与謝野鉄幹論   附 鳳晶子論

 常にどんな時代に於ても、文学には二つの対流する方向がある。時代の理念を掲げる文学と、時代の現実を描写する文学である。そしてこの前者に属するものが、詩、及び詩の外延としてのエツセイであり、この後者に属するものが、散文精神を代表するところの小説である。
 文学史上で、普通に浪漫主義の時代と呼ばれてゐる明治の文壇にも、やはりこの二つの物が対流した。即ちその一方には、江戸戯作者の系統をひいた硯友社一派の小説があり、一方には、藤村、酔茗、晩翠等の新体詩人と、透谷、樗牛、鴎外、嘲風等のエツセイストが居た。そしてこの二派の文学の対立は、明治時代に於て、極めて著るしいコントラストを示した。なぜなら明治の社会そのものが、新旧両極端の無差別に混同雑居してゐた社会であつたから。そこには最も古い封建的なものと、最も新しい欧化主義のものが、互に殆んど調和することなく雑居してゐた。政府は文明開化をスローガンにし、淑女紳士を鹿鳴館に集めて舞踊させたが、一般大衆は尚依然として封建の遺風を守り、江戸伝統の花柳界や歌舞伎劇に享楽し、端唄や都々逸を唄つて酒宴してゐた。尾崎紅葉等の小説家は、かうした大衆と共に花街に遊び、江戸戯作者の気風を伝へて、よく当時のレアリスチツクな社会相を描写した。そしてこの一方には、彼等の小説家と全く対蹠的な位置に於て、新日本の理念する欧化主義の精神を高揚しようとするところの、新しい詩人エツセイストの一団が居た。明治の現実的な社会相は、前者の小説家によつて表現された。だが明治の理念したロマンチツクの精神は、後者の新体詩人と、及びその詩精神の外延たる、エツセイストによつて叙べられたのである。
 かかる明治の詩精神は、破壊と建設との過渡期にあつて、青春の熱情に燃え狂つた。一方で彼等は、封建的なるものと戦ふために、一切の現実を否定せねばならなかつた。一方にまた彼等は、新しい未来を建設するため、理想に向つて夢のやうな憧憬を抱きながら、絶えずロマンチツクな抒情詩を歌ひつづけた。此処には否定精神のニヒリズムと、希望に充ちたロマンチツクの精神とが、常に同じ心の中で、矛盾を争ひ続けねばならなかつた。
 明治の文学者中で、かうした時代精神を最もよく悩み、最もよく思想した人は、詩人エツセイストとしての北村透谷であつた。だが透谷のすべての悩みは、彼が純粋の詩人であるよりは、むしろより多く思想人であり、懐疑的な哲人であつたことに基因する。懐疑は抒情詩を紛失させる。懐疑的な人間は、よく「歌」を歌ふことのできない人間である。よく歌ふことのできる人々は、本質的に朗々とした明るいリズムを、心に生得してゐる人々である。即ち島崎藤村が、此処で明治の抒情詩人を代表して現れてくる。藤村の詩精神は、透谷と反対の側に於て、新時代の勝利と希望を夢みたのである。彼の詩精神には、少しのニヒリスチツクな暗影もなく、時代に対する叛逆抗争の意志もなかつた。彼は真に鳥のやうに自由な心で、新時代の黎明する悦びを歌ひ囀り、心行くまでに声を張つて、新らしき時代がもたらした青春の勝利を讃へた。明治といふ時代が思潮した、すべての若き日の情感とりリシズムとは、実に藤村によつて歌ひ尽されたのである。藤村の詩をよむ時ほど、明治といふ日の嬉しさと楽しさを、追懐させられることはないのである。
 しかし透谷も藤村も、時代の壇上に立つて号令し、タクトを振つて一世を指揮するといふやうな柄の人ではなかつた。此等の詩人は、時代の浪の中に漂ひながらも、孤独に一人で瞑想しながら、自分の心を凝視してゐた人たちだつた。明治の多くの青年たちは、彼等の文筆を愛読したが、彼等によつて文壇的に指導され、ジヤーナリズムに乗り込むことはできなかつた。時代はさうした詩人の外に、壇上に立つて号令し、一世の思潮を煽情するリーダーを要求した。そしてこのリーダーとなつたものが、実に明治の英雄詩人与謝野鉄幹であつたのである。

   2

 与謝野鉄幹は明治六年、京都の郊外岡崎に生れた。天質的にロマンチツクの野心家であり、覇気満々たるこの詩人は、青年時からバイロンに私淑してゐたと言はれてゐる。しかし学歴は洋学でなく、当時の国文学の元老であり、後の新派和歌や新体詩の始祖となつた落合直文の門に学んだ。一時朝鮮に放浪したり、黒岩涙香の二六新聞に居たりした経歴は、生涯を通じて彼に政治書生的の風貌を烙印した。そしてこれがまた、彼に明治時代の青年気風を代表させた所以であつた。男子志を立てて郷関を出づ、学もし成らずんば死すとも帰らじと詩吟した当時の書生は、常に牛肉屋に痛飲して天下を論じ、国事の非なるを憂へて悲憤憤慨するところの国士であつた。恋愛を語り、文学を論ずる如き文弱の徒輩は、彼等の最も擯斥するところであつた。しかもかかる書生気質を代表する鉄幹が、一方に恋愛至上主義を主張する星菫派の巨頭となつたことに、明治文化の最も深遠な興味が存するのである。
 鉄幹の初期詩集には、「天地玄黄」「東西南北」等のものがある。しかし此等の詩歌集は、何れも藝術的に未熟のものであつて、未だ以て一家の風格を成すに足りない。彼の真の代表作にして、その藝術的発展の最高峯とも見るべきものは、後に出た詩歌集「むらさき」一巻である。「むらさき」以後にも、彼は尚一二の詩歌集を出して居るが、その時既に鉄幹の時代は過ぎ、文壇の主潮は自然主義になつてゐた上に、作者自身の情熱も涸燥してゐた為、甚だ色の褪せた蛇足的の追加物といふ観があつた。よつて此処には、「むらさき」中の作品を主材として、鉄幹の全風貌を紹介することにしようと思ふ。
 「むらさき」は四六半截の小冊子で、短歌と長詩(今の文壇で言ふ詩のことを、当時は短歌に対して長詩と呼んだ。)とが編集されてゐる。開巻第一頁に

  われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子

といふ短歌が載せてあるが、おそらくそれが鉄幹の全風貌を表象した代表作と見るべきであらう。この歌の上三句は、自ら「虎の鉄幹」と称し、天下の豪傑を以つて任じた彼の一面を表現し、下二句はこれに対蹠として、詩に悶え恋に狂ふ藝術至上主義者としての彼の姿を、自画像として全面的に表現してゐる。かうした矛盾の両面をもつた詩人は、西洋にバイロン卿があり、日本に大伴家持等の万葉歌人がある。一代の遊蕩児であり、恋愛から恋愛を追つて、「ドン・ファン」を書いた恋愛詩人のバイロンは、一方で剣を抜いて慷慨悲憤し、自由と正義を絶叫したところの英雄詩人であつた。大伴家持等の奈良朝歌人も、同じくまた情熱的な恋愛歌を歌ひながら、一方で「大君の辺にこそ死なめ」の軍歌を作り、大和魂の武勇を発揚した詩人であつた。畢竟リリシズム(抒情詩精神)とエピシズム (英雄詩精神)とは、本質に於て同一なものであり、同じ詩精神の両面的な現れに過ぎないのである。故に原則として、善き恋愛詩の詩人は、必ず善き悲壮詩の詩人であり、第一流の抒情詩人は同時にまた第一流の叙事詩人たるべき筈である。日本武尊や雄略天皇もさうであつたし、ゲーテやハイネ等の詩人もさうであつた。然るに後世の日本で、この原則が不適切に思惟されるやうになつたのは、徳川氏の儒教教育が、恋愛を排撃して武士道の外に隔離処分をした為であつた。儒教以前の日本は、西洋の騎士道と同じく、恋愛と武勇とが楯の両面であり、恋に強いものが戦場にも強いといふことが、原則的に思惟されてゐた。
 本居宣長等によつて、王朝復古のルネサンスをされた明治維新は、かかる江戸時代の儒教思潮を一掃して、上古王朝時代の国粋思潮に復帰し、純粋な大和心に生きかへることの主張であつた。そしてこの主張は、たまたま偶然に西洋の文化思潮と符節するところが多かつたので、此処に初めて与謝野鉄幹が、時代の新しいリーダーとして、その颯爽たる風貌を現して来た。一面に政治書生風な気質を持ち、烈々たる憤慨壮士の風格を具へながら、一面にはその国文学的教養と、これに加ふるに西欧浪漫思潮の影響を受けた鉄幹は、期せずして抒情詩人と英雄詩人を一身に兼ね、明治の精神をルネサンスすべき使命を帯びてた。
 かうした鉄幹の大精神は、その多くの詩篇中の到る所によく現れてゐるが、特に長篇慷慨詩「日本を去る歌」の一節中で、最も露骨に演説されてる。

神よこの国の詩人を頼み給ふ勿れ
彼等はすべて戯作者の子なり
狭斜を為して文筆となすに
藝術の高きを望むべきや
われ彼等の為めに祝はん
柔和なる詩人
女子の如き詩人
幸なる哉わが父祖の国は
卿等によつて平和なり

 此処に罵倒してゐる「詩人」とは、思ふに硯友社一派の小説家を指したのであらう。「狭斜を為して文学となすに、藝術の高きを望むべきや。」といふ鉄幹の精神は明らかである。彼が求めた詩精神は、王朝以来久しく日本に廃滅してゐたところの、高邁崇高の貴族的精神だつた。江戸時代の戯作者的な卑俗文学は、鉄幹の最も憎み嫌ふところであつた。しかも当時の明治社会は、事実上に江戸文化の伝統を継承して居た。そして此処に鉄幹の戦ひがあり、雑誌「明星」の啓蒙運動が意義を持つてた。俗説は「明星」の文学運動を評して星と菫の少女的感傷主義のやうに誤解してゐる。だが鉄幹が星と菫を歌ひ、恋愛至上主義を称へた時は、当時の社会常識と封建的な衆愚に対して、憤然戦を挑んで立ち上つた時なのであり、その星と菫の抒情詩にこそ、すべての反時代的なる啓蒙思潮のエスプリと、先覚者の悲壮な決意が語られて居たのである。
 「日本を去る歌」は次のやうな冒頭の詩句で始まつてゐる。

ああわが国日本
ああわが父祖の国日本
東太平洋の緑をのぞんで
白き被衣(かつぎ)の女富士立てり
観望して低徊す
山なんぞ麗しき
水なんぞ明媚なる
ああわれ去るに忍びんや

ああわが国日本
ああわが父祖の国日本
日蓮を生みし国
秀吉を生みし国
わが渇仰の古き友業平の住みし国
ここに十九世紀の末
誤つて詩人われ鉄幹を生みし国
ああわれ去るに忍びんや

