ヒューマニズムについて
ヒューマニズムが文壇の議事問題になつてから、皆が急にあわて出し、平常怠け者の生徒たちまで、西田幾多郎先生や三木清先生の教室に出席して、哲学講座のノートを取り、にはか仕込みの試験勉強に夢中になつてる有様である。だがそんな試験勉強で詰めた智識が、文学上で何の役に立つだらうか。そもそも「人間性とは何ぞや」といふ問題は、「宇宙とは何ぞや」といふ問題に同じことで、提案自身の中に無限大の概念内容を包んでゐる。もしこれを論ずれば、優に厖大の哲学体系が成立し、実に全一巻の宇宙論となるのであらう。しかもその見地の支点を換へることで、各人各説、どんなにでも解釈ができ、結局して何の定説的一致もない問題に帰するのである。
文藝上に於けるヒューマニズムの問題は、かうした哲学上の抽象原理を問ふのではない。文藝上でのヒューマニズムとは、端的に言つて文化運動の一思潮(ジャーナリズム)にすぎないのである。そもそも「人間主義」といふ以上は、その反面に「反人間主義」を仮想しなければならない。この対立を考へずして、単に漠然と人間性の本質を研究するのは、哲学者の書斎に於ける仕事であつて、文学者の人生に関する仕事ではない。(日本の文学者は、しばしばかうした常識が欠乏してゐる。)文藝上の歴史に於て、古来しばしば提出されるヒューマニズムとは、非人間的なる文化、もしくはその時代思潮に対して提出されるところの、人間的なる物の抗議、もしくはその批判を意味してるのである。たとへばルネサンスに於けるヒューマニズム−これが近世に於ける人間論の出発であつた−は基督教の神権論と、その人間性の禁圧に対する抗争だつた。そこで当時のヒューマニスト等は、すべてに於て基督教の非人間的倫理学に反対した。たとへば基督教が、霊を尊んで肉を卑しみ、没我を義として主我を悪み、精神を美として官能を醜としたに対して、彼等は肉を主張して本能主義を称へ、官能の美を讃へて耽美主義を説き、主我を強調してエゴイズムを宣言した。即ち近代文藝に於ける一切の代表的思潮(個人主義、享楽主義、本能主義、耽美主義等)は、すべて皆ルネサンスのヒューマニズムから所因したものなのである。
故にヒューマニストといふ言葉は、近世以来の欧洲では、それ自ら基督教への抗争者、プロテスタントを意味して居た。故にまたその内容は、本質的に異端主義や悪魔主義と同義字だつた。デカダン詩人のボードレエルが、西洋の文学史上でヒューマニストの代表の如く思惟されてるのは、特に悪魔主義を標榜して、宗教のモラルに抗争したからであつた。オスカア・ワイルドがまた、その耽美主義を称へたことで、ヒューマニストの表象の如く思惟されてる。即ち言へば、ルネサンスの生んだ人間主義とは、神人格的なるもの、超人間的なる物の宗教的イデアに対して、人間性への自然的還帰を叫び、極端には、人間獣としての本能生活をさへ謳歌したところの、一の文化的時代思潮であつた。この場合に於て、人間性のモラル、即ち人間が人間として、人間らしく生活するといふ意味は、霊の神格から遠く、より自然人的に、より動物本能的に生きることを意味してゐた。
ヒューマニズムの観念は、しかし近代の露西亜に於ては変つて居た。露西亜の文藝思潮に於ては、これがもつと基督教的に信仰深く考へられてた。特にトルストイやドストイエフスキイやは、ルネサンスの人間主義者とは、殆んど全く対蹠的にこの問題を考へて居た。即ち彼等は、真の敬虔なる基督教的信念からして、神人格的なる物をイデアし、人間性のモラルを律して、神への奉仕と隣人への博愛人道とに求めた。つまり彼等の場合に於て、人間が人間らしく生きるといふことは、より野獣的なもの、本能的なものから遠く、逆に霊的なもの、神格的なものへ近づくことを意味してゐる。そこでこの場合でのヒューマニストとは、人類共存の犠牲や博愛を精神し、基督教のモラルによつて、人生の当為を掲げる人道主義者や博愛主義者といふことになる。即ち同じヒューマニズムといふ言葉が、反基督教の立場から言はれる場合と、正基督教から言はれる場合とで、逆に全く正反対になつてくるのである。(露西亜に異端主義のヒューマニズムがなかつたのは、露西亜がルネサンスを経過しない為であつた。米国でヒューマニズムといふ言葉が、普通に「人道主義」と解されるのも、ほぼ露西亜と同じ事情によつてる。)
