歴史の斜視線
            この一文を保田與重郎君に寄す


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 小学校に居た時から、私は歴史といふ学科が嫌ひであつた。それは地理と同じく、純粋に暗誦学科であつたからだ。延喜元年が、人皇何代天皇の御宇に当るとか、藤原氏の外戚関係を系図表にして覚えるとか、源頼朝が石橋山に兵をあげたのは皇紀何年何月であつたとか、聖徳太子の憲法全文を暗誦するとかいふのが、私の子供の時習つた歴史教育の重要事だつた。生来記憶力の悪い私にとつては、かうした勉強が一方ならぬ苦心労であつた。その上にまた私は、学校の歴史教育といふものに対して、子供心に漠然たる不満と反感を抱いてゐた。
 その理由は、私の好きな人物や好きな時代が、いつも歴史の先生から悪く言はれ、私の好まない時代や人物やが、反対に学校では賞揚されて居たからである。そして子供といふものは、元来感情的にエゴイスチックのものであるから、自己の主観的な好悪に強く偏執するのである。
 だがこの漠然たる懐疑と不満は、長ずるに及んで反省しても、更に少しも変遷せず、却つてその合理的な理由を発見した。といふのは、私が子供の時からして、素質的に天性してゐた藝術家的な趣味傾向が、学校の歴史教育の根本精神と、どこか本質点で矛盾対蹠してゐたことを知つたのである。即ち約言すれば、学校で教へる歴史教育の方針は、一般に詩人や藝術家がイデーしてゐるものを排斥し、その逆のものを高揚してるのである。ところで詩人や藝術家のイデーするものとは、歴史上に於て文化の栄えた時代や、文化的精神を所有する人物やであり、一言にして言へば、文化史観による歴史なのである。そして小学校で教へる歴史は、この文化史観を抹殺し、文化的価値によつて買はれるものを、すべて異端的に毛嫌ひし、邪悪視し、概して国民教育上に有害なものと認めてゐるのである。以下この事実を、私の習つた歴史教科書と、私の先生から学んだ学校教育について述べてみよう。
 日本歴史の主なる時代、即ち王朝時代、源平時代、鎌倉時代、吉野朝時代、室町時代、戦国時代、徳川時代の中で、学校の歴史教育が「最も善き時代」として教へたのは、鎌倉時代と徳川時代であり、反対に「最も悪しき時代」として教へたのは室町時代であつた。王朝平安時代については、私の小学校の先生はかう教へた。藤原氏専横を極めて朝権をないがしろにし、公卿は文弱にながれて国政を顧みず、日夜管絃詩歌の遊楽を事としてゐたと。先生の解説によれば、さうした公卿の王朝時代は、室町時代に次いで、日本歴史に於ける最も悪しき時代であつた。源平時代と戦国時代は、日本に於ける最も殺伐暗黒の乱世であり、人倫乱れて道義の観念
が地を払つた時代であるにもかかはらず、学校の歴史教育は、却つてこの時代を讃美してゐるやうに思はれる。先生の説によれば、此等の時代に於て、日本の武士道精神が最もよく発揚せられ、歴史を飾る多くの美事逸話が伝へられた。此等の時代こそ、日本歴史の花ともいふべき時代であると。だがその同じ乱世破倫の時代であつた室町時代は、暗黒時代といふ名で呼ばれて、極端に悪く誹謗される。先生の言によれば、代々の将軍は暗愚にして国政を顧みず、風流韻事に耽つて国費を濫用し、為に民は飢ゑて路に迷ひ、人倫乱れて戦鍋の絶える暇が無かつたと。反対に鎌倉時代は、北條氏の政治よろしきを得たので、天下よく治り、民みな鼓腹して悦んだといふわけで、徳川時代と共にカをこめて讃美されてゐる。時に北條泰時や時頼は、身執権の職にありながら、粗服をまとひ粗食を忍び、勤倹質素の生活をして政務にカ行したといふので、修身教科書的に賞讃され、道徳上にも模範人物の如く教へられた。
