太平洋行進曲論
       音楽上より見たる文化論

 先に「愛国行進曲」を宣伝した当局者は、今度また「太平洋行進曲」を宣伝して、国民精神総動員の音楽化に努めてゐる。先の愛国行進曲は大成功であり、日本の津々浦々にまで普遍して歌はれるやうになつたが、今度の太平洋行進曲は、すくなくともこの曲が、かつての「露営の歌」や「愛国行進曲」などのやうに、町の小僧や女給たちにまで、流行歌として愛吟されることの可能は信じられない。といふわけは、今度の行進曲の旋律そのものが、日本人の民族的情緒にぴつたり触れてないからである。従来日本で大衆に愛唱された軍歌や行進曲といふものは、すべてその旋律中に、日本音楽の伝統的なモチーヴや感性を取り入れた者のみである。例へば「愛国行進曲」や「露営の歌」がさうである。愛国行進曲が大衆にアツピールしたのは、実にあの抒情的なトリオの部分(ああ悠遠の神代より)の数小節がある為に外ならない。そしてこの数小節の旋律は、全く純日本音楽の雅楽調なのである。「露営の歌」に至つては、さらに一層純日本音楽的で、その哀傷にみちたセンチメンタルの旋律は、古来多くの日本音楽に伝統してゐるものの本質に外ならない。そしてまたその故にこそ、大衆の民族感性にアツピールし、一世の流行歌曲となつたのである。かつて日露戦争時代に流行し、兵士も民衆もひとしく好んで合唱した軍歌は、「赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下」といふ歌詞で知られてる「戦友の歌」であるが、これもまた「露営の歌」と同じく、民族性の哀傷を高調したセンチメンタルの曲であつた。
 日清戦争時代に流行した軍歌は、人のよく知る「雪の進軍」であつた。これは当時の陸軍軍楽隊長で、海軍の瀬戸口楽長と共に、日本軍楽隊の両明星と呼ばれた永井楽長の傑作であつたが、その行進曲の構成されてる旋律は、殆んど全部がシムコペーシヨンで出来てるのである。シムコぺ−シヨンはジヤズ音楽の特色と言はれてゐるが、ジヤズ渡来以前からして、それはまた日本音楽のユニイクな一特色であつた。特に江戸末期に流行した馬鹿囃子の旋律は、就中それの著るしいものであつた。そこで幕末から明治維新にかけて、仏蘭西式調練を学んだ幕府や官軍の軍隊は、仏蘭西軍楽の鼓笛を稽古しながら、その西洋横笛を太神楽化して、ジヤズ式シ
ムコぺ−シヨンの「官軍マーチ」や「日本マーチ」を創作した。近頃トーキイの映画等で僕等は、この所謂「官軍マーチ」をしばしば聴くが、その旋律の主調となつてるものは、全く日本音楽の馬鹿囃子である。その頃また、官軍の兵士が唄つたといふトコトンヤレ節(宮さん宮さん)も、同じやうにまたラグタイムのジヤズ音楽で、その主旋律は純然たる馬鹿囃子である。そして「雪の進軍」の旋律が、やはりその同系統のものだといふことは、音楽門外漢の素人が聴いてもすぐ解るのである。
 日本の産んだ世界的名行進曲と言はれる「軍艦マーチ」は、その同じ作者によつて作られた愛国行進曲と同じく、曲の旋律が著るしく日本的なところに特色がある。即ち軍艦マーチの旋律構成は、完全にして美しいシムコぺ−シヨンの流動律から出来上つてゐる。そしてしかもトリオの部分(海行かばの歌節)は、悠々たる太平の雅楽調で、この同じ作者が、愛国行進曲の一部に試みたのと同じ手法の作曲である。そしてまたこの故に、日本人の民族感性によくアツピールして、ひろく大衆に瀬戸口氏の曲が愛されるのである。
 かく考へて見ると、日本人にひろく愛唱され、大衆に普遍的な魅力をもつ音楽(此処では特に軍歌と行進曲について言ふのであるが、一般楽曲についても勿論同じであらう。)は、すくなくとも二つの編曲条件を持つ
