十九世紀的と二十世紀的
春山君は自ら「二十世紀」の詩人と自縛し、僕の詩と詩論を「十九世紀」と放して居るが、日本文化の現状
卜臣llllllll−已
ヨ針虹
じてゐる政令に、果して「二十世紀」なんてものが賓在するのか。日本の文化は今日まだ歓洲の啓蒙時代さへ
通過してないのだ。カント以前の文化ではなく、むしろルーテル以前の文化なのだ。そして国民ほ浪茂節とキ
ング以外に、どんな文化情操も知らないのだ。今の日本にもし「二十世紀」があるとすれば、それはアメリカ
の活動映葦を眞似た生活榛式の外貌でしかない。そしてこの意味の二十世紀を最もよく知つてるのは、文孝者
ゃインテリの仲間でなく、無邪気なモダンガールやモダンボーイの連中なのだ。春山君の言ふ「二十世紀」も、
この連中の意識してゐる所謂「モダン」や「スマート」や「新しさ」やと、大鰹ほぼ同じやうなものだらう。
っまりハイキングといふ言葉を俊ふ人は二十世紀の新人で、散歩といふ言葉を使ふ人は十九世紀の蕾弊人だと
いふことなのだらう。(僕の知つてる女畢生は、僕が散歩に行かんかと言ふと、叔父さん古いわねえと言ふ。)
春山君も一人前のインテリだつたら、女畢生やモダンボーイの二十世紀を眞似しないで、現代日本文化の本質
して居るレアリチイと、眞の文筆上の意味での「新しさ」が、日本の何所に有るかをよく見るぺきだ。
春山君によれば、僕は「常識的な逆説家」なのださうである。妙な言葉もあつたものである。僕はこれを聞
いてソクラテスとゴルギアスの問答を思ひ出した。
眞理といふものは、奇想天外の茎中に有るものではない。反対に萬人の心の中に、普遍的にあまねく賓在す
るものである。さうでなけれほ、眞理が眞理としての普遍性をもつ筈がない。しかし人々は、無意識に知つて
ることを意識上に反省したり、思想上に所詮したりすることを知らないのである。そこで自費した智者によつ
て説かれる時、始めて人々は「成る程」と思ふのである。すべての正祝家と正義人は、この人々が無意識に知
ってることを、意識の表面に反省させ、眞埋の有る所を指示するので、それ以外に手品や魔法を使ふのではな
−V
イd∫ 無からの抗争
ゴルギアス等の詭粁論者は、ソタラテスを配して常識家と呼んだ。自分等の諜が詭将であり、眞理としての
普遍性を持たない邪説であるに反して、ソクラテスの説く所が正説であり、眞理としての普遍性を持つて居た
からである0春山君が僕を「常識家」といふのは、僕が大衆の中に多数の支持者をもつことの革質からして、
僕の思想を「通俗的」と乾すのである。然るに、眞の文季や拳循といふものは、一方に純粋性を持てば持つは
ど、一方に必ず大衆性をもつのである。ドストイエフスキイの小説でも、谷崎潤一郎の小説でも、ハイネやボ
ードレエルの詩でも、眞の本質的な文筆は皆苧つである。ただ文壇意識や詩埠意識の、狭い範囲の欒量的功名
性にのみ捉はれ、眞の普遍的な人間性を忘却した似而非の文学だけは、決して大衆に讃まれないのだ。なぜな
ら大衆は、文早から自己の糧となるぺき人間性だけを求めるので、文壇意識や詩壇意識の議事問題とは、何の
交渉もないからである。春山君の如き、詩埠意識の功名心でばかり言説する人の物を、大衆が温興味に白眼現
するのは官然である。
ゴルギアスの徒によつて、ソクラテスが「常識家」と言はれ、「通俗思想家」と呼ばれたことほ、正にソク
ラテスの義人であり、正視家たることを立澄する裏書だつた。春山行大の徒によつで、僕が「常識的逆説家」
と言はれることは、正にその同じことを僕にとつて意味して居るのだ。そこで詩人には二通りのタイプがある。
(春山君の言葉を眞似して0)春山行夫的と荻原朔太郎的である。「春山行夫的」といふことは、詭粁家的、ゴ
ルギアス的といふことを意味するので、「萩原朔太郎的」といふことは、正課家的、ソクラテス的といふこと
を意味するのである。
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