農村文学について
日本には「農村」があつて「田園」がなく、西洋には「田園」があつて「農村」が無いといふ人がある。つまりその意味は、西洋の田舎といふものが、日本のそれに比して遙かに文化的で、住民の生活程度が高く、日本語で田園といふ言葉が意味する程度にまで、明朗化してゐるといふことなのであらう。実際、日本語で農村といふ言葉が直覚的に与へる感じは、暗く、憂鬱で、貧乏臭く、封建的な因襲と迷信とにみち、陰惨な自然と環境とに囲まれてるところの、或る部落とその住民とを表象させる。西洋の言葉で、田舎または田園といふ言葉は、彼等の詩や藝術に現れて居る如く、常に清教徒的に素朴で、明朗健康の自然美や労働美を表象してゐるのに、日本語の農村といふ言葉は、むしろその対蹠的な暗い感じさへ表象するのである。そしてこの原因は、言ふまでもなく彼我の農村そのものが、実質的に大いに異つてゐるからである。
独逸の天才的建築家と言はれるタウト氏は、その日本旅行記の中で、日本の農村と農民の生活状況を観察して、世界に類なき悲惨な農民だと言つて同情してゐる。実際、外国文学や西洋映画などによつて、僕等が間接に知る程度に於ても、独逸や仏蘭西などの農村といふものは、日本のそれに比して楽園のやうなものであり、ミレーの絵やワルズオーヅの詩が描写してる、あの長閑で美しい牧歌情調が、そのまま現実してゐるやうなものである。ところで日本の農村には、実際に決してこんな「詩」はないのである。そして詩がないといふことは、住民の生活程度が甚だ低く、悲惨な環境にあることを証左してゐる。
かうした日本の農村は、政治的には勿論社会の欠陥であり、改革の策を急務とすべきは言ふまでもない。しかし一方から考へれば、我等の社会にかうした特殊の農村があるといふことは、日本の文学と文学者とにとつて、特殊の恵まれた事情であるかも知れないのである。なぜなら僕等は、かかる農村を取材することによつて、世界に類なき特殊の農民文学や農村文学やを、ユニイクに書き上げることが出来るからだ。
今日、欧羅巴や亜米利加において、農民文学とか農村文学とか言はれてるものは、僕等日本人の眼から見れば、上述の理由によつて、実は田園文学とか牧歌文学とか言はるべきものにすぎない。ワルズオーヅやロングフエローの詩は論外としても、「にんじん」や「葡萄畑の葡萄作り」によつて、今日仏蘭西の代表的な農村文学者と言はれるルナアルの小説の如きも、僕等の日本人的な視点で見れば、あまりに詩的にすぎるところの、あまりに甘美な牧歌的田園文学にすぎないのである。
僕等の表象する現実の農村文学といふものは、もつと遙かに深酷で、陰惨で、セチがらくその上にまた、もつと遙に原始的で、伝統的で、タブー的で、迷信的で、したがつてまた著るしく神秘的のロマンスに満ちた文学である。つまり例をあげて言へば、映画「土」によつて翻案化された、長塚節の小説のやうなものなのである。(翻案化されたといふのは、あの映画の土には、原作にないタブー的、迷信的な農村神秘性を、その薄暗い背景の自然描写や、雨乞ひの原始的で気味の悪い太鼓の音等によつて、意識的によく取り入れてあるからである。)
今日の社会に於て、尚封建的暗影を多分に保留し、悲惨な生活に喘ぐ農村を持つてることは、如何に考へても日本の名誉とは思はれない ― たとへそれらの農民中から、兵士としての理想的な青年が生れようとも ― しかしながら一方で、かうした農村を持つてることが、日本の現代の文学者にとつて、そのユニイクな世界的創作に資材するため、好個の恩恵であることも疑はれない。況んや文学の素材は、交通の便利と逆比例をして、世界的にどこでも行き語つてゐる。題材の新奇を求める為に、人は飛行機に乗つてアラスカまで行くのである。未だ知られざる日本の神秘と面影とが、文学によつて世界に新しい興味を呼び起すのは、ひとりラフカヂオ・ヘルンの文才にのみ待つべきではないだらう。