ことが必要である。即ちその一条件は、曲の本質に日本的感性の哀傷感を盛るといふことであり、他の別の一条件は、楽曲の構成上に、ジヤズ風のシムコぺ−シヨンを用ゐるといふことである。この二つの条件要素は、その一方だけの場合でも成功するが、普通は両者が不可分的に融合して居る如く思はれる。つまり日本人向の歌謡楽曲といふものは、たとへ如何に勇壮活溌のものであつても、本質に於て何処か哀傷的のセンチメントを帯びたものなのである。これは「雪の進軍」もさうであるし、「軍艦マーチ」もさうである。といふわけは、本来ジヤズタイムの楽曲形式そのものが、東洋風の哀調を基本の感性に持つてゐるからで、逆に考へれば、音楽の形式そのものが、いつも内容を決定してゐるといふことになる。しかし唯心論的に考へれば、結局日本人の民族性そのものが、日本的の音楽を要求し、且つそれを創作するのに外ならない。故に前に述べた二つの条件といふ如きも、所詮は日本人の長い歴史に伝統されて、先祖以来我等の体質的感性となつてるところの、真の民族的情感に触れる音楽だけが、国民音楽としての普遍価値をもつといふ結論になるわけである。
 ところで今度の「太平洋行進曲」には、さうした肝心の第一条件が殆んど欠けてる。レコードやラヂオを聴いても、たしかに此の曲は勇壮であり、且つ歌詞が雄大で明朗でもある。その点に於て、まことに時局下にふさはしく、国民精神総動員といふ標語の「概念」に適切してゐる。だが藝術は概念でなく、民衆は概念によつて躍りはしない。民衆が求めるものは、いつでも自分たちの生活と音楽感性とによくタツチし、肉体的に理窟なくアツピールするものなのだ。初めてこの曲のレコードを添いた子供が、救世軍の軍歌みたいだと評した言葉は、或る意味でよくその音楽的印象を言ひ当ててゐる。つまりその子供の意味することは、曲そのものの本質が、日本人の民族的音楽感性と没交渉で、大衆にアツピールするものがなく、単に無内容な勇壮さや豪健さを強調することから、空虚な埃つぽい感じをあたへるといふことなのだ。おそらくこの原因は、作曲者が、初めから一つの概念−国民精神総動員といふ概念−によつて召集され、且つその概念の指令によつて、創作したことに帰するであらう。たとへ外見上は同じに見えても、瀬戸口氏の 「愛国行進曲」などはわけがちがふ。この後者の場合には、帝国海軍の一老楽師が、時局に臨んで感激し、真の純粋な創作感興から、真の藝術意識で作曲したものであることは、その曲に高調されてゐる個性の強さによつても解るのである。そして日本人が個性を高調する時には、必ず避けがたく、そこに日本的なもの、日本民族的なる伝統の感性が現はれて来るのである。
 勇壮快活のもの、明朗豪健のもの、雄大荘重のものを、今日の非常時国家が要求するのは当然である。だがかうした言語が、単に「概念」として処理される限り、決してそれは藝術にならないし、また大衆の心の糧にもならないのである。近時陸軍軍楽隊によつて、しばしば観兵式等で奏される「抜刀隊の歌」は、明治初年の軍政府に雇傭された、一外人教官の作曲だといふことだが、それにもかかはらず、昔から今日に至る迄、よくそれが日本の大衆に愛唱されて居るのは、楽曲の構成そのものが、雪の進軍や軍艦マーチと同じく、日本人向なシムコベーシヨンで出来てゐるからである。この「抜刀隊の歌」の如きはまことに勇壮快活であり、明朗豪健の曲であるが、それが日本人向である限りに於て、やはりその曲の根原には、一種の東洋的ぺーソスが縹渺してゐる。(伝説によれば、作者の外人楽師が滞留中、日本音楽の旋律から啓示を得て、この行進曲を作つたのださうである。)およそ日本人の民族的、伝統的な音楽感性に解れないものは、いかに強調したところで、大衆の心の糧にはならないのである。即ちそれを称して「概念」と呼ぶのである。
