記することができるのである。
 今こそ僕は、始めて文学の「仕事」である意義を認めた。最近の自分にとつて、文学は決して単なる排泄ではない。それはまさしく仕事であり、しかも命がけの一所懸命の仕事である。すべての悲しき自殺者等が、死に面して躊躇しながら、綿々尽きるなきの怨みを叙べる如く、僕もまた文学に懸命して、綿々尽きるなきの思ひを叙べてるのである。おそらく僕の書くことが尽き果る迄、僕の生命と健康が続くであらう。なぜなら神は、本質的に寛容で慈悲深くあるからである。
 今の僕にとつて、文学こそは正しく唯一の熱情である。そしてしかも、何といふ悲しき熱情だらう! これは!