宗教と現世利益
       邪宗と正教の弁明

 邪教と正教、迷信と正信との相違を定義づけるほど、およそ困難なことはないであらう。基督教から言へば、仏教や回教は邪教であるし、仏教から言へば、基督教を初めすべての外道は邪教である。羅馬教皇の宗教裁判は、教義のほんの一ミリ的な末梢部分がちがふだけで、同じ天主教徒を異端として火刑にした。日蓮は真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊と称へて、自宗以外の一切仏教を邪教視した。邪教と正教との別は、人がそれを主観的に信ずるか否かといふ問題に帰結するので、これを客観的に規準する法則はない。
 迷信と正信との区別も、またこれに同じである。「迷信とは何ぞや」といふ問は「真理とは何ぞや」といふ問のイロニーとして、古来から幾度も繰返されるが、かつて一度も満足に解答したものはない。鰯の頭でも鼠の尻尾でも、それを信ずる人には正信だが、信じない人には迷信である。科学上の合理主義は、宗教の本質するものとは無縁であるから、科学がいくら賢しらぶつて口を利いても、信心家にとつては場ちがひの講釈であり、結局いつて、迷信の迷信たる所以を弁証する事ができないのである。にもかかはらず人間の妄想は、しばしば科学上の合理主義から、正信と迷信とを区別づけ、併せて邪教と正教とを論理づけようと理念する。ルネサンスの啓蒙思潮にうながされて、デカルト以来多くの哲学者が考へたことは、実にその馬鹿らしい一つの妄想 ― 科学的合理主義による宗教の創立 ― といふことだつた。所謂「理性の宗教」といふ名で呼ばれたこの
イデーは、当時の新思潮を代表する流行であり、ミル、コント、スペンサア等の哲学者が、各々その一派の宗門の開祖となつた。彼等はその所謂「理性の宗教」によつて、基督教の非科学的なる迷信邪教を一掃し、人類に新しい希望、信仰を与へ得ると考へたが、その宗門の帰依者たちは、概念の弁証論理をこととしてゐる、彼等の哲学者の弟子だけだつた。大衆の正直な批判で見れば、初めからそんなものは宗教でなかつたのだ。なぜなら宗教とは、科学の常識する合理主義が超越するところに、初めからその信仰の基因を本質してゐるのだから。すべての祈祷するものは、ツルゲネフが散文詩で書いた通り、「神よ、二二ケ四たること勿らしめ給へ。」の奇蹟を祈つてるのだ。
 そこで新しく反省した啓蒙論者は、前説を少しく緩和訂正し、今度は「科学と背馳せざる限りに於て」といふ条件附で、既成宗教の正信的価値を許可しようとした。ルーテル以来のプロテスタント新教が、急に科学への妥協を示し、その教義の中に実証主義的要素を取り入れたり、聖書に現はれた超自然の奇蹟を否定したり、甚だしきは霊の永生や復活さへも懐疑して、ひとへに「科学と背馳せざる」やうに努めたのは此故だつた。然し男の肋骨から女が出来たり、奇蹟によつて紅海の水が引いたり、処女の腹から耶蘇が生れたり、十字架で死んだものが復活したりする基督教は、本質的に非科学的の宗教であり、徹頭徹尾奇蹟づくめの宗教だから、これを実証論的に合理化するのは容易ぢやない。その点へ行くと、仏教は遙かに科学的な近代思潮と、矛盾なく調和し得る得をもつてる。仏教の自然観や人生観は、原因結果の連鎖する決定的な因果律によつてることで、初めから本質的に科学の精神と一致してゐる。その上原子説や電子説の宇宙構成説に関する機密な理論も、仏教の古くから説いてゐるところが、本質上に於て今日の科学と符節し、殆んど矛盾がないと言はれて居るし、そのスピーノザ風の汎神論的宇宙観も、所謂「理性の宗教」の合理主義と合ふものである。小泉八雲が言つてる如く、およそ今日ある既成宗教の一切中で、仏教にまさる「科学的宗教」はないであらう。