 かくの如く考へれば、何が「善き時代」であり、何が「悪しき時代」であるかは明白である。歴史教育で善き時代と言はれるのは、すべて武士道精神が高揚し、剛毅堅実のストイシズムが、一世の政治風潮となつてゐた時代であつた。反対に悪しき時代とは、その精神風潮が衰へ、武断的政治が弛綬して、文化的精神の高揚してゐた時代、即ち軍人の所謂「文弱」の時代であつた。王朝藤原時代が悪意に評され、源平、戦国時代が好意に評されるのもこの故だし、鎌倉時代が賞頌されて、室町足利時代が誹謗されるのもこの為である。北條氏と足利氏とは、共に逆賊の子孫でありながら、歴史上の評価を全く異にしてゐるのは、前者の北條氏が、義時、泰時以来、ストイックの武家精神を高揚して、質素剛健を旨とし、儒教化した禅学の武断政治を布いたに反し、室町将軍の足利幕府は、尊氏以来京都の公卿文化に私淑して、風流韻事を事とし、茶道俳諧の道に耽つて、臣下の跳梁を抑へることもできないほど、武家精神を失つて文弱化してしまつたからである。某大学の教授であり、官学派の学者として知られてる老博士が、最近或る雑誌で、次のやうに書いてるのを読んだ。彼は口を極めて北條氏の政治を賞頌し、次に足利氏に及んでかう言つてる。彼(足利氏)は出身上の武士であるが、実には武士に非ざるものである。なぜなら彼等は、武士の癖に武道を忘れ、公卿の模倣をこととして、遂に我が光輝ある武士道精神を失墜せしめた。実に言語道断の奴ばらであると。以て政府歴史教育の意のある所が、那辺にあるかが解るであらう。
 この同じイデオロギイは、史上の人物や英雄の評価について、一層よく具体的に現はれてゐる。歴史上で好評されてる武人(武人以外の人物は、小学校の日本歴史で殆んど無関心に取扱はれてゐる。紫式部や清少納言は、単にその才女としての文名だけを、機械的に記憶させられたにすぎないし、芭蕉、蕪村、近松、西鶴等の文人を初め、雪舟、光琳、歌麿、廣重等の画家についても、殆んど何事も教へられなかつた。ただ道徳家としての二宮尊徳、憂国者としての林子平、尊王家としての佐久間象山、愛国家としての日蓮上人等が、筆者や宗教家としての本領ではなく、他の別の見地から批判して教へられた。)は、源頼朝、北條泰時、北條時宗、木曾義仲、加藤清正等、たいてい皆スパルタ的武道精神を代表した典型的武士である。之に対して評判が悪く、歴史の先生から悪人のやうに教はつた人物は、武士の中で比較的文化精神を気質してゐた人々である。例へば平清盛の如き武人が、小学歴史では悪人のやうに説かれてゐる。その理由は、皇室に対して不逞不遜であつたといふことと、横暴な強権圧制政治をしたといふこととである。しかし源頼朝や北條義時が、朝権を犯し奉つた罪は清盛と同日の談ではなく、ファッショ的な強権政治は、ひとり清盛のみがしたわけではない。にもかかはらず、清盛一人が悪人のやうに言はれるのは、実に彼がワイルド型の耽美主義者で、武家でありながら公卿の真似をし、その一族の子弟に紅粉朱唇の青黛化粧をほどこさしめて、自ら得々としてゐる如き稚気のダンヂイストであつたからである。質実剛健を尊ぶ武人のモラルから断ずる時、かうした耽美主義者が擯斥されるのは当然である。そしてこの同じ理由から、歴史は源氏に同情して、文化主義者の平家一門に冷酷である。
