傭兵気質とやくざ仁義

 仏蘭西革命の風雲が、正に高潮に達した時、国王ルイ十六世はその宮廷を開放し、近衛兵の将卒を集めて盛宴をひらき、大いに彼等を歓待してその忠誠をちかはせた。美女の接待と三鞭酒に酔つた将兵たちは、何れも剣を抜いて忠誠をちかひ、王の万歳を叫び、さては感極まつて号泣しながら、「山はさけ海はあせなむ世なりとも君に二心われあらめやも」といふ仏蘭西語の歌を合唱した。然るに千七百八十九年十月、激昂した暴徒の大群が、手に手に武器を取つてヴルサイユ宮殿に乱入して来た時、もはやそこには、一人の近衛兵も残つて居なかつた。
 この時に当つて、最後まで宮殿を守り、健気にも暴徒の乱入を防ぎ戦つたのは、実に少数のスヰツツル傭兵であつた。彼等は王の近衛兵でもなく、仏蘭西人でもなく、特にまたルイの恩寵を蒙つたものでもない。彼等は国籍のない軍人であり、何処の何人にも隷属して、金貨と引換へに戦ふところの、兵隊稼業の傭兵等であつた。バーナアド・シヨーは、英国の義勇兵を諷して傭兵に譬へ、有名な「チヨコレート兵隊」といふ戯曲を書いた。それは弾篋の中に実弾を入れる代りに、菓子のチヨコレートを入れて歩き、常に如才なく立ち廻つて、戦争を「要領」ですましてしまふところの、老獪な傭兵心理を描いたのである。ところが仏蘭西革命の場合は、このチヨコレート兵隊の傭兵だけが、最後までルイのために忠節を持し、すべての裏切者の中で、唯一の節義を尽したのである。そのため彼等は、暴徒の大群にひどく憎まれ、言ふにも忍びない無慙な仕方で、一人残らず虐殺されてしまつたのである。
 幕末の徳川政府が、尊王攘夷党の志士を持てあまし、その天誅組等のテロ行為に対抗するため、一種の反動的暴力団を組織したのが、即ち所謂新選組であり、これがまた幕府方の傭兵だつた。彼等新選組の武士たちは、近藤勇を初めとして、多くは皆扶持に離れた浪人等であり、もしくは辺在にごろごろしてゐた、半農半士の郷土等だつた。彼等はもとより、幕府譜代の旗本家臣の類ではなく、徳川氏に対して、何の報恩忠節の義務を負ふものではない。彼等が幕府の招聘に応じたのは、ひとへに俸禄の好餌に釣られ、軍用金の名で下附されたところの、過分の金円に魅せられたのである。しかも彼等の傭兵等は、最後まで幕府のためによく戦ひ、節に殉じて忠死してゐる。
 かうした傭兵の強さと節義は、そもそも何に起因してゐるのであらうか。これを逆説的に説明すれば、彼等に大義名分の観念がないからである。近藤勇等の新選組隊士は、もとより深い教育もなく見識もなく、単に剣を振つて殺伐を事とするところの、単純粗暴の野人にすぎない。彼等に大義名分の観念もなく、時世の大局を見る明もなく、公武二派の争ひについて、その正邪善悪を批判する知性もなかつた。ルイ十六世に殉死したスヰツツル傭兵等も、同じやうにまた大義名分の観念を知らなかつた。当時の仏蘭西に於ける大義名分は、ルツソオによつて伝へられた自由平等の思想だつた。当時の仏蘭西青年等は、この正義のために熱狂して「我等に自由を与へよ、然らずんば死を与へよ」と絶叫した。十八世紀の末葉に於て、欧州の全野を狂熱させたこの大義名分論は、しかしスヰツツルの兵隊稼業者たちには、殆んど何の関心もない他事ごとだつた。彼等は仏蘭西の民衆等が、何のために、その穏和で人の好い国王に反抗するかといふことの、根本の理由さへも知らなかつた。もし彼等にして、それを知るだけの知性と教養があつたら、おそらく彼等の志節が動揺し、勇気が減殺されたであらう。
 かかる傭兵の勇気と節義心とは、全くその職業道徳に基づくのである。すべての職業人と同じく、彼等の兵隊稼業者も、その与へられた俸給に対して、当然支払ふべき義務の観念を有してゐる。そしてこれが、彼等の職業に於ける信用財産となつてるのである。もし彼等にして、その信用財産を失ふならば、路頭に失職する外はないのであるから、この点では仲間内の制裁が厳重であり、且つそれが彼等の浸み込んだ良心となり切つてる。ルイに大金を給興された傭兵等が、その職業義務を果すまで、決して逃げなかつたのはこのためであり、そして新選組の隊士等が、幕府に殉死したのもこの故である。
 しかし彼等にして、もし大義名分の観念があつたならば、他にもつと別な行勤を取つたであやっ。なぜなら自己の危機に際して、その雇傭者を見捨て、義務を放棄する場合に当つても、私情を捨てて大義につくといふことによつて、自ら良心を慰め、破廉恥を欺瞞することができるからだ。然るにかうした傭兵等は、単に無知無識であるばかりでなく、概して皆気質的にパツショネートな人間であり、兇刀の前に生命を曝すことを、殆んど何とも思はないやうな人々である。むしろ彼等は、さうしたスリルを愛する故に、好んで危険な傭兵稼業を選んだのである。