 しかしながら仏教と雖も、その宗教としての本質点は、決して所謂「科学的」でなく、また「科学と背馳しない」やうな意味での、実証論的合理主義のものではないのである。仏教の根本思想である因果説は、弁証を自然界に求める限り科学的だが、これを人生の倫理的現象に応用して、善因善果の因果応報を説くに至つては、全く非科学的な念仏ドグマになつてしまふ。釈迦は奇蹟を否定したが、その信徒等は涅槃絵の奇蹟を描き、様々な神秘的イメーヂによつて教祖の姿を幻想してゐる。仏教からその非科学的な要素を除き、奇蹟や念仏ドグマを一掃したら、後に実体として残るものは、もはや単なる「仏教哲学」のみであつて、宗教としての「仏教そのもの」ではないであらう。いかなる場合にも、宗教の根本生命は信仰であり、そして信仰そのものは、初めから科学的の合理主義を超越してゐる。「科学と矛盾しない宗教」なんてものは、原則として有り得る筈がないのである。
 此処で「邪教とは何ぞや」といふ質問が、改めてまた提出される。なぜなら政府は、最近この質問に対して、痛快にも判然明白なる定義を決定したからである。即ちその定義によれば、邪教とは「現世利益」を旨とする一切の宗教を指示するのである。おそらくこの定義は、最近続々として新興し、続々として禁圧された多くの新宗教、即ちたとへば大本教や人の道やを、当面の対策としたものであらう。政府のこの新しい定義は、科学的等の曖昧な言語によつて、宗教の正邪を区別しようとする従来の俗見に比して、遙かに徹底して具体的であることから、文士その他の識者間にも喝采され、颯爽たる名判決として賞頌された。しかしさらに翻つて考へれば、およそ現世利益を旨としないやうな宗教が、果して今の世の何処にあるだらうか。すくなくとも現世利益に対して、来世利益(霊の救済)をのみ主とする宗教が、今時どこにあるだらうか。原始キリスト教は、地上一切の現世を否定し、天国における霊の救済と永生を信仰した。だが今日のキリスト教徒が、果してそんな純一の信仰を支持してるだらうか。科学が否定する霊魂不滅の説を固持して、頑として世の常識に反逆抗争する如きクリスチヤンの説教師を、僕はかつて町の教会堂に見たことがない。いはんや街上の伝道者である救世軍等が、大衆に向つて説いてることは、酒と煙草の人体に及ぼす害悪であり、公娼の社会風紀上における悪徳であり、全く現世的なる通俗衛生学の講義にすぎない。そして基督教そのものが、おしなべて今日では、一種の「宗教的矯風会運動」になつてしまつて居る。そしてこの点は、仏教もまた同じである。風聞するところによれば、浄土真宗に属する一派の教団が、最近声明して西方浄土を否定し、ために本願寺から破門されたといふことである。浄土宗徒が西方浄土を否定するのは、キリスト教徒が天国を否定し、十字架を拒絶するやうなものである。その破門されるのは当然のことであるが、現実にかうした懐疑的な信徒の数は、益々増加して来るかも知れない。それほどすべての宗教が、霊の救済に関する来世の信仰を失つて、現世的になつてしまつたのである。
 ところで一体、大衆が宗教に帰依する動機は何だらうか。思想上の煩悶を解決したり、人生の真理を求道して、生死一如の大悟に到達しようとしたりして、自態的に宗教に帰依するやうな人は、おそらく千万人中に数人位しか居ないであらう。殆んど一般の大衆は、何等かの現世利益的の功徳 ― 重病快癒とか、家内息災とか、開運吉祥とか ―を折るために、奇蹟の実証を見て帰依するのである。耶蘇に帰依した弟子や大衆等は、奇蹟によつて足の立つた躄(いざり)や、憑物の落ちた精神病者や、海を歩く耶蘇の姿を、眼のあたりに見た人々だつた。かうした大衆の入信心理は、今も昔も変りがない。しかし霊の永生が信じられてた昔にあつては、地獄に陥ることを恐れた罪人や、死期の近いことを知つた老人やが、念仏懺悔によつて極楽に生れようとし、現世利益とは関係なしに、基督教徒や仏教徒になつたであらう。だが既に大多数の民衆が、死後の生活を信じなくなつてしまつた今日、天国や地獄の物語を、子供騙しの童話としか考へ得ず、したがつて贖罪の宗教的意義について、全く理解できなくなつてる今日の大衆が、尚もし宗教を要求する場合があるとすれば、ひとへに現世利益の功徳以外に、全く何物もないことは明白である。かつて昔の宗教家は、大衆に向つて説教し、現世の利益を捨てることで、来世の幸福を約束した。だが既にその交換の対象がなくなつた今日、何を以て説教することができるだらう。すくなくとも今日の宣教師は、かつて昔の耶蘇がした如く、現世利益の奇蹟を餌として大衆を釣り、徐々に彼等を正しい宗教心に導く外はないであらう。(正しい宗教心が何であるかは、此処に説く必要がない。)
