昭和青年論
明治の青年は「詩」に酔ひ、大正の青年は「観念」に酔つた。ところで今の昭和の青年は、果して何に酔つてるのだらうか。おそらくは彼等は、何物にも酔ふことが出来ないといふことを、自ら自覚することの悲哀によつて、逆に自虐的に酔つてるのだらうか。さうした所謂「世紀末の悲哀」は帝制末期の露西亜の小説家が、可成に誇張したセンチメンタリズムの身振りによつて、その作品の中で抒情し尽した。殺人罪を犯した大学生ラスコリニコフは、かかる世紀末の悲哀に耐へず、自虐的に酔ひを求めようとして、自ら破滅した一人であつた。
しかし今の青年は、おそらくさうした小説を読まないだらう。たとへそれを読んでも、彼等に世紀末の実感はないであらう。なぜなら世紀末の実感は、それ自らがまた一つのロマンチックの詩であるから。昭和の日本の青年等は、ラスコリニコフの情熱に対しても、遠い夢の世界を感ずる程、現実的な実際人になつてゐるかも知れないのである。ところで私が、此処で問はうとする一つの疑問は、さうした今の青年たちが、果して幸福であるか、不幸であるかといふことである。
プラトンの理想国は、詩人を無用として放逐した。「詩」と「酒」とを必要としない社会は、最も欠陥のない理想の社会であり、「夢」と「酔」とを欲しない人間は、最も充足した幸福の人間である。現にさうした地上の天国を、僕等は今のアメリカに見てゐるのである。一日の中の、最も尠ない時間を労働し、最も多い時間を享楽してゐるアメリカ人。すべての民衆が、殆ど皆金持ちであり、物資は無限に豊富で、言論と行為の自由が許され、各自が気まま放題のことをして、だれもとがめるものはなく、極度の機械文明の発達から、生活の利便と享楽をほしいままにしてゐるアメリカ人には、実際に酒の必要もなく詩の必要もない。彼等は水ばかり飲んで満足し、詩の代りに活動写真を見て楽しみ、夢をイメージする代りに、機械の操作するリズムやスピードを見て悦んでゐる。
しかし日本はアメリカではない。日本に舶来してゐるものは、アメリカの悲しい幻燈だけである。そして日本の青年や女学生は、その幻燈が映す絵を見ながら、海の向ふの国にあこがれ、アメリカ人の真似をして、ダンスや、スポーツや、レヴユーや、映画や、機械いぢりや、ハリウツド的流行の風俗を追ふに夢中になつてる。さうした彼等のモダン意識が、しばしば新しがつた趣味性で言ふ。詩の時代は既に古い。僕等の時代の酒と酔とは、映画とビヂネスの実社会にあり、機械のスピードとスリルが与へる、現実の享楽にあるのだからと。だがそんなモダンボーイやモダンガールも、今では銀座街上から尠なくなつた。今の自覚した青年たちは、もつと沈痛に意味ありげな顔をして、自分の周囲を見渡してゐる。
一日の中の最も長い時間を労働して、最も短い時間を休息し、享楽の機関に乏しく、あらゆる自由は束縛され、物資の窮乏に悩み苦しんでゐる社会に於て、悲しいアメリカの幻燈などが、何の意味もないイリユージヨンにすぎないことを、漸く彼等は知つたのである。詩か観念か、ともあれ何物かの夢と酔なしには、やはり現実に生きることができないことを、過去のどの時代にもまして痛切に、今の青年等は知つてるのである。しかしその酒はどこにあるのだ? そして結局、それが何処にも無いといふことを意識した時、彼等は沈痛に眉をひそめて、ひそかな歎息をもらすのである。
