純粋詩としての新古今集

   幾夜われ浪にしをれて貴船川袖に玉散る物思ふらむ (新古今集藤原良経)

   しるべせよ跡なき浪に漕ぐ舟の行方も知らぬ八重の汐風 (新古今集 式子内親王)


 新古今集の歌の美しさこそ、東西古今の抒情詩中で、この世のたぐひなきものであらう。ここにはあらゆる文化人が思念する詩歌のフォルムの、絶頂的最高峰に行き尽したものがある。それは「詩」といふ文学の中から、そのすべての文学的素材を除去して、言葉を純粋の音楽に代へてしまつたのである。ゲーテは音楽についてかう述べてゐる。「藝術の品位は、音楽に於ておそらく最も高貴に現れてゐる。その故は、音楽には取除かねばならぬやうな素材がないからである。音楽は全く形式と内容だけで、その表現する一切のものを気高くす
る。」
 ところで西洋近代の詩人たちは、抒情詩からその文学的素材を除去して、詩を純粋形式の音楽にすることをイデーした。これが即ちヴァレリイ等の言ふ「純粋詩」である。純粋詩こそは、おそらく詩の文化的高峰に咲く理念であらう。だがその花の開花は、季節の好き日を待たねばならぬ。それは或る特殊の文化が熟爛して、内容の意味と素朴を失ひ、その空虚に美しい形骸のままで、正に地に落ちて凋落しようとする秋の、悲しいデカダンスの季節にのみ、最後の返り花を咲かせるのである。
 外国では、現代仏蘭西が正にさういふ季節にある。そして本朝日本に於ては、後鳥羽院の院政された王朝末期の没落期が、正にさうした文化の熟爛したデカダンスの季節であつた。そして新古今集が、丁度さういふ時期に生れたのである。それは八代集最後の歌集で、万葉以来徐々に進歩し変化した、日本の歌の最後の登りつめた最高頂に立つものだつた。新古今集を限りとして、事実日本の美しい歌は、歴史的に亡び失はれてしまつたのである。
 新古今集では、音楽に於ける如く、内容と形式とが、全く一の不離のものになつてるのである。そこでは文学に於ける如き意味での、素材といふものが殆んど無い。すべての素材は取り除かれてゐる。有るものはただ「形式」と「内容」だけである。しかもその内容は、それ自身が既に形式なのであるから、これこそ徹底的フォルマリズムの抒情詩と言ひ得るだらう。
 いかに読者は、貴船川の歌の美しさを表現し得るか。「八重の汐風」の歌が調べる音楽の悲しさは、何に譬へやうもなくリリカルである。しかもその悲しさと美しさは、これを思想に表現することの言葉を持たない。なぜなら此等の詩には、普通に言ふやうな概念での、「意味」といふものが無いからである。文学上に言はれる「意味」といふことは、すべて皆「素材」に属してゐる。然るに此等の歌には、初めから素材が除去されてゐるのであるから、したがつて、また意味があり得ないのである。「意味の無い詩こそ、この世で最上の詩である。」とヴァレリイが言ふことの真理は、僕等日本人にとつては、新古今の歌をよんでのみ、初めて理解できるのである。なぜならこの場合に言はれる無意味といふことは、詩の形式(音楽)が、それ自身として奏するところのリリックであり、それこそが実の内容なのであるから。

 有馬山ゐなの笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

 芥川龍之介をして、日本抒情詩中の絶唱であり、近代仏蘭西詩にもまさる美学的な詩だと言はせたこの歌は、しかし我等の古典中には、決して稀らしいものではない。
 我等の日本人は、過去にすべての美しい物を所有してゐた。今日二十世紀の紅毛人が、十九世紀の遺産を経て漸く到達し得た最後の美学と抒情詩とを、遠く既に十一世紀に所有してゐた。我等の詩人は、どんなに誇張して世界に誇つても、尚未だ及ばないことを恐れるのである。