父祖の国の自然はわれを優遇し慰藉す
父祖の国の歴史はわれを発憤敬慕せしむ
然れども父祖の国は汚れたり
われ遂に居るべからず

詩人の行動は天馬空を行く
不道徳や無頼や風俗壊乱や
悪語しきりに祖父の国に誤らる
ああ人間の縄を以てわれに強ふるか
迫害の時代に抗するは愚なり
われ遂に居るべからず

 かうした彼の詩語は、修辞的に評して粗放のそしりを免かれない。その上誇張にすぎるゼスチュアが多く、調子の激越な割合には、内容の空虚を感じさせる。だがかうした文学を、少年感傷の文学として笑殺するものは、単に明治の詩精神を知らないばかりでなく、志士の文学を理解し得ない俗物である。「詩」は「志」であり、詩は志を叙べるものだといふ定義は、当今流行の軽薄詩人やタダゴト歌人の連中には、生涯かかつて理解し得ない謎であらう。明治以来の文壇で、真にその高邁な「志」を叙べた詩人は、エツセイストとしての美術家岡倉天心以外には、まことに蓼々たるものであつた。
 「日本を去る歌」は、心に激するところありて作るといふ前書が附いてるが、その激するところの所以が何であるかは、この詩の第四聯がよく説明してゐる。およそ明治の文壇に於て、鉄幹ほど一世を風靡した詩人はないが、彼ほどまた多くの敵を持つた詩人もなかつた。正岡子規の主宰する「ホトトギス」、金子薫園等のよる「新声」等は、正面から「明星」の敵国となつた雑誌であるが、さうした藝術上の争闘以外に、鉄幹は尚多くの社会的の敵を持つてた。その最も甚だしいものは、特に「文壇照魔鏡」といふ本を出版し、鉄幹の私行をあばいて人身攻撃をした者さへある。一匿名子によつて書かれたこの怪出版物は、全然藝術とは関係がなく、中傷の目的による人身攻撃を主としたもので、姦淫、強姦、詐欺、横領、涜職等のあらゆる法律的罪名によつて、鉄幹を破廉恥漢として誣告してゐる。もちろんその大部分の記事は、事実無根の中傷であつたが、この書の世に広く普遍した結果は、一時鉄幹をして四面楚歌の悲境に陥入れた。
 しかし一文壇人を誹謗するために、特に一冊の単行本が出版され、それが江湖に広く普遍したといふ事実を考へる時、当時の文壇に於ける鉄幹の名声と勢力とが、いかに絶対的のものであつたかを想像できる。今日の文壇に於て、これほどの絶対勢望をもつてる文人は、おそらく菊池寛氏一人位であらう。そして明治文壇に於ける鉄幹の地位が、正しく今日の菊池氏以上であつた。しかも菊池氏とはちがつて、何等の資本的財源もなくパトロンもなく、僅かに同人社友の社費によつて生活してゐた赤貧の一詩人が、文壇の大御所として天下に号令してゐたことを考へる時、うたた今昔の社会的変移を感慨せずに居られない。そして尚もつと痛切に、今日に於ける詩人の文壇的、社会的地位の失落を歎かずに居られない。
 「詩人の行動は天馬空を行く」「ああ人間の縄を以て我に強ふるか」と傲語する如き鉄幹が、本来その倨傲性の故に、多くの敵を持つたことは当然であつた。彼は天質的の闘士であり、生れながらの挑戦者であつた。しかし彼の争闘は、無益に血を好むための業ではなかつた。鉄幹の戦つたことは、実に明治の新しい知性と感性とが、旧時代に対して啓蒙し挑戦しなければならないことの戦ひだつた。「文壇照魔鏡」が描いた鉄幹の悪魔像は、それ自ら旧時代の封建思想が、新時代のモラルに対する悪意ある批判であつた。その糟糠の妻を離別して、自由恋愛による愛人と結婚した鉄幹は、当時の社会常識から姦通者と見なされ、非倫の破廉恥漢として告発された。そして旧道徳の因襲に抗戦し、恋愛至上主義を称へて公然白昼を横行した彼の姿は、恋愛を尚「野合」の名で呼んでゐた当時の社会人から、不道徳の無頼漢としか映じなかつた。あたかも当時、その裸体画の挿画の故に、発売禁止処分をうけた雑誌「明星」や、物議を招いた鳳晶子の「みだれ髪」の歌やと関聯して、世人の冷嘲は彼を「風俗壊乱の詩人」と呼んだ。「不道徳や無頼や風俗壊乱や、悪語しきりに祖父の国に誤らる」と憤慨した詩人の心情を考へるとき、時代に抗争した先駆者の苦戦を考へ、うたた悲壮の感に耐へないのである。しかしその「迫害の時代」に抗して、真に勇敢に争闘したものは、鉄幹の弟子にして愛人であり、後にその妻となつたところの鳳晶子であつた。だがそれは後に叙べよう。「日本を去る歌」 の慷慨詩は、尚その激越の調べを続けてゐる。

弱きを扶けて義のある所火を踏むは
市井の無頼長兵衛も知りたり
二十七八年の役
何んが故に父祖の子孫を殺して
高麗半島の山河
空しく北夷の蹂躙に委したる

われこれを概して閔泳駿を擁し
微力聊か本国を警めんとす
何事ぞ偵吏われを迫害して
治安妨害の名の下
三十一年の春南大門の雪の夕
ああ遺恨なりやわれ女装して
ひとり京城を去らざるを得ざりき