しかしながら彼等は、西欧十九世紀末のインテリゲンチユアのやうに、一種の観念的虚無主義者−といふのは、実際に於てのロマンチストであつたからだ−には成り得ない。今の社会と青年には、それほどひたむきな熱情もなく純情もない。彼等はもつと世智辛く、実生活の浪にもまれて生育し、青春の純血を飲まれてしまつたところの人種である。かつてはデカダンといふ言葉があつた。人生の夢と希望を失ひ、一切に幻滅して、酒と阿片に耽溺する頽廃者の群を言つた。だが今の青年等は、もはやそのデカダンでもない。彼等は人生に幻滅し、夢と希望を失ひながらも、自ら求めて頽廃者の群に投じなければならないほど、烈しい人間性(ヒニューマニテイ)の情熱をもつてゐない。つまり彼等は、好い加減の所で、彼等の不平と妥協しながら、凡俗の世に処して、安易に生きてゐたいのである。
かうした彼等は、明白に「小常識人」のタイブであり、一昔前の学生や文学者が、最も卑陋として擯斥したものであつた。しかし私は、彼等がその小常識人の故に、決して幸福人であるとは考へられない。反対に彼等は、前のどんな時代の青年よりも、大きな本質的な悩みを持つてると考へる。なぜなら彼等は、初めて「日本の現実」に目醒めたところの、最初の「認識者」であるからである。
今日から思へば過去に私の時代の青年たちは、あまりに自国の現実を知らないところの、あまりに非常識な夢遊病者であつた。明治時代の青年等は、ルツソオの民約論に狂熱したり、西洋近代の文藝思潮を直訳して、祖国の伝統に根も葉もなく、況んや現実の社会と没交渉な夢の中で、空虚にエキゾチツクな陶酔に耽つてゐた。そして大正時代の青年等は、露西亜の革命思潮にかぶれて、観念的な人道主義やマルキシズムに陶酔したり、築地小劇場の舞台の上から、長髪にルパシカ姿で踊り出したりして、自ら時代の進歩主義者を気取つてゐた。
さうした彼等の総ての「酔」は、歴史的にも思想的にも、充分の根拠と必然性を持つてるところの、西洋諸国の近代思潮や革新思潮と、本質に於て大いにちがつたものであつた。過去にデカルトもなくカントもなく、ルネサンスもなく宗教戦争も無かつた日本で、大正時代に「世紀末」のある筈が無く、明治時代に浪漫主義のある筈がない。すべては西洋の直訳であり、エキゾチシズムの陶酔であり、青年の夢見心地が、空中楼閣に築いた蜃気楼の幻想にすぎなかつた。そしてこれが過去の青年を酔はしたところの、あまりにも超現実的な「詩」の一切であつた。今や昭和の青年等は、かうした過去の迷夢から醒め、初めて自己の環境してゐる現実の社会と文化を認識して来た。そしてこの自覚のために、彼等はその先人の「詩」を失ひ、先人の所謂小常識人と化したのである。
してみれば今の青年等は、果して昔の青年から、実に軽蔑さるべきものであらうか。むしろ反つて彼等こそ、過去の時代の認識不足と、その「愚かなる情熱」とを、逆に嘲笑してゐるのではないだらうか。たしかに現代の不幸は、新しい時代の詩が生れず、青年が夢を持たないといふことにある。だが真の本物の詩、単なる観念やエキゾチシズムでないところの、真の国民生活に根ざした本物の詩は、昭和以後の新しい日本に於て、次の時代の青年から興つて来るのでないだらうか。果してもしさうだとすれば、今の小常識人化した青年等こそ、実には認識第一歩を踏んだ良識人であり、次の時代の文化と社会を、正しく創造する使命者であるかも知れない。そしてかかる過渡期の苦悩と陣痛とを、現代青年の風貌に感ずるものは、思ふに私一人ではないであらう。外観上に於て、彼等はたしかに小常識人であるかも知れない。だがその表情の深い内部に、過去の青年が悩んだ以上の、より深刻にして厳粛な宿題を持つてることを、決して、見のがしてはならないのである。すくなくとも彼等は、過去の日本でデカダンと自称し、詩人と自称し、或は進歩主義者と自称したもののやうに、芝居がかりのポーズばかりを看板にした、無知性のゼスチユアリストではないであらう。