 それ故に彼等は、人間としての気質上に於て、本質的に博徒等の無頼漢と一致してゐる。国定忠治や黒駒勝蔵等の博徒は、気質的に殺伐単純な人種であり、知性の批判力を全く欠乏した人々である。彼等の頭脳には、物の正邪善悪を批判し、私情と公理を区別して、大義名分を識別する能力が全くない。いやしくも「男と見込んで頼まれたから」には、善にもあれ悪にもあれ、一命を賭して尽すことを以て、彼等仲間の最上の道徳と考へてゐる。そしてこの同じ「やくざ仁義」が、近藤勇等の節義であり、スヰツツル傭兵の忠義であり、そして一般に「傭兵気質」と呼ぶものの本質である。彼等はその雇傭者たるルイや幕府から、一言「男と見込んでたのむ」といはれたのに感激し、事の正邪善悪を問ふ由もなく、直ちに応と答へて立ち上つた。これは楠木正成や
、吉田松陰の忠義心とちがふのである。楠木正成は後醍醐帝から、朕汝を以て股肱とすといはれたのに感激し、その一身を捧げて殉忠した。しかし正成の場合は、単にそのパツショネートの感激ばかりでなく、皇室の為に逆賊を亡ぼさうといふ、大義名分の観念が心底にあつたのである。もしその同じことを、足利尊氏から言はれて握手されたら、彼は憤然として席を蹴つたにちがひないのだ。
 しかしながら無頼漢の愛らしさは、決して如何なる場合にも、その節義を変へず、やくざ仁義を棄てないといふことである。仏蘭西革命の時、ルイの最も信頼した近臣や近衛兵やが、王を見捨てて宮殿を脱走したのは、おそらく彼等が、時の時代思潮である自由平等の輿論に巻き込まれ、彼等自らもまたそれを以て、仏蘭西の正しいイデーと新時代とを指すところの、大義名分論と考へたからであつた。幕末勤王倒幕論が勢力を得、時代の圧倒的な輿論となつて来た時、松平を名乗る徳川の親藩中にさへも、翻然としてこれに雷同するものが現はれて来た。かかる者共は、これを表面から批判すれば、もちろん時の勢力に附随するところの、卑怯な事大主義者にまちがひない。しかし彼等自身の側に立つて、その心理を告白させれば、決して功利的意識からするのではなく、理性の正しい批判が、今にして初めて眼を醒まし、大義名分を知つたのだといふであらう。
 人間の多くの行為は、たいていその理性の背後に於て、無意識の利己的慾望と結びついてる。たとへば僕等の文壇に於て、ジャーナリズムが或る輿論 − マルキシズムやプロレタリア文学など − を興隆した時、多くの文士は附和雷同してこれに投じた。文壇に於ても輿論は絶対の強者であるから、これに投合するものは利得を得、投合しないものは損失する。そして多くの文士等は、その辺の算盤をよく知つてるのである。しかし彼等の文士自身は、かかる解説に対し、憤然として抗議を提出するにちがひない。彼等はいふだらう。我等は社会改革の理念に燃えて、正義のために立つたのである。決して輿論に投合したのではなく、況んや利己的利害のためではないと。確かに彼等の心理は、意識の表面上でその通りである。決して彼等は、自ら欺いてるのではない。しかも彼等の大多数者が、その無意識の心裏に於て、時代の輿論と潮流に順ふことの、聡明な利益を知つてゐたことはまちがひない。
 「最も狡猾な事大主義者とは」と、或る場合にゲーテが言つてる。「自ら事大主義者であることを意識しない事大主義者である」と。さういふ賢明な事大主義者は、実に社会の至る所に、無数に大勢ごろごろしてゐる。そして彼等こそ、実に人生に於て「成功者」と呼ばれる人々の一団であり、またそのよく出来たタイプなのである。彼等は王政栄えれば王政を謳ひ、共和政興ればこれを讃美し、民主主義が一代の風潮を支配する日には、自らデモクラットのゼスチュアをして人気を博し、ファッショ興れば急に帝国主義者に豹変する。しかも彼等自身、自ら決してその転向を意識しない。徐々に時勢の変化につれて、彼等自ら気づかない中に、いつともなく、時代の大勢に巻き込まれてしまふのである。勿論その根柢の動機に於て、彼等を動かしてる実のものは、時の利にしたがふ事大主義の狡智である。しかも意識の表面では、純に思想の進歩と時勢の変化が、過去の過つた大義名分の観念を、新しく訂正したやうに思惟される。それによつて彼等は、さらに良心に恥ぢるところなく、常に公々然として天下の大道を闊歩してゐる。傭兵気質とやくざ仁義は、かうした狡猾の事大主義を排斥する。彼等は思想上の小児であつて、大義名分の何物たるかを理解しない。男と頼まれた一言だけで、彼等は善悪無差別に味方をする。しかしながら彼等は、たとへ悪にもせよ不義にもせよ、一旦引受けた以上には、自己の利害を無視してまで、決してその依頼者への節義を変へない。幕末から明治へかけて、日本の諸国に生き残つた多くの侠客博徒等は、既に封建の世が亡びて、明治の新しい時代が興り、一切の価値批判が転回して、輿論が昨日の善を悪と呼び、昨日の悪を善と呼ぶやうになつた時さへ、依然として封建の思想を持し、既に時代おくれとなつたやくざ仁義の如きものを、純情一途に守り続けた。彼等は頑迷固陋であるかも知れない。しかし昨日までの攘夷論者が、すまし返つて洋服を着、当世風の開化を讃美し、その「自ら意識せざる事大主義」の故に、時流に乗つて「成功者」となつたに比して、むしろ遙かに愛すべく、真に信頼すべき人々ではないだらうか。