 清盛と共に並んで、歴史上に最も憎悪視されてる武人は、室町幕府の創立者たる足利尊氏である。だが尊氏が擯斥されるのは、清盛の場合とちがつて、我が日本の國體上当然のことである。だれがどの見地から歴史を編纂したところで、彼の皇室に対する大逆罪は許容されない。しかしただ不思議なのは、同じ大逆罪人である北條義時が、比較的好意を持つて善解され、時には小学校でさへも、しばしば弁護されてゐるに反し、尊氏の場合に於ては、一点の仮借もなく酷烈であるといふ点である。もしその悪逆を責めるならば、北條氏の罪過は、遙かに足利氏にまさつて憎むべきである。尊氏は南北朝を対立させたが、天皇の玉体そのものに、直接手も触れ奉る如き大不敬事はあへてしなかつた。然るに北條氏は、義時、高時の前後二回に亙つて、畏れ多くも玉体を隠岐へ遷幸し奉つてゐる。日本歴史を通じて、北條氏の如き大逆無道を行つたものは、他に決してなかつたのである。しかも日本の歴史家は、かかる逆賊に対して比較的寛容であり、しばしば弁護の辞をさへも試みてるのは何故だらうか。彼等はその好辞として、元寇の役に於ける時宗の大功を言ひ、泰時、時頼等の善政をあげ、以て功罪相償ふやうに強弁する。しかしかくの如きは、若き詩人エッセイスト保田與重郎君も言つてるやうに「國體の先に善政ありとの輸入思想が基調をなした故」であつて、支那輸入思想の儒教が、我が國體の解釈を過つたものである。たとへ時宗一人の功績を以てしも、北條一門の罪過は許すことができないのである。尚ほ保田與重郎君は、その後鳥羽院に関する文献中、「物語と歌」と題する篇中でかう言つてる。「結果の現象としての両家(北條、足利)の善政を言ふのはしばらく措く。一方は絶大の強権を振ひ、他方はつねに弱々しい位置を誰かの人より支へられてゐたのである。北條はその強圧をもち、足利は大むね人の担ぐ上にあつた。朝廷に対する精神的態度に於ても、私の思ふに、北條よりはるかに足利に対し同情すべきものがあつた。しかも足利はその順逆を謬つた道に於て、正当に論断され、北條のむしろ庇護されつつあるのは、強権の結果としての善政、及びその結果としての強硬外交が、久しい史観によつてことの本質に到らずに看過されたゆゑである。北條執権によつて、わが十一世紀の爛熟の文化の一切が消滅した経路を考へるがよからう。」と。
 個人的に考へても、義時と尊氏とは全く人間の柄がちがつてる。順逆の罪は別として、尊氏には、人間として同情すべきモラルを多々感ずるが、義時は一片のモラルをも所持しない冷血漢であつた。権勢の我慾のために、その外戚を利用して主家を横領し、あらゆる奸佞邪智の詭計を弄して、順次に源氏の忠臣を亡ぼした上、遂に将軍頼家、実朝を暗討ちに弑逆し、頼山陽をして「日本一の小人」と切歯義憤せしめた北條義時は、同時にその子泰時と計つて、後鳥羽院を隠岐に遷幸し奉り、十六年の長い歳月の間、一度の御奉仕さへもなく、遂に院をして孤島に憤怨悶死せしめ奉つたのである。これに反して尊氏は、封建打破の新政治に不満を抱いた、時の大多数の不平武士に擁されて起つた後にも、尚ほ心中深く後醍醐帝の恩誼を忘れず、夢窓国師について罪を懺悔し、常にその背徳を自責して念仏を構へ、帝の崩御に際しては、京都に大寺院を建立して盛大な法事供養を営んだのである。もとよりこれによつて、彼の大逆罪を許すことは出来ないけれども、北條義時との比較に於て、尊氏の方に寛容すべき点の多いことはたしかである。しかも歴史教育の批判が之れに反するのは、義時がスパルタ的典型武人であつたに反し、尊氏が京都にをり、王朝文化の帰依者であつた故に外ならない。おそらく彼は、後醍醐帝によつて意図された建武中興の大精神を、せめてその文化の一鱗なりとも支持することに、懺悔者としての贖罪を意識したのであつたらう。