天津を落せしは誰ぞ
北京を落せしは誰ぞ
兵を用ゐる祖父秀吉を辱めず
しかもワ元帥は何の国の人ぞ
ああ他人のために嫁衣を縫ふもの
われ二十世紀の日本に見たり

 政治書生としての鉄幹は、此処に至つてその壮士的な全風貌を暴露してゐる。当時根岸派の一歌人は、この詩を嘲笑して「壮士芝居のセリフ」と言つたが、その誇張にすぎるゼスチユアから、たしかに多少その感もあるかも知れない。しかし当時政治熱の最も旺盛だつた明治時代にさへ、かうした憂国の志節を叙べた詩人は、殆んど一人も無かつたことを考へる時、やはり日本詩壇に於ける、鉄幹の特殊的な地位と気概を考へずに居られない。藤村にしろ透谷にしろ、はたまた酔茗、夜雨、清白等の詩人にしろ、すべて当時の詩人のイデーしてゐたことは、世の俗塵を離れて孤高に歌ひ、清教徒の如く田園に悠遊したり、西行の如く山野に隠遁したりすることであつた。彼等は旧時代の封建的大衆を軽蔑したが、あへてこれに挑戦するやうな意志はなく、むしろ自ら避けて清節を持さうとした。透谷や藤村の如きも、基督教的の清教思想でプラトニツク恋愛を讃美したが、それによつて社会の旧道徳と争ひ、恋愛を不倫視する封建思潮の因襲に対し、敢然として抗議を提出するやうなことはなかつた。一言で言へば、彼等の詩人はその西欧思潮の美しい夢の中で、独り自慰的にイメーヂを楽しんでる隠遁者の群であつた。
 かうした詩人群の中にあつて、ひとり鉄幹だけが勇敢な闘士であり、現実の社会と俗物に対して、よく詩人の戦ひを闘ひぬいた。当時の多くの詩人中にあつて、鉄幹だけが俗社会に誹謗者と敵を持つてたのも、また彼が最もよく大衆的に物議されたのもこの故だつた。彼は「清節を持する」といふやうな柄の詩人ではなく、むしろ俗塵を浴びて衆愚と戦ひ、時に政策を弄して一世を指導するといふやうな、多分に俗臭を帯びたジヤーナリストの詩人であつた。かかる詩人の任務は、今日昭和の文壇に於ては、菊池寛氏等の小説家に株を奪はれてしまつたけれども、本来言へば文化の指導は、イデアリストとして詩人が為すべき任務であつて、レアリストの小説家に委すべき仕事ではない。鉄幹の如き巨大の社会詩人が、今日の日本の如く要求されてる時代はないのであらう。
 すべての偉大なるジヤーナリストは、素質的に皆一種の政治家であり、政治家的タイブの人物である。文壇のジヤーナリストであつた鉄幹が、気質的に政治書生であつたことも当然だし、「日本を去る歌」の如き政治慷慨詩を作つたのも自然だつた。しかしこの詩の内容は、公平に批評して少しく空疏な常識的慷慨に類してゐる。初めの一聯は、日清戦争後に於ける露西亜の南下が、朝鮮の独立を脅かすことを憂へて、日本の政策を義憤したものであらうが、いささか街上壮士の煽情演説に類してゐる。当時かうした煽情演説家等は、しきりに日露開戦説を称へて、政府の軟弱外交を非難したが、一世の指導者を以て任ずる詩人が、かかる俗論に共鳴して容易に昂奮する如きは、少しくインテリゲンチユアとしての聡明を快くやうに思はれる。
 第二聯に至つて、鉄幹がすつかり舞台上の国士になつてる。だが「閔泳駿を擁し」たり、刺客に迫はれ「女装して京城を去らざるを得ざりき」などいふのは、詩人のロマンチツクの空想に浮んだ劇的の小説であつて、実際には何の根拠のなかつたことだと言はれてゐる。鉄幹といふ詩人は、かうした劇的の空想に異常な情熱をもつた男で、しばしば現実の彼自身を、空想が生んだ劇中の人物と錯覚した。フイリツビンの独立運動を助ける為に義人アギナルトの許に身を寄せるとか、南阿戦争に出征して、トランスバールの義勇軍に投ずるとかいふやうなことを、知友に向つて、不断に真実らしく語つてゐたらしい。彼が一部の人々から、山師、法螺吹、インチキ師等の悪名で呼ばれたのは、全くかうした性癖が崇つた為に外ならない。しかし詩といふ文学は、本来夢を夢みる空想の文学であり、詩人といふ人種は、生れながらに空想を食餌としてゐる天質的のロマンチストである。鉄幹が法螺吹といふ悪名で呼ばれたことは、実には却つて彼が天質の詩人たることを証左するものに外ならない。かうした鉄幹の遺伝気質を、やや新しい次代に継承した若き詩人は、彼の未ツ子ともいふべき孫弟子の石川殊木であつた。ナポレオンの胸像を机上に飾り、自らコルシカの英雄を以て任じてゐたと言はれる啄木は、気質的には鉄幹の直弟子であり、夢と現実の識別がなく、空想を真実と錯覚して、常に友人等に嘘言を語り、途には師の晶子にすら、「石川さんの駄法螺」といふイデオムを以つて呼ばれるやうになつたといふ。嘘言は常識上の倫理では悪であるが、藝術上のモラルでは必ずしも悪でないのだ。
 第三連は北清事変の時、独逸のワルデツク元帥の指揮の下に、英仏独伊の聯合軍と協同して、日本軍が行動したことに対する義憤であらうが、これもまた詰らない義憤であり、やはり当時の俗論に共鳴した慷慨悲憤の安売である。しかし今日の詩人等には、かうした往時の鉄幹を笑ふ資格がない。かつて欧州大戦の時、英米の対独宣伝にアヂられて民主主義が流行した頃、輿論の浪に乗つて文藝上のデモクラシイを称へたり、商業主義のジヤーナリストに利用されて、マルクスの共産主義が栄えた時、無批判に雷同して闘士を気取つた連中は、その軽桃さと不見識なことに於て、むしろ往時の志士鉄幹から、逆に指弾されるかも知れないのである。
 要するに鉄幹は、思想人として単純素朴にすぎるのである。その為かうした政治詩や、「天地玄黄」等にある思想的の詩が、概ね単なる身振狂言に類する如き、空疏大の貧しい感銘をあたへるのである。彼は徹底的に「情熱の詩人」であつて、冷徹なる知性の所有者ではなかつた。それ故彼の藝術的身上は、思想や観念を必要としないところの、純粋の恋愛抒情詩にあつた。それらの恋愛抒情詩は、島崎藤村等のそれと大いに風韻を異にして居り、正に明治詩壇の光芒ある一異彩であつた。次に引例するのは、「春思」と題する詩の前年節である。