 しかし概念的なものは、必ずしも太平洋行進曲ばかりではない。明治以来、政府の指導した文部省の音楽教育が、根本の精神に於て、既に初めから概念的なのである。即ち明治以来の新政府は、江戸爛熟文化によつて惰弱化し、淫靡化した国民の気風を一新するため、都々逸、端唄、江戸小唄の如き、日本伝統の音曲を淫声として擯斥し、代ふるに西洋の清新健全なホームソングや、勇壮豪健な軍歌の類を輸入し、これを学校教育の唱歌課材としたのである。そこで僕等が学校で学んだ唄は、英国の家庭で唄はれるスヰートホームの唄(埴生の宿)であり、アンニイ・ローリイ(才女)であり、オールド・ロング・ザイン(螢の光)であつた。すべて此等の歌を、僕等は日本語の歌詞で教はつた。だが本来異国人の作曲した異国の歌は、僕等の素朴な子供心に、何の真に触れるところもなかつた。僕等はただ唱歌の点数を取るためにのみ、機械的にそれを暗誦した。だが一度教室を出れば、だれもそんな歌は忘れてしまつた。皆が真に感動を以て、真の音楽的熱情をこめて唄つたものは、町の流行小唄であり、昔から日本にあるところの、祖国の俗曲俚謡であつた。もちろん僕等は、先生の耳に入らないところで、秘密に隠れてそれを唄つた。
 単にそれだけではない。僕等の小学時代には、雪の進軍を唄つても叱られたし、此処は御国を何百里の「戦友」を唄つてさへも、成るべくそんな歌は唄はぬやうにと注意された。僕は子供の時、その禁止理由がどうしても解らなかつた。町では人々が、異口同音に皆それを唄つて居たし、出征兵士でさへも高らかに唄つてゐるのだ。僕等はその流行の軍歌がおぼえたくつて、唱歌の教師に学校で教へてくれとたのみ、あべこべに苦い顔をして叱られたことを覚えてゐる。その頃学校で教へてくれた軍歌は、上野音楽学校の偉い先生たちが作曲し、文学博士勲何等といふ歴々の連中が歌詞を書き、文部省選定の刻印を押されたものばかりであつた。しかもそれらの軍歌は、旋律が少しも僕等の民族的情緒に触れない上に、歌詞はチンプンカンプンであり、子供心にさへも、ひどく無味乾燥といふ感じを与へる類のものであつた。なぜ学校では、僕等の好きな歌を教へてくれず、無味乾燥の詰らぬ歌ばかりを教へるのかと、小学校の子供たちは皆不思議に考へてゐた。
 ところでこの不思議は、今にして漸く解くことができるのである。官立上野音楽学校の創立以来、政府は純粋の西洋音楽、特に独逸音楽を以て、学校教育のアカデミイの規範と定めた。事実上に於て、独逸人数師の指令の下に、すべての学校音楽を依嘱した文部省は、同じ西洋音楽中でも、非独逸的なるものを異端親した。然るに況んや日本音楽と来ては、おそらく本質的に独逸音楽のコントラストで、似ても似つかぬ別趣の物といふよりは、独逸人が怖ぢ気をふるつて毛嫌ひする如き、音楽センスを特色としてゐるのである。そこで「雪の進軍」や「戦友」やの軍歌が、学校数室から閉め出されたのは、一にはその歌詞が通俗の口語体で、文部省的荘重の美文調でなかつたといふ理由―それ故に卑俗の流行歌謡であるといふ理由―もあつたが、一にはその曲の旋律そのものが、あまりに哀傷感を高調したり、あまりにラグタイム風であつたり、そして要するに、あまりに日本俗曲的であるといふ根本の理由によつたのである。
 かうした外人教師の指令の下に、長い間日本の音楽教育が指導された。それからして僕等は、自国の伝統する国粋の音楽が、低級卑俗の未開藝術で、それを唄ふことさへ恥かしく、文明人としての体面にかかはるやうに教へられた。今の日本でさへも、本格的の音楽家を以て任ずる人々は、町の大衆に唄はれる流行歌曲の類を、すべて低級卑俗として冷笑視してゐる。だがその本当の理由は何処にもない。単にそれらの歌曲が、日本音楽の伝統的なセンスや旋律を多分に持つてる―それ故にこそ大衆に悦ばれるのである―といふことにすぎないのだ。そしてしかもその「本格的音楽家」の偉い先生たちは、何の民族的個性もなく、何の芸術的独創もなく、単に西洋音楽の模倣を事とし、その末梢的技術の練習にのみ汲々としてゐるのである。