 承久の乱に於ける、かの後鳥羽院の北條討伐は、単なる政治的権力の回復のみを、狭義に意識されたものではなかつた。聡明にも保田與重郎君の言つてる通り、一代の文化をリードせられた後鳥羽院は、北條等のゴール人的蛮族階級によつて、過去千年の伝統ある花やかな王朝文化が、泥土にむごたらしく蹂躙され、落花狼藉の無道に委せられてるのを、許容しがたく逆鱗遊ばされたのである。そして後醍醐天皇の建武中興が、また同じ北條に対する憤りと、同じルネサンスの大御心から出発された。代々の帝にとつて、北條は単に政権上の賊ばかりでなく、文化上の大逆無道者であり、これを誅戮せずんば止まない瞋火の敵であつた。しかも後醍醐帝の挙兵に対して、かかる帝の深遠な大御心を知り、建武中興のルネサンス的意味を理解してゐた武人が、果して幾人あつたらうか。新田義貞も赤松円心も、当時官軍に帰順した全部の武人は、悉くゴール人的蛮族の武士であり、単に政治上の野心や不平やから、北條に裏切つて錦旗の下に集つたのである。足利尊氏と雖も、勿論その例外にもれなかつた一人であつた。しかし平清盛の場合と同じく、彼が召されて殿上に登つた日から、その政治家的敏感さによつて、早くも公卿たちの趣味を理解し、朧ろげながら帝の意中されるものの核(たね)を探つた。他のあらゆる功臣にまさつて、後醍醐帝が深く尊氏を信頼し、厚く御寵愛遊ばされたのは、単にその武家的地位の為ばかりでなく、思ふにこの点から尊氏を以て、建武中興の柱石を委するに足ると思惟遊ばされた為であらう。故に尊氏が周囲に擁されて叛逆した時、帝の胸中の御失望と、裏切り者に対する御震怒とが、いかに悲痛に烈しかつたかは、畏れ多くも想像に余ることである。そして尊氏の悲劇的な生涯は、一生この背徳を懺悔することに終つてしまつた。しかも北條義時や高時は、その懺悔すらも知らなかつた。それほど彼等は、朝権の何物たるかを理解せず、文化の高貴性を知らない無知の蛮族だつた。北條氏の足利氏に比して憎むべきは、これによつても既に明白である。しかも日本の史家は、単にその所謂「善政」の故に、北條氏を厚く庇護してゐるのである。
 楠木正成が湊川に戦死する時、一人の尊氏を誅するとも、第二の尊氏出づるを如何せんと歎じた言葉は、暗に新田義貞を指したと伝へられてるが、実にはかかる「善政」を以て、國體の上に置かうとする、当時の一般的なる武士の風潮を歎じたのである。大義名分を知らない当時の武士は、皇室と人臣との識別なく、単に自分等の領土を安堵し、善政を以て臨む政府でさへあれば、悦んでこれに帰依したのである。故に「七度生れて朝敵を亡ぼさん」と言つた正成の言葉は、是に於て益々悲痛な長歎息を帯びて響くのである。


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 小学校の日本歴史で、私の最も怪訝に耐へなかつたのは、関ケ原合戦に関する批判であつた。今の子供たちが習ふ教科書は、おそらく多少改訂されてゐると思ふが、私の子供の時の本にはかう書いてあつた。「石田三成は奸佞邪智の小人にして、徳川家康の勢望を嫉み云々」と。そして小西行長や浮田秀家等の西軍諸将は、概して皆三成と同穴の狢として、同情のない悪意の見方で書かれてゐた。これが徳川治下に編された歴史ならば、あへて怪しむに足りない当然事であるが、明治新政府の文部省が編した歴史だから、子供心にも不審せずには居られないのである。
 人も知る如く明治維新の革新は、徳川氏の封建打破を旗標とした、薩兵士肥の聯合軍によつて成就された。薩長士肥は、毛利、島津、小西、長曾我部等の本領地であり、官軍の兵士たちは、何れも関ケ原の戦争に敗れた西国大名、もしくはかつてその旧領主に仕へた亡命武士の子孫であつた。それ故多くの史家の言ふ如く、明治維新のモチーヴメントは、ある意味に於て関ケ原の復讐戦でもあつたのである。そして明治新政府の要人等は、何れもこの復讐戦に殊勲を立てた人々だつた。そこで明治政府の編纂する歴史上では、旧幕時代の価値批判が顛倒されて、当然西軍方に好意が示さるべき筈であるのに、石田、小西等に対する批判の如き、依然として幕府時代のままであり、幕府に阿ねる御用史家が、曲筆阿世して中傷讒謗したところを、そのまま無批判に採用してゐるのは、いかにしても不審に耐へないことである。