  山の湯の気薫じて
  欄干(おばしま)に椿おつる頻り
  帳(とばり)あげよ
  いづこぞ鶯のこゑ

  木の実の酒紫に
  うくる手わななくか
  さるは盃にロふれて
  酔ふ子の智慧問ふな

  粧(よそほひ)羞づる朝の星の
  それが眼眸(まなざし)たゆげに
  見てさし俯くに
  涙そぞろなり

  恋とや君
  なさけ人に堕ちむ
  理想とや君
  ことわり地を離る

  われ思ふ酒の甘きは
  哲人もうべなはむ
  許せもゆる手まきて
  ただ没我(わかれ)の二人

  また何をかへりみむ
  世の末に聖ありや
  かの鞭をあげて罵る
  みな栴陀羅の子等

  如かずわれを知る子に
  われを知る子の胸に
  わが痩せし額(ぬか)まかせて
  わが破格の歌誦せむ

 山の温泉に、愛人と旅行した時の作であらう。春の日の陽光の中に、椿の花が落ちる温泉宿の春画を叙しながら、内部には烈しい悲痛の情緒が歌はれてゐる。「世の末に聖ありや、かの鞭をあげて罵る、みな栴陀羅の子等」と、此処でもまた鉄幹は、腕をまくつて憤慨悲憤し、恋の甘酒に陶酔しながら、なほ且つ闘士としての本領を忘れてゐない。「醒めては握る天下の権、酔うては枕す美人の膝」といふ、当時の政治書生の理想は、おそらくこの詩人の気魄の中で、西欧浪漫思潮の色に彩られて変貌しながらも、依然として血脈してゐたにちがひない。明治浪漫派時代の当時の詩人は、文学界の一派を初めとして、多く皆キリスト教の影響を受け、洋学の素養によつて育つた中に、独り国文学者の門を出た鉄幹は、素質的に漢学流の壮士気風を体質してゐた。しかしかうした恋愛詩になると、さすがに漢学壮士風の大言壮語はなく、その慷慨の悲調さへも、恋の切実な情緒や体験の中に融けてるために、却つて詩のリリシズムに弾力ある魅力を加へ、藤村等の単調優美な恋愛詩に比し、むしろ曲折に富んだ内奥的の美を感じさせる。「風蕭々として易水塞し、壮士一度去つてまた帰らず」といふやうな、漢詩独特の悲壮なエスプリが、鉄幹に於て恋愛抒情の中に取り込まれ、星と董の感傷的な情緒の蔭で、新しい西欧詩風な変貌を示したことは、明治新体詩史上に於て充分特筆すべきことでなければならぬ。かうした鉄幹の秋風悲壮調は、次の詩に於て最も完璧に現れてゐる。