所で今日の日本に於て、ヒューマニズムが議事されてるのは、一体何を対象にしてゐるのだらうか。元来、基督教の伝統情操がない日本に於て、その反動たる人本主義のあるわけがない。もつとも一昔前に、白樺一派のトルストイズムが流行し、基督教的な人道主義が流行したこともあつたが、今日文壇で議事されてるヒューマニズムは、それとは別の命題に属するらしい。思ふに今の文壇が議事してるヒューマニズムとは、東洋的(特にあまりに日本的)な文藝に対して、西洋的エスプリの文藝を欲求することの議題であらう。つまりもつと詳しく言へば、自然への融合と没主観を理念するところの、東洋風の自然主義文学に対して、逆に自我の主観を主張し、あくまで人間性の我執を強調しようとする、西洋風の人本主義文学を意識してゐるのである。東洋人と西洋人との、人生や文藝に対する態度の差別は、一言に要約して、実に「自然主義」と「人間主義」との対別である。俳句等の詩歌を初めとして、現代の小説や随筆等に至る迄、日本文学の著るしい特色は、実に自然主義的といふことである。但し此処に言ふ自然主義とは、ゾラ、モーパツサン等によつて代表されてる、西洋文壇の自然主義ではなく、自然を人間性の上に置き、自我を自然の中に同化させようとするところの、自然本有主義の謂であり、仏教や老荘やの思想と共に、古くから東洋人に伝統してゐる情操である。
西洋的なる文化情操は、すべてに於てかかる自然主義と対蹠してゐる。自我の主張と、主観の強調と、人間性の対自然征服慾とは、ギリシャ以来、西洋の文化情操に本質してゐるエスプリである。中世の基督教は、かかる人間主義を邪悪視し、希臘的なるものを異端として悪魔視したが、その基督教さへも、実は同じ人間主義の弁証論的な反語であつた。基督教は霊を尊んで肉を賤しみ、人間本然の慾望や感覚を抑圧したが、その宗教の精神してゐるものは、飽くまで執拗な自我の主張であり、主観のロマンチックな宗教的幻想を、モノマニア的に追求することの熱情である。基督教と仏教とは、絶対的に別世界の宗教であり、殆んど少しも似て居る所がない。万有一切が虚妄であり、人間の主観的なる意識生活が、本来煩悩の無明にすぎないことを教へる仏教は、最も本質的な意味に於て自然主義であるが、基督教の情操中には、全然自然主義的な物が存在しない。基督教は徽底的に我執的であり、人間主義を強調した宗教である。それ故に西洋的なるすべての思想は、「反基督教」のヘレニズムも、「正教会的」の人道主義も、その弁証論的な止揚上では、ひとしく共にクリスチャン的であり、正しく人本主義的なのである。
ところで東洋の文学、特に日本の文藝では、この人本主義のヒューマニズムが、基督教と共に根本的に欠けてるのである。西洋の文学には、ハムレット型の悲劇性と、ドンキホーテ的の悲劇性と、二つの対立する精神があるけれども、その何れの場合の精神も、徹底的に自我を主張し、飽くまで執拗に主観を貫かうとすることから、避けがたく破綻に終るところの悲劇性である。然るに日本文学の悲劇性は、芭蕉の俳句や方丈記の類を初めとして、すべて自然の中に融合同化し、主観を虚無に帰することによつて、自ら諦念するところの「侘び」や「寂び」やのリリックである。日本人の文学的性格には、かつて一のドンキホーテもなくハムレットもない。さらにもつと具体的に言へば、「悲劇性(ペーソス)」といふことの語意すらが、西洋と日本では、根本的にちがつてゐるのである。
最近の我が文壇で、事新しくヒューマニズムが議事されてる事情は、同じ文壇の他の一方で、所謂「西洋的知性」が議事されてることと、本原的に関聯してゐることを知らねばならぬ。西洋的知性の本質は、具体的なるものを分析綜合することによつて、一の定義や観念を創造しようとするところの、イデーへの抽象的、浪漫的熱意を本質した知性である。反対に東洋的知性は、具体的現象としての世界を、具体的の現実に於て直観しようとするところの、極めてレアリスチックの実際的知性である。即ち約言すれば、西洋的知性の本質は「浪漫主義」であつて、東洋的知性の本懐は「現実主義」である。そしてこの西洋的知性の出発が、それ自ら人間主義のエゴイズムに淵源し、東洋的知性の出発が、自然主義の没我観に所以してることは言ふ迄もない。即ち「人間主義」と「浪漫主義」とは同義字であり、「自然主義」と「現実主義」とはイコールである。
それ故に我が国の文壇で、最近ヒューマニズムや西洋的知性が議事されて居るといふことは、現にこの国の文壇に於て、近年ロマンチシズムの文学運動が、新たに勃興して来たといふ一つの事実を、批評的に論証してゐるものに外ならない。
日本の文壇では、基督教的のヒューマニズムを「人道主義」と訳し、異端的のヒューマニズムを「人本主義」と訳してゐる。そこで東洋的自然主義に対して考へられてる、今日の問題のヒューマニズムは、「人間主義」とでも訳すべきであらう。