 石田、小西等の人物が、果していかなる器であつたかは、今日史蹟が湮滅してよく解らない。しかしすくなくとも三成が、幕府史家の言ふ如き「奸佞邪智の小人」でなく、私情的に「家康の勢望を嫉んだ」ものでなかつたことだけは、今日客観的の立場に立つて史を覿るものには、だれにも常識的に解ることである。たとへ彼が野心家であり、豊家の復興を名として自己の野望を遂げ、家康と天下の覇を争はうと意志したところで、何等道徳上に非議すべきところはない。家康も、信長も、秀吉も、皆その通りのことをしてゐるのである。ただこの場合には、豊家の忠臣といふ名義が、戦国時代の一英雄に変化するのみである。況んや史実に現はれた限りに於て、彼の行為は純潔であり、あくまで主家のために孤忠を守つて奮闘してゐる。
 小西行長については、或る点で三成以上に讒謗されてる。私の小学校の先生は、加藤清正との比較に於て、事毎に清正を賞頌して行長を貶謗した。先生の説によれば、朝鮮役の殊勲者は殆んど清正一人であり、行長の如きは怯儒にして為すところなく、あまつさへ秀吉を欺いて勝手に明と和を結び、ために日本の国辱をさへ招いたといふのである。行長が切支丹信者であつたことは、私の小学校では教へなかつたが、堺の一商人の息子であつて、本来の武士ではなかつたから、戦場の働きにも弱く、到底清正の武勇に及ばなかつたのだと教へた。この昔の先生は、思ふに清正ビイキであつたのだらう。しかし歴史教科書そのものが、小西、石田を同穴の狢として、好意のない書き方をしてゐるのだから、先生の説の拠点つて来るところが、初めから何処にあるかは明白である。
 小西行長といふ武将は、日本に数ある英雄武人の中で、最も興味あるユニイクの存在である。室町末期から戦国時代にかけて、当時の日本の中枢貿易港であつた泉州堺の町に、一薬種商の子として生れた彼は、早くから親に従つて海外貿易の業をおぼえ、支那、朝鮮、南洋、シヤム等と交易してゐた。それは丁度、印度、阿媽港等から来る舶来の物資が、「いんでん」「あまかわ」の名で呼ばれ、日本貿易史上に空前の殷賑を極めた時代であつたので、此等貿易商人の資本的勢力は、政治上にも重要なものだつたと思はれる。そこで早くから海外発展の雄志を抱いてゐた豊臣秀吉は、軍事上と経済上の二重関係から、小西行長を厚く用ゐて幕下の大名に列した。これが既に加藤清正等の反感を招く原因だつた。清正等の武将は、幾度か戦場に殊勲を立て、生死の境をくぐつて漸く大名に列したのに、さしたる武勲もなくして、一躍自分等と同列に坐したる行長は、清正等にとつてみれば、嫌厭嫉妬の情に耐へないものがあつたらう。彼が事毎に行長を「町人」と罵つて嘲弄し、朝鮮役の時京城に会して、「貴公は商売で慣れてるから、定めし朝鮮の地理に達者でござらう」と、辛辣な皮肉を浴せて毒舌し、ために行長を激怒させたり、或は明の使節に向つて「小西は武士ではござらぬ。あれは商人の倅でござる。」と言つて、後に秀吉の勘気を蒙つたりしたのは、当時の武士が、いかに商人を不潔視して賤辱してゐたかといふことと、併せて行長に対する清正等の心理を如実に説明するものである。
 しかし行長の人物は、清正等と全くちがつたタイプであつた。おそらく彼は、秀吉の不世出の大雄志を知つてた、殆ど唯一の部下であつたらう。秀吉の目ざした所は、単なる島国日本の経営でなく、大陸日本への雄大な発展だつた。もし出来得べくば、当時の農業国たる封建制の日本をして、大陸貿易による商工業の資本国家にすることが、秀吉の宿願であつたかも知れないのだ。そしてかかる秀吉の大雄志を知つたものは、彼の凡百の武将の中、実にただ小西行長一人であつた。彼が早くから切支丹宗に帰依し、その信徒と伴天連の保護者であつたのは、一には彼の浪漫的な性格によつたのだらうが、一には以てその大陸政策に利便しようとしたからであらう。