 天理教を初めとして、大本教や人の道やの新興宗教が、瞬間にして大多数の信者を掴得したのは、実にかうした世相を知り、時代精神に迎合して、大衆の求めてるものを与へたからである。此等の新興宗教のすべてが、果して邪教か正教かは、自分の知らないところである。だがその全般を通じて、新興宗教の著るしい特色は、現世利益の奇蹟が多いといふことである。天理教の御神水や、人の道の御ふりかへやは、不治の難病を治すことで、あらたかな霊験があると言はれてるし、大本教の奇蹟は、即座に無病息災の開運を招来すると宣伝された。ところで奇蹟といふものは、元来信仰心の強烈さと比例をする。耶蘇は山に命じて海に移れと言へば、信仰によつて山を動かすこともできると言つた。燃えるやうな信仰心のある所には、必然的に奇蹟が生れて来るのである。故に新興宗教に奇蹟が多いといふことは、それらの若く新しい宗教に、ナイーヴな信仰心が燃えてることを証明する。原則的に言つて、宗教もまた生物と同じく、年齢によつて老衰し、遂には形骸だけの死骨と化してしまふ。若く新しい宗教に、概して皆溌剌たる信仰が燃えてるのは、それの生命力が若く旺盛のためである。反対に今日のキリスト教や仏教やは、殆んどその実の生命力を消耗して、単に教会と教理だけの、老いた形骸物となつた観がある。之等の既成宗教にも、かつて昔は様々の奇蹟があつた。そして今それが無くなつたのは、科学が奇蹟を否定するためではなく、実には真の烈々たるナイーヴの信仰心が、彼等に喪失した為に外ならない。
 「邪教とは何ぞや」といふ問に答へて、現世利益を宣伝するものと喝破した政府の明答も、此処に至つて容易に肯定できないのである。政府の所謂それらの「邪教」が、初めから山師の欺瞞手段であり、愚夫敵婦の大衆をあざむいて、不義の金儲けをするためのものならば、勿論文句なしの邪教として、法律上に処罰さるべきものである。だがその真精神に、人類救済の大理想を持つた正教でさへも、現世利益の奇蹟なしに、今日の大衆を帰依させることができないといふ事実を、為政者は一考する必要があるかも知れない。中世の天主教僧侶は、天国行の護符を売る事によつて、彼等自身の私腹を肥やした。彼等の宣伝した宗教は、来世の幸福の予約であつて、現世利益とは全く反対のものであつた。しかし彼等の僧侶等は、それによつて疑ひもなく現世利益を得て居たのだ。今日もしさうした宗教があるとすれば、果してこれを正教と呼び得るだらうか。
 要するに邪教とは、当局者の立場から観察して、治安風紀に害のある宗教を言ふのである。昔の日本に於て、キリスト教が邪教の代表の如く言はれたのは、それが徳川幕府の封建制下に於て、治安を紊乱する危険思想と見られたからだ。同じ理由によつて、初めはネロに迫害されたキリスト教が、後に羅馬の正国教となつたのは、羅馬の政治形体が変化をし、逆にキリスト教を利用するやうになつたからだ。「勝てば官軍負くれば賊」といふことは、為政者によつて判定づけられる正教と邪教との区別でもある。今日仏教の僧侶が、加持祈祷によつて病気を治し、彼等自身の現世利益を計つたところで、少しも邪教視されないのは、それが多年の風俗習慣となつてる上に、国家の治安風紀を害する恐れがないからである。反対に江戸時代に於て、左道密教のやうな新宗門が、切支丹と共に邪教として禁じられたのは、それが男女の自由恋愛を称へたことで、当時の風俗習慣に反したからだ。それ故に邪教の正しい定義は、現世利益の有無に関係なく、為政上の見地から見て「治安風俗を紊乱する恐れあるもの」といふ、簡単明瞭な一語に尽きてしまふのである。