    残照

  そぞろなりや
  そぞろなりや
  夕(ゆふべ)髪みだる
  地に霜あり
  常住も何んの夢ぞ
  人堪へんや
  花堪へんや

  鳴呼わりなし
  水さびしげに竹をめぐり
  痛手負ふ子に似て
  独り秋を去なんとす

  山蓼の茎あらはに
  黄ばむ日戸に弱し
  人しのばざらんや
  西の京の山。

 この詩は短篇であるが、鉄幹の作中で最も完璧したものである。しかし彼の詩のユニイクな魅力は、むしろ次の如き濃艶の恋愛詩にある。

   山蓼

  理想の御親(みおや)力なきに
  若き同胞(はらから)倦んじぬ。
  夕べ二妹(ふたり)の弱手(やはて)とりて
  西の山に宿る。

  笑みて欄に倚るも
  姉の髪みだれたり
  雲も憂し
  水も憂し
  いづれは行く秋
  涙伏せずや。

  ちひさき人よ
  御手ゆるせ
  悶えに
  狂ひに
  一夜泣かむ。

  げに夢ぞ
  げに幻ぞ
  高かりし
  清かりし
  美しかりし
  脆かりし。

  ああ今知る
  人の子を憎んで
  何んの罪ぞ
  鞭加ふる者
  魔にあらず人なり。

  芙蓉なまじひに萌ゆる知らず
  地に天(あめ)の香恋ひずは
  霜に堪へて
  秋恨みじを
  のがれんや
  鳴呼わりなし
  秀でしもの
  世は皆もろき。

  何んの才(さい)ぞ
  冷き形骸(むくろ)抱いて
  夕ほこりかに
  酒の香を吹く
  生命なし
  恋あらんや
  歌あらんや。

  さらば君
  ちひさき人
  うつくしき人
  飽かなくに
  相別れん
  白き芙蓉の心のみは
  兄と姉の手の上
  とこしへ放たじ
  とこしへ忘るな。

  小霧に山踏みて
  別れにひく山蓼
  茎くれなゐに
  鳴呼何んの恨ぞ。
  想へ理想の袖寒く
  われら毒を仰ぐ夕べ
  生血(いきち)この色流れむ。


 「夕べ二妹(ふたり)の弱手(やはて)とりて、西の山に宿る。」といふ二妹(ふたり)は、当時鉄幹門下の二才媛と呼ばれた、鳳晶子と山川登美子の二女であらう。この二人の女性は、互にその藝術上の才能を争つたばかりでなく、師の鉄幹に対する恋を争つたとも言はれてゐる。とにかくかうした愛人の二女をつれて、京都近郊に旅行した時の作であらう。
 この詩は前の「春思」に此して、一層切実にして悲痛な情緒が脈を打つてる。それはかうした鉄幹等の行為に対する世間の非難攻撃が、いよいよ熾烈になつて来たことを証左してゐる。「ああ今知る。人の子を憎んで、何の罪ぞ。鞭加ふるもの、魔に非ず人なり。」といふ詠歌を見ても、いかに当時の世間が、鉄幹や晶子等の自由恋愛に対して、きびしい道学的非難を加へたかといふことが解る。詩の最後の連に於て「鳴呼何んの恨ぞ。

想へ理想の袖寒く、われら毒を仰ぐ夕ぺ、生血この色流れむ。」と結んでるのは、おそらく最後の手段として、自殺か情死を決心するまでに追ひつめられたところの、悲しい若人等の心境を語つてゐる。かかる絶望的な心境は、詩の全篇を通じてリズムしてゐるところの、悲風蕭々たる語句の調べに現はれてるが、特に末章に近く「何んの才ぞ、冷き形骸抱いて、夕ほこりかに、酒の香を吹く、生命なし、恋あらんや、歌あらんや。」に至つて、自暴自棄の厭世的絶望に達してゐる。あくまで人生を享楽し、青春の楽しみを恣ままにしようとしてゐる彼等にとつて、遂に死を考へることは不可能だつた。
 「理想の御親力なきに」とか「想へ理想の袖寒く」とか、鉄幹の詩には「理想」といふ言葉が到るところに、しかも特に意味ありげなセスチユアを以て語られるが、かうした言葉は当時の新流行であつて、星菫派の詩歌人等が、好んでそのダンヂイズムにしたものであつた。鉄幹の有名な短歌に、

 そや理想こや運命の別れ路に白き菫をあはれと泣く身

といふのがある。これは当時難解の歌と許されたものであるが、今日でもやはり難解といふ批評は免れがたい。しかしこの「白き菫」といふ言葉が、崇高で純潔なプラトニツク恋愛を象徴してゐることに気が附いたら、一首の歌の意味するところが解るであらう。即ち大体の歌意は、純潔な恋愛による理想の結婚が出来ないので、心ならずも運命の意に従ひ、不本意の結婚をせねばならないといふ意味であらう。「理想の御親力なきに、若き同胞倦んじぬ」といふ冒頭の詩句も、やはりこの歌と同じく、世の中が理想通りにならないといふことの詠歌を、明星詩風のダンヂイズムで歌つたのである。
 最後に次に掲げる詩は、おそらく鉄幹の抒情詩中で、唯一の圧巻ともいふべき傑作である。

  敗荷

  夕べ不忍の池ゆく
  涙おちざらむや
  蓮折れて月うすき。

  長亭酒寒し
  似ず住の江のあづまや
  夢とこしへ甘きに。

  とこしへと言ふか
  わづかひと秋
  花もろかりし
  人もろかりし。

  おばしまに倚りて
  君伏目がちに
  鳴呼何とかいひし
  蓮に書ける歌。

 前の「残照」と共に、死んだ愛人に対する追懐の詩であるが、「敗荷」といふ題が示すやうに、逝きて返らぬ日への追懐と、永久に失はれた恋への傷心とが、落魄蕭条とした敗残者の心境で歌はれてゐる。「夕べ不忍の池ゆく、涙おちざらむや、蓮折れて月うすき。」といふ冒頭から既に悲調であり、敗荷に晩秋の夕陽が落ちかかつてゐる、上野不忍池畔の景情をよく尽してゐる。「長亭酒寒し」の長亭は、不忍池弁天堂の境内にある旗亭で、今は名が変つて別の屋号になつてるけれども、昔ながらの池に面して、欄干の周囲が蓮の実に囲まれてゐる。詩の第四連で再度此処を点出し、「おばしまに倚りて、君伏目がちに、鳴呼何とかいひし、蓮に書ける歌。」と結んだのは、過去にその京都の愛人と、同じ旗亭で恋を語つたことがあるのだらう。その追憶の旗亭に来て、敗荷に落つる夕陽を眺めながら、ひとり寒い酒を飲んでる詩人の心境を、落魄たる敗残者の悲調で歌つてるこの詩の如きは、けだし鉄幹詩中の一傑作であるばかりでなく、明治新体詩中に於ても異例に秀れた恋愛詩の絶唱であらう。定評される如く、藤村は明治恋愛詩人の第一人者であるけれども、その恋愛リリシズムの本質となしてるものは、旅愁に似た淡い漂泊者の愁ひであつて、かうした鉄幹の詩に見る如き、断腸裂帛の悲調を帯びた恋愛詩とは、本質的に全く異つたものであることを知らねばならぬ。