 石田三成は、かうした人物のタイプとして、行長とはまた別個のものに属してゐる。宗教上に於ても、彼は熱心な仏教信者であり、切支丹にはむしろ嫌厭の敵意を持つてた。行長のロマンチストであるに対して、三成はむしろ現実主義者であり、極めて実務的政治家肌の人物だつた。秀吉の遺志を継ぐ場合にも、彼は単に国内統一の経営のみを考へてゐた。要するに小西行長はロマンチツクの詩人であり、石田三成は実際家の政治家だつた。しかもこの二人が唇歯の友情を結んだのは、政略上に於て不離の原因があつたからだ。当時の日本に於ける沿海地方の大名は、ひとり小西行長ばかりでなく、すべて皆外国と盛んに通商貿易し、それによつて巨大な国富財力を蓄へて居た。特に浮田、毛利、島津等の西国大名は、その最も優なるものであつた。朝鮮役の時、秀吉が浮田秀家を総司令官とし、毛利、島津を本隊としたのも、またその軍事経済力を利したのだつた。したがつて此等沿海地方の大名等は、小西行長と利害の関係を一にし、行長を中心とする貿易上の聯盟ブロツクを作つて居た。石田三成が行長に近づいたのは、この点で行長を利用し、聯盟側の大名を自陣に招かうとしたからだつた。
 それ故に関ケ原の戦争は、単なる家康と三成の私闘ではなく、実には此等西国大名の聯盟ブロックと、沿岸を所有しない山国地方の大名との、政治イデオロギイの衝突による戦争だつた。東軍家康側に属したものは、関東及び東北地方の武士大名であり、西軍に属したものは、四国、九州、山陽諸方の武人であつた。前者はその領土の地理的関係から、海外貿易の利を知らず、一般の商船海軍をも持たないので、もつぱら農業本位に発育した陸軍国の武士たちであり、後者はむしろ、貿易と商業に国富を蓄へた海軍国の武士等であつた。したがつてまた両者の気質もちがつてゐた。前者の気風は、あくまで質素健実を尊ぶ農民風の山国気風であるのに、後者の西国武士たちは、颯爽明朗の豪華を好む海兵的大陸気風であつた。
 かうした関ケ原両陣の合戦は、西洋史に於けるスパルタ、アゼンの戦争に髣髴としてゐる。スパルタとアゼンの戦争は、陸軍国と海軍国の戦争であり、農業国と商業国との衝突であり、封建国と民主国の合戦であり、また武力至上主義者と文化讃美主義者と、保守主義者と進歩主義者の決闘だつた。日本の歴史上では、かうしたギリシヤ戦争が二度繰返される。古くは源氏と平家の合戦がさうであり、近くはこの関ケ原の戦争だつた。そして西洋でも日本でも、常に国内戦争に於て勝利を得るものは、必ず陸軍国の側に定つてゐる。アゼンがスパルタに敗れたやうに、西国大名の聯盟側は、この一戦に脆く敗滅してしまつたのである。しかもペルシヤ戦争の時、ギリシヤを国難から救つたものはアゼンであり、朝鮮役で日本の国威を海外に輝かしたものは、此等敗亡した西軍の将士であつた。
 それ故に関ケ原戦争を象徴するものは、徳川家康と石田三成でなく、むしろ加藤清正と小西行長である。農民的な誠実性と、山国的な質素剛健性と、封建的な保守主義思想と、島国的潔癖な武士道精神との所有者であり、日蓮宗の熱心な信者であつた加藤清正は、それ自ら東軍の武士気質を象徴してゐる0そして貿易商人であり、進歩主義者であり、切支丹信者であり、豪放明朗の海国日本を夢みた小西行長は、正に西国大名の範疇的風貌をシンボルしてゐる。見よ小西行長といふ文字の視覚からして、いかに颯爽たる浪漫的の壮年武士を表象し、加藤清正がいかにまた剛毅篤実の対蹠人を表象するかを。(過去の歴史家が、清正を過度に賞頌し、誠忠無比の典型武人である如く伝へたのは、徳川氏の意を迎へる御用史家が、これによつて清正の仇敵たる石田、小西の徒を、間接に誹謗讒訴するためであり、併せて関ケ原戦争の大義名分論を抹殺するためであつた。二つの党派、もしくは二人の人間が仇敵として争ふ時、その一方を正義として賞揚するのは、間接に他の一方を不義として中傷することになるからである。室町時代に出来た「太平記」が、楠木正成に好意ある筆を執つてるのも、尊氏の政敵であつた新田義貞を、これによつて間接に誹謗する為であつたと思はれる。)