 しかし政府が西洋音楽を重視するのは、世のモダンボーイやモダンガールが、西洋心酔病に取りつかれて、洋楽レコードの前に群集するとは、根本の心理情態がちがつてゐる。
 明治以来西洋文物を輸入したのは、日本を世界の列強と伍する為に、その富国強兵と国利民福を計るためにされたのである。日本の政治家や軍人やが、僕等の藝術家に質問することは、西洋音楽と日本音楽と、何れが藝術として優秀であるかといふことではない。ただ彼等の聞かうと欲することは、日本音楽と西洋音楽と、何れが国利民福に役立つかといふ事だ。そして国利民福に役立つものは、所謂「教育上に有益なもの」であり、この目的に反するものは、「教育上に面白からぬもの」なのである。所でこの勝負は、常識の批判する眼で、どうしても西洋音楽の方に勝味がある。本質的に線が細く、情痴的で、センチメンタルで、牧歌的で、厭世的で、物のあはれのリリシズムを主調とする日本音楽、特に就中江戸時代の色街音楽の如きは、所謂「健全にして豪快」なる国民精神を作るためには、たしかに「教育上面白からぬもの」にちがひない。文部省が国粋の日本音楽を擯斥して、却つて外国の音楽で国民を指導教育しようとするのは、いかにも矛盾した事の如く思はれるが、所詮は上述の如き功利主義のイデーに基づいてゐるのである。
 この洋楽偏重の傾向、排日本音楽の傾向は、最近支那事変の戦争が始まつてから、特に著るしく眼について来た。毎日のラヂオ演奏は、殆んど全く楽隊やオーケストラの洋楽で専有され、琴三味線等の日本音楽は、放送から殆んど影をひそめてしまつた。正に非常時下の日本は、洋楽万能全盛時代を現出してゐる。しかも社会の一方には、日本文化の独立と再認識が唱へられ、民族性の伝統を主張するところの、国粋主義が強調されてゐるのである。これほど矛盾した不思議は、かつての日本にもなかつた。そしてもちろん、この矛盾の原因は、前に述べたイデオロギイに還元されるのである。
 だがこの矛盾を、矛盾のまま放任しておくことが、果して賢明の処世だらうか。すべての矛盾は、その認識の根拠にまちがひがあり、不合理があるから生ずるのである。此処で僕等が、明らかに指摘したい不合理は、日本人は、本質的に独逸人と国民性がちがふといふことである。日本人の或者は、おそらくその心意に於て、ナチス独逸を理想としてゐるかも知れない。だがその歴史の出発から、不断の民族争闘を戦ひぬき、英雄叙事詩の伝説に育つた独逸人と、初めから東洋の平和境に安住し、万葉、古今の恋愛抒情詩に青くまれ、二千年もの長い間、仏教の感化の下に、厭世無常の物のあはれを、骨の髄まで感性に沁み込んでる日本人とは、すべてに於て気風がちがひ、物の感じ方がちがふのである。具体的に詳しく言へば、例へば独逸人と日本人とは、愛国心の強いといふこと、忠勇無双といふこと、勤勉剛直といふこと等で、概念的によく類似してゐる。しかしその愛国心や勇気やは、内容を構成してゐる質の点で、両者全く細胞がちがつてゐるのだ。つまり独逸人の男気や愛国心やは、丁度正にその豪健荘重の独逸音楽が表象してゐる通りのものであり、日本人のそれは、謡曲や琵琶歌や浪花節や、その他の日本音楽が表象してゐる通りのセンスを、内容の細胞にもつてゐるのである。尚これを詳しく言へば、日本兵の戦場に於ける勇気は、あの「戦友」の哀傷的なメロディや、浪花節の義理人情にからんだ牧歌風の楽曲から、内容的に素質されてるものなのである。かつて或る文士が、日本兵の特殊の強さは、浪花節的感傷性に素因すると言つたのも、たしかに一部の真理として肯定される。僕も前に「日本人の戦争文学」といふ文の中で、日本軍の強い要素は、映画「五人の斥候兵」等に描かれた通りの、日本人の特殊な感傷性にあると書いた。そしてこの感傷性は、独逸音楽等には全然なく、日本の国粋音楽にのみ、伝統的にセンスしてゐるものなのである。