  3

 しかし前に述べたやうに、鉄幹は純粋の意味の詩人ではない。彼は「事業家」と「藝術家」とを兼ねたところの、時代の指揮者的位置に立つたジヤーナリストであつた。詩人としての鉄幹、藝術家としての鉄幹は、要するに「未完成のもの」に過ぎなかつた。彼の藝術精神を継承して、その未完成を完成に仕上げたものは、実に彼の愛人であり、同時にその出藍の弟子であつた鳳晶子であつた。晶子の鉄幹に於ける関係は、プラトンのソクラテスに於ける如きものであつた。師において萌芽されたすべてのものは、晶子によつて完全に継承承され、培養され、組織づけられ、そして立派な藝術品として開花した。街上の説教者であつたソクラテスと、純粋の学究的哲学者であつたプラトンとが、その人間的素質を異にした如く、晶子と鉄幹の師弟もまた、本来その人物の天性を異にしてゐた。街上の事業家でもなく、ジヤーナリストでもなかつた晶子は、純粋の藝術家として、遙かに師の鉄幹に優つてゐた。のみならず彼は、性格上の気質に於ても、遙かに鉄幹よりも強者であつた。
 自ら「虎の鉄幹」と号し、日蓮、秀吉の英雄に擬して得意でゐた鉄幹は、その見かけのポーズの豪放にも似ず、実には甚だ小心翼々たる神経質の男であり、極めて弱い性格の所有者であつた。彼が常に大言壮語し、根拠のない法螺を吹いてゐたといふことも、つまりは性格の弱さを裏書きすることに外ならない。(嘘つきの人間は、原則として、性格の弱い意志薄弱者である。)さうした性格の弱さは、前掲した彼の詩によく現れてる。「残照」「敗荷」「山蓼」の如き、何れも皆敗北者の寂しい哀傷歌(エレヂイ)である。「日本を去る歌」の如きも、語気やゼスチユアの豪壮にも似ず、内容は意外に線が弱く、非力な劣敗者の空威張りを感じさせる。「そや理想こや運命の別れ路に白き菫をあはれと泣く身」のやうな歌も、やはり敗北者の女々しい感傷にすぎない。西欧浪漫思想の影響を受け、夢のやうな新時代の理想にあこがれながら、現実的には尚封建的因襲の濃厚だつた当時の日本に生活し、理想と現実の衝突する矛盾から、絶えず悩み苦しんでゐた明治の進歩的な青年少女が、かうした歌によつて、いかに情緒を掻きむしられ、強い実感の衝動を受けたかといふ事は想像できる。(それ故にこそかうした歌が、当時人口に膾炙したのである。)だがその時代の苦悶は、鉄幹によつて歌はれる限り、所詮「あはれと泣く身」の感傷に終つてしまふ。社会的には事業家であり、勇敢な闘士であつた鉄幹も、藝術上には遂にセンチメンタリストの域を脱しなかつた。
 かかる鉄幹の戦を継承し、その敗北を勝利の光栄に導いたものは、実に愛弟子の晶子であつた。彼の歌集「みだれ髪」一巻は、実にこの光栄の日を記念するために出版された。

  和肌の熟き血潮にふれもせで寂しからずや道を説く君
  春みじかし何に不滅の命ぞと力ある乳を手に握らせぬ

 これはもはや感傷ではない。詠歎でもなく自嘲でもない。因襲の道徳と俗見とに対して、果敢に投げつけた決闘の挑戦状である。当時尚、恋愛を野合視し、自由結婚を姦通視してゐた社会に於て、かくも大胆に性の解放を歌つた晶子は、当時の進歩的な青年を代表して、旧時代の俗見と道学者とに対し、明らかに挑戦を意識してゐたのである。西欧十九世紀末に於て、ニイチエが掲げた「俗物への挑戦」や「道徳への叛逆」が、明治中期の日本に於て、いみじくもうら若い妙齢の少女の口から、偶然にも反誦されたといふわけだつた。見よ「春みじかし」の歌が、いかに凛然たる壮烈の語調によつて、闘争への激しい気概を語つて居るかを。
 果然、反響は四方に起つた。俗衆は驚き、道学者は怒り、官憲は眼を光らし、国粋会の壮士等は腕をまくつて憤慨した。「不道徳や無頼や風俗壊乱や、悪語しきりに祖父の国に誤らる。」と鉄幹が歌つた如く、社会は轟然として反撃し、彼等明星派の詩人を呼ぶに、猥漢、無頼、風俗壊乱者の名を以てし、その結社新詩社は、一時伏魔殿の如くに風説された。しかも恋の勝利に酔つた青春の少女にとつては、天下に恐るべき何物も存在しなかつた。彼女は尚昂然として歌ひ続けた。

  乳房おさへ神秘の扉そと開けぬここなる花の紅ぞ濃き
  夜の帳にささめき尽きし星の今を下界の人の鬢のほつれよ
  臙脂色は誰に語らむ血のゆらぎ春の思ひの盛りの命
  さは言へど君が昨日の恋語り左枕の切なき夜半よ
  忍び足に君を追ひ行く薄月夜右手の袂の文がら重き

 乳房押へて神秘の戸を開け、初めて人生の快楽を知つた晶子は、もはや昨日のやうな処女ではなかつた。性に目醒めた青春の情熱は、春の出水の如く奔放に汪溢して、誰れはばかる所もなく、大胆に恋の勝利を歌ひつづけた。

  枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢  (和泉式部)

と、かつて王朝文化華やかなりし頃、十一世紀の日本で和泉式部が歌つた恋の頌歌は、明治過渡期の日本に於て、いみじくもまた鳳晶子によつて反誦された。しかしこの新人の反誦は、平安歌人の和泉式部が、几帳を垂れた閏房の蔭で低吟したものとは質がちがふ。況んや素朴自然な奈良朝歌人が、「朝寝髪われは櫛らじ美しき君が手枕ふれてしものを」と詠んだ心境とも、大いに趣きが変つて居る。明治は奈良朝でもなく平安でもない。さうした美しい王朝文化は既に亡びて、徳川の武家政治が長く伝統した儒教の思潮が、文明開化の表皮の下に低流して、大衆の社会的情操となつて居た時代である。かかる時代にかかる詩歌を歌ふことは、それ自ら常識への叛逆を意味してゐる。晶子が「みだれ髪」に歌つたのは、濃艶な恋歌の蔭に、鋭い利剣を匿してゐるところの、烈しい戦闘精神の軍歌であつた。まことに彼女は、その肉体と藝術とを一団とし、身を以つて時代の俗衆と道徳に抗戦した女丈夫だつた。そしてこの同じ戦闘こそは、早く既に師の鉄幹によつて布告され、しかも鉄幹の打ち勝ち得なかつた戦争だつた。それ故にこそ、初めて晶子を得た日の鉄幹が、

  恋といふも未だつくさず人と我と新しくしぬ日の本の歌

と高吟したのも当然である。彼等二人の詩人が新しくしたものは、単に日本の歌ばかりではない。もつと広い範囲の文藝一般であり、そして実にまた、日本の社会思潮そのものだつた。後の「スバル」が指導した耽美主義も、性慾暴露の自然主義も、はたまた日本の新女性運動も、すぺて彼等夫妻の先駆した文化革命に母源してゐたことを知らねばならない。
 かうした晶子の熾烈な精神は、遂に有名な長詩「君死に給ふこと勿れ」を創作した。日露戦争の時、旅順港の戦に出征した弟に与へて、無事の凱旋を析つたこの一篇の詩は、前の「みだれ髪」にもまして物議を招き、世評の糺弾するところとなつた。特に評論家大町桂月の如きは、これによつて晶子を国賊と罵り、非国民として糺弾した。しかしかうした世の批評は、本来、詩の精神を正しく理解しなかつたことの蒙に基する。戦地にある出征の肉親に対して、その無事安泰を所るのは、すべての人情に通ずる自然事にすぎない。口には「死んで帰れ」とはげました父親も、心ではやはりその子供の無事を析つてゐるにちがひないのだ。「君死に給ふこと勿れ」の詩想は、明治初期の女流詩人、大塚楠緒子が書いた「お百度詣り」の新体詩と、殆んど同巧異曲のものに過ぎないのだ。ただ少し両者の異なるところは、後者の新体詩が純然たる人情であるに反して、晶子のそれには人情以外、別の文化的な争闘意識が、可成熾烈に内在してゐる点であつた。そしてこの点の争闘意識が、大町桂月等をして、晶子を国賊呼ばはりさせる誤解の原因となつたのである。
 「君死に給ふこと勿れ」の詩で、作者が掲げた争闘意識は何だらうか。それは勿論、非戦論的なものでもなく、況んや非国民的のものでもない。明白に言ふと、それは「みだれ髪」以来一貫した晶子の文学運動の継続だつた。即ち因襲打破を目標とする大衆への啓蒙であり、封建的思想への抗戦であり、併せて新時代の進歩思想家である青年等を、その自覚したインテリゲンチユアの位置に於て、俗衆の輿論と迫害から守り戦はうとしたものであつた。その点に於て晶子の詩は、板垣退助等の叫んだ自由民権党の政治運動と、表面やや類似した共通点がないでもない。明治初年の開明期に於て、板垣等の指導した自由民権党の政治運動は、ルツソオの民約論を直訳し、仏蘭西革命を標題したものの如く見えたけれども、実質的には決してそんなものではなく、単に国会の開催を要求し、日本をして真の近代的文明国たらしめるべく、民衆の輿論による立憲政体を熱望したものにすぎなかつた。つまり言へば彼等の運動は、新しい時代に於ける進歩主義者の位置を、インテリゲンチユアの自誇に於て高唱したものに外ならなかつた。晶子の詩の場合がこれと同じく、大衆への啓蒙意識から、言葉がやや過激に過ぎる箇所もあつたが、実に内容してゐるところの詩精神は、何等政治的のものでなくして、純に文化意識的のものであり、新時代の独立とインテリゼンスを、旧時代の俗論と圧迫とから、果敢に守り戦はうとした意志であつた。
 かうした健気なる晶子の意志は、実に「明治の精神」そのものを代表してゐた。そしてこの「明治の精神」は、今日昭和の日本に於ても、未だ尚その戦ひを終了しては居ないのである。現にこの国の文学者とインテリゲンチユアとは、今日尚未解決のままに於て、この同じ戦ひを戦ひ続けてゐるのである。しかも戦線は益々拡大し、暗澹として前途に戦況の見別けもつかない。現に僕等の如き一兵卒さへ、砂塵にまみれて懐疑の中に呻吟し、往年の英雄、鉄幹晶子の颯爽たる雄姿を遠望しながらも、自ら既に彼等の攻撃精神を失喪してゐる始末である。鳴呼われら何処に行かん! この非力を自覚した寂しい日に、あへて往年の英雄与謝野鉄幹を追憶し、天才詩人与謝野晶子を渇仰することほど、今日の時代に楽しく力強いことはないであらう。