 関ケ原の戦争にして、もし西軍の勝利に帰し、小西、浮田等の統治する天下になつたら、おそらく日本の世界的地位は変つたであらう。すくなくとも日本は、もつと早い以前に開国し、支那、南洋、ビルマ方面に発展して、経済的領土的に富裕な地盤をもつことができたであらう。然るに政府編輯の小学歴史は、むしろ東軍の勝利を祝福して、家康の武略を讃美してゐるやうにさへ思はれる。そして尚それ以上に、徳川三百年の幕府政治をも、北條氏と同じく、その所謂「善政」の故に賞頌してゐる。徳川氏の政治は、全く利己主義の幕府本位であり、自家の安泰を計るためには、あらゆる圧制非道をあへてし、民の自由を奪つて畜類の如くに馴育し、以て三百年の治を保つたのである。そしてこれが史家の所謂「善政」といふものなのである。
 だがかうした史家の批判眼が、初めから基準してるモラルは明らかである。源氏に同情して平家を憎み、北條を讃美して足利を貶し、家康に味方して西軍に冷酷な史家のモラルは、日本歴史を通じて終始一貫して居り、同じ一つの基準を語るものに外ならない。そしてその基準とは、スパルタ的武勇を尊ぶ陸軍精神に外ならない。然るに文化的なる一切のものは、多くの場合スパルタに発生しないで、商業海軍国たるアゼンに生育するのが常であるから、小学教育の歴史上では、必然にまた文化主義が擯斥され、国民を惰弱化するものとして教へられる。九段靖国神社前に大村益次郎の銅像を建て、上野に西郷隆盛の像を建て、東西対蹠して日本陸軍の創始者を表頌する政府は、国民教育の基本観念に於ても、その精神を以て望んだのである。つまり言へば私たちは、年少の時から小学校で、陸軍省編纂の日本歴史を読まされたのである。(もし海軍省の編纂だつたら、少しく趣きのちがつたものになつたかも知れない。)
 かうした政府の教育方針は、過去に於て誤つてゐないばかりでなく、新日本の建設と自衛の為に、大いに有意義な実利的効果をもたらした。過去に日清、日露の役で、日本が大勝利を得たのもこの為だし、現に日本が世界列国に伍して一大強国となつたのも、また我等の誇る日本兵が、世界無比の勇兵強卒であるのも、ひとへに皆かうした教育の為に外ならなかつた。しかし一方には、過ぎたるは尚及ばざる如しといふ譬もある。勇将強卒を作るにのみに急にして、新日本の浪漫主義がエスプリする海外発展の策を忘れ、ために世界至る所の国々から、そのあまりにも島国的潔癖性の故を以て、移民の入国を拒絶されたり、ひいては国際上の外交に不評されたりするのは、決して昭和日本の取るべき賢明の策ではない。況んやその偏狭なイデーのために、日本の国粋文化を邪慳に白眼視する如きは、却つて最も愛国の精神に遠いものである。
 王政復古の明治維新は、建武中興の大精神を、新しいルネサンスの様式で継ぐものであり、尊王倒幕の幕末史は、成功した承久の乱ともいふべきだつた。明治新政府が、ゴール人たる武家の手から朝権を回復したのは、単に政治上の価値転換のみでなく、国初以来、朝権と共に栄えた日本文化の大精神を、新たに発揚しようとするルネサンスのためであつた。すくなくとも歌聖明治大帝の雄大な御真意は、この点にあつたことと拝せられる。君国の為に一命を捨てて顧みない大和魂は、たしかに世界に誇る日本精神の花であらう。だがそれと同時に、桜花の下に詩を思ふ優雅な文化情操も、また同じく大和魂の分身であり、国粋精神の精華である。武の為に文を廃する勿れ。文の為に武を怠る勿れ。私はそれだけを言はうとするのである。