 さて此処まで考へれば、一切のヂレンマが簡単に解決できる。もはや、純粋の外人が作つた純粋の外国音楽で、非常時国民の士気を鼓舞するといふ如き、無益を自覚すべきである。
 特に就中、日本人の民族感性と交流のない独逸音楽などによつて、日本国民をナチス的に鍛錬し、独逸的内容の豪健や、独逸的内容の勇気やを、民衆に要求しようとするならば、それは不可能である。なぜならその外国精神は、我々の物と内容が異質であり、したがつて我々の勇気や愛国心の素因的要素となつてる、肝心のセンチメントや民族感性のエスプリやを、誤る恐れがあるからである。たとへば日本人と日本音楽の特色たるペーソスの感傷性は、独逸人の 「豪健」といふ精神からも、独逸音楽の 「荘重」といふ精神からも、卑俗軟弱の下品物として毛嫌ひされる所であり、そして日本人の国民性たる現実的明朗の楽天主義は、観念的深刻の理想主義者たる独逸人から、軽佻浮薄として嫌はれる所であらう。そしてまたその故に、シムコぺーシヨン等によるジャズ的浮れ調子の日本俗曲は、独逸音楽の美学から異端的に邪道視される。
 かうした独逸音楽家の指導の下に、日本の官学音楽家等は、長く祖国の民衆音楽を軽視して来た。だが幸ひにも日本の大衆は、学校の教室以外に於ては、その自ら聴くべき物を選定し、真にその「心の糧」となるべきものを、自ら賢明に批判して来た。もし大衆にしてこの批判の選定がなかつたならば、おそらくどんな結果になつたであらう。一説によると、今次の戦争で、最も成績の好い兵士は、農村出の青年であり、平常浪花節によつて教養され、日本伝統の俗謡や俚謡の類を、好んで愛唱してゐた人たちである。勇壮豪健といふ如き形容詞によつて、適切に表現される洋楽のマーチの如きは、彼等のかつて聴いたことがなく、稀れに聴いても、殆んど何等の感動も呼び起さなかつたものであつた。しかも彼等は、資質的に、最も勇壮豪健の兵士であつた。
 西洋音楽と日本音楽との比較で、前者を本質的に勇壮豪健だと思惟するのは、あたかもカイゼル的な顔を、英雄風貌の典型だと思ふやうなものである。もし果してさうだとすれば、東郷大将や大山元帥やの日本軍人は、いかにその風貌に於て、非英雄的であることだらう。だがしかし、僕等東洋人の知性は、その国民性と共に他とちがつてゐる。僕等が「美しい」と感じ、真に「英雄的」だと感ずる顔は、鷲のやうな肉食鳥のタイブでなくつて、もつと温雅に、もつと菜食獣的に、そしてもつと複雑した陰影を持つてるところの、我が東郷大将や大山元帥の顔なのである。そしてこの比較は、同じやうにまた洋楽と邦楽とについてされるのである。明白に言つて、僕等は洋楽の行進曲よりも、伊達政宗が軍歌に用ゐたと言はれるところの、あの「さんさ時雨」の歌曲の方に、遙かに深遠で力強い勇壮美を感ずるのである。
 しかしさうは言ふものの、今日以後の日本に於て、洋楽が益々普及する一方に、日本の古典音楽が凋落することも確実である。今や僕等の日本人は、長い太平鎖国の夢から醒めて、列国相食む弱肉強食の競争場裡に乗り出して来た。僕等の子孫は、もはや昔の先祖のやうに、間のびのした声を引つぱりながら、長閑で平和な牧歌詞の歌ばかりを、悠々閑雅に唄つてることはできないだらう。あの喇叭と太鼓を中心とする吹奏楽や、無数の楽器から構成された荘重雄大の管絃楽や、何百人といふ人数で合唱されるコーラスやの前に出ては、僕等の四畳半式の三味線楽や、葦の葉のそよぎのやうな尺八楽や、茶室情緒の侘しい琴唄など、一たまりもなく吹き飛ばされてしまふだらう。単に国際的の地位ばかりでなく、社会万般の環境が、既に半ば欧風化した今の日本は、政府の指導を俟たないでも、自然に西洋音楽化すのが当然である。もし今の時代に於て、学校の教室からピアノを追ひ出し、螢の光を教へる代りに、清元、新内を教へよと言ふ人があるならば、三升屋小勝の気焔と共に、寄席の観客を笑はす愛嬌にしかすぎないだらう。
