文芸に於ける道徳性の本質

 自分がこの標題のことを考へたのは、かつて数年前、故芥川龍之介のアフオリズム 「侏儒の言葉」を読んだ時以来であつた。当時自分は、芥川君の作品を愛読して居た。もつとも自分の読んだのは、死の二三年前の作品(河童、歯車、西方の人など)であり、その以前の小説については、ごく初期のもの以外に、殆んど知らないといふ方が好い位であつた。
 ところで「侏儒の言葉」は、そのアフオリズムの形式からが、日本では珍らしく類のない文学なので、当時やはりその種の文学を書いてた自分は、特に注意して精読し、毎号それを巻頭に連載した雑誌「文藝春秋」を、殆んど欠かさずに読み通した。前にも言ふ通り、当時自分はその作者の小説が好きだつたので、このアフオリズムにも期待するところが多かつた。然るにその読後感は、いつも自分の期待を裏切り、甚だ物足らないものが多かつた。単に物足らないといふだけではなく、何かしら自分の反感をそそり、或る漠然たる怒りを感じさせるものがあつた。何故にその断片語録(アフォリズム)が、自分の感情を刺激し、義憤に似た反感を感じさせたのだらうか。
 当時自分は、その不思議な原因を色々に考へてみた。勿論その原因は、自分と作者との間に於ける、思想上の
異論や衝突にあるのではなかつた。実際またそのアフォリズムには、作者のドグマを強要的に主張するやうな箇所は少しもなかつた。のみならず作者の言ふところは、理性上に於てすべて皆肯定された。だがそれにもかかはらず、自分の中の或る「道徳心」が、ひどくそれを良心的に反感した。或る漠然たる、言葉に言へない判断性が、許しがたくそれを「反道徳の文学」と命名した。そのくせその断片語録には、普通の意味で破倫的のことや、非道徳的の箇所は少しもなかつた。
 その時以来、自分は文学に於ける道徳性の本質を考へて来た。そもそも文藝上に於けるモラリチイとは何だらうか。長い間、この疑問が漠然と心の隅に残つて居た。ところで最近、偶然また芥川全集を通読して、古い疑問への解決を発見した。自分が改めて読んだものは、乃木大将のことを書いた「将軍」、細川ガラシャ夫人のことを書いた「糸女覚え書」、それから「或日の大石内蔵助」等々であつた。何れも皆、一気に読み終つたほど面白かつた。しかもその読後に残つた感想は、何かの或る漠然たる、物足らなさの不満であつた。しかもその不満の底には、前にアフオリズムを読んで感じたやうな、同じ種類の道徳的反感が実在して居た。
 そこで初めて、自分は一つの原理に到達し得た。つまりこの作者の場合では、対象への「同情」が欠けてるのである。乃木大将といふ一人物を、作者はモノマニア的○○思想に憑かれた一奇人として、意地悪くカリカチュルに描き出してる。その限りに於て、この小説は読者に諷刺文学的の興味をあたへる。しかしそこには、乃木大将の戯画だけが描かれて居て、その一将軍の生きてる人間が書かれて居ない。歴史上で貞婦の鑑と言はれる細川ガラシャ夫人は、糸女なる侍女の覚え書によつて、作者から散々にやつつけられ、鼻もちのならない倨傲の女に書かれて居る。それは世の定説を裏返し、逆の一新説を立てたことに於て、たしかに読者の興味をひく。しかしその興味は、定説を裏返すことの興味に尽きてる。将軍に対すると同じやうに、ガラシャ夫人に対してもまた、作者は少しもその実の人間を書いて居ない。
 すべての善き文学者は、一面に於ての非人情と残酷さを持たねばならない。多くの偉大なる作家たちは、果敢に道徳を蹴り飛ばして、悪魔と共に同棲して居る。意地悪さは文学の特色である。そこでゾラやモーパッサンやは、聖人を凡俗化し、英雄を小人化し、人間性のあらゆる卑劣さと醜悪とを、残忍に意地悪くムザムザと暴露させてる。だがしかし彼等の場合は、その対象される物の中に、普遍的なる一般の人(人間性の本相)を描き出してるのである。彼等の作者は、決してその対象を憎んで居るのではない。反対に彼等は、そのモデルの中に自我の人間性を見てゐるのである。ドストイエフスキイの小説は、時に醜劣無慚の獣慾漢や、人間中での最下等の破廉恥漢やを、最もひどく暴露的に描き出してる。しかもその一人一人の人物が、何れも作者の分身であると思はれるほど、深い人間性の理解と同情をもつて書いてるのである。
 それ故に文学の本質は、結局シムパシイといふことに存するのである。文学のモラリチイには、初めから善悪の観念は存在しない。ただ対象(人間、社会、自然)に対する同感があるばかりである。或る文学者は、対象の悪ばかりを好んで暴露し、或る文学者は、反対に善ばかりを摘出する。しかし何れの場合にせよ、作者はひとしく自己の魂を書いてるのである。対象と作者は一つである。故にまた文学の本質は、個性の狭い窓を通じて、万有にひろがるところの共感であり、同情であり、そして要するに「愛」なのである。
 芥川龍之介の小説やアフォリズムに対して、自分の漠然と感じた不満は、実にこの文学的モラリチイの欠乏から来る不満であつた。乃木大将に対しても、ガラシャ夫人に対しても、作者は何の共感を感じて居ないのである。単に対象の人物を、皮肉に意地悪く見ようとして、反定説的の興味で書いてるにすぎないのである。
 「侏儒の言葉」に至つては、それが最もひどく極端だつた。それは作者の人生観や文明観やを、断章的な思想に書いたアフォリズムで、もとより小説とは別であつた。しかしその人生観や文明観やは、小説の人物に対する作者の見方と、全く同じやうな見方であり、共感性のモラリティが全く欠けて居るのである。文学上に於ては、抽象上の概念思想といふものは存在しない。思想する文学者は、詩や小説を書く文学者と同じであり、主観の個性的な窓を通して、普遍の人間相や文明相やを見て居るのである。故に或る対象を罵るものは、罵る所に作者のイデアと良心が発見される。然るに「侏儒の言葉」には、その良心が少しもなく、単に江戸ツ子風の気の利いた皮肉によつて、文明や社会に厭やがらせを言つてるのである。それには多くの学識と機智があつた。しかも文学の本質すべき、魂のモラルが喪失してゐるのであつた。自分がそれに対して、漠然たる道徳的反感(良心の怒り)を感じたのは、つまり自分の中のストイックな藝術家が、許しがたい魂の冒涜を、それの中に見たからであつた。
 そこで文学上に於ける道徳性とは、つまり言つて万有への共感性、同情性といふことになるのであらう。しかしその共感性は、結局自己の人間性に本質して居り、自我の「真実の魂」を書くといふことになるのであるから、要するにまたレアリズムといふことにも同じになる。要するに藝術上では、美も、真実も、現実も、イデアも、モラルも、個性も、すべて皆本質上では同じ一つの言葉に過ぎない。ただ文藝に対して、倫理上の見地から批判する場合にのみ、それがヒューマニズムの解説をとるのである。