 さて結論に入らう。僕は決して、神風連的攘夷思想で音楽を論ずるものでなく、況んや落語家小勝のシニイクを真似るものでもない。今の非常時国家に於て、盛んに洋楽行進曲を宣伝し、喇叭と太鼓で士気を鼓舞しようと試みてるのも、もとより賢明の策として賛成する。ただ僕の言はうとするのは、かうした音楽宣伝でさへが、単なる「概念」であつては仕方がないといふことなのだ。概念とは、内容に具体的の実質がなく、単なる名詞の言葉ばかりが、抽象上に観念されることなのである。即ち詳しく説明すれば、日本人のユニイクな民族性や民族情緒を、その内容資質に持たないところの、したがつて独逸人にも、仏蘭西人にも、英吉利人にも通ずる如き、単なる抽象上の国民精神総動員を号令する如き藝術は、ひとり音楽に限らず、すべて宣伝効果が乏しいといふことなのだ。この論文は、たまたま「太平洋行進曲」の感想から出発して、意外にも文化批判の広い問題に入つてしまつた。そこで始めに帰つて言へば、太平洋行進曲といふ曲は、決してそんなに退屈の音楽ではない。多少救世軍的の所はあつても、昔の日清日露当時に、学校で教へた官製軍歌に比較すれば、歌詞も遙かに気が利いてるし、旋律も相当に面白く、決して無味乾燥といふ如き類の曲ではない。だがそれにもかかはらず、前の「愛国行進曲」や「露営の歌」等に此し、民衆にアツピールする力が乏しく、国民歌謡としての普及を疑はせることは事実である。そしてこの原因が、何処にあるかを質ねた時に、僕の思想にこの全論文が出来たのである。即ちその原因は、作曲のモチーヴが概念に流れ、前の「愛国行進曲」等の如く、日本人のユニイクな民族的音楽感性を、個性的に強調することがなかつたからだ。そしてこれは、国民歌謡として本質的のものなのである。
 この行進曲の作者は、たしか海軍軍楽隊であつた。作者の個人的な名前がなくて、単に海軍軍楽隊作曲と署名されてゐるのを見れば、おそらくその部内で合議的に創作されたものであらう。さうした合議制で出来たものは、本質的に既に非藝術的であり、常にいかなる場合にも、藝術品としての生命力を欠くのが普通である。元来日本の軍楽隊は、陸海軍共に民衆の側に接触して居た。彼等は官制のアカデミイ音楽に対抗して、真に日本人の民族センスを旋律化したところの、軍艦マーチや雪の進軍やの名曲を作り今日の所謂国民歌謡の先駆をしたのだ。さうした光栄ある歴史の為に、些少の拙劣すら口やかましく惜まれるのだ。
 要するに現代の日本人は、西洋音楽の形式によつて奏されたるところの、日本的の民族精神を求めてゐるのだ。もつと他の言葉で言ひ代へれば、形式上に洋楽化された日本音楽を探してゐるのだ。そしてこの大衆の註文に応ずるものが、レコードによつて普及された町の流行歌曲なのである。この意味に於て、古賀政男や中山晋平やの流行歌謡作曲者は、時代の寵児であると共に、時代の創造的リーダアでもある。彼等及び彼等の作品を軽侮するのは、藝術的には全然理由のないことである。ただしかし別の見地 ― 風教上の立場や政治上の立場 ― から見る時、社会政策上面白からぬものがあるかも知れない。それ故にこそ豪健勇壮の行進曲を作曲して、町の頽廃的流行歌に代らうとするのであらう。だがそれらの町の流行歌が、大衆にアツピールしてゐる本質のものは、日本人の民族性に深く根づいてる真実のものであり、断じて抜きがたいものであることを知らねばならぬ。そしてこの認識が成立したら、政府はその国策上に、いかなる種類の音楽を選ぶかが解るであらう。