俳句は抒情詩か ?

 かつて或る俳句雑誌で、「俳句は抒情詩か」といふ質問が提出され、一人の俳人と一人の小説家とが、互に反対の意見を述べて議論した。その内容はよく覚えてないが、要するに抒情詩といふ言葉の概念について、解釈の相違を論じたものにすぎなかつた。
 元来言へば、俳句が抒情詩かといふやうな質問は、桜が顕花植物の一種かとか、人間が哺乳動物の一種であるかといふ類の質問と同じく、常識的には解り切つた自明のことで、質問それ自体が馬鹿らしく思はれるのである。しかし人間の心理は不思議なもので、あまりに明白に解り切つたことが質問されると、却つて何かそこに深遠な哲理があるやうに思はれ、質問の本意がバラドックスに解されるのである。たとへば「人間は動物の一種であるか」といふ質問を、改めて識者から提出されると、だれも皆急には返事ができなくなる。もし「然り」と筈へたら、質問の深遠なイロニイさへも理解し得ない、小学生的痴人と思はれるからである。俳句が抒情詩であることは、それがポエヂイの本質に於て、侍しをりや寂しをりやの所謂俳味を本領する詩であること、そしてこの俳味(侘びや寂びや)が、それ自ら一種の東洋的リリシズムであることを考へれば、たれでも常識的に解り切つた話である。だがこの質問が、改めて世の識者やジャーナリストから出される時、不思議にまた人々が明答を避け、懐疑的になることも事実である。
 そこで故意にむづかしく考へれば、人間が動物でないといふことの弁証が、神学者によつて立派に立つと同じく、俳句が抒情詩でないといふ弁証も、考へ方によつては立つのである。なぜなら「抒情詩」といふ言葉は、元来西洋の一詩形であるリリックを詳した翻訳語であり、そして日本の俳句は、本来西洋の所謂リリックではないからである。もつと詳しく説明すれば、西洋のリリックといふ詩形は、他の叙事詩や劇詩やバラツドやに対して、一種特別の規約づけられた詩学的形式を具へ、かかる一定の詩形態によつてフォルムされた詩を言ふのである。然るにそのリリックの規約された詩形態は、日本の俳句と全く押韻やシラブルの方則を異にしてゐる。即ち言へば、俳句はリリックの詩形態に属しないところの、別個の詩文学に属するのである。
 しかしかうした弁証は、言ふ迄もなくスコラ的、唯名論的であり、事物の本質を概念の名辞によつて判定するものにすぎない。「抒情詩」といふ翻訳語によつて、僕等が観念に浮べてるのは、さうした西洋詩学の規約するフォルムではなく、かうした詩文学の本質してゐる詩精神なのである。そこでこの詩精神の本質上から、俳句が果して抒情詩といふ西洋詩のイデーに当るか否かを、今一応念のために考へてみよう。
 抒情詩といふ言葉は、西洋近代の意味 ― すくなくとも十八世紀末葉以来の意味 ― では、二つの重要な特色を要素としてゐる。一つは、他の叙事詩や物語詩と異り、主観の情緒、意志、イメーヂ、気分等のものを、主観それ自身の表象として直接に表現することであり、他の一つは ― これが可成重要のことであるが ― 特に他の詩にまさつて、言葉の音楽性や旋律感やを、痛切に要求するところの詩精神を、内容に必然してゐるといふことである。そこでこのイデーから見ると、俳句が大体に於て抒情詩の一種であることは疑ひない。すくなくとも俳句は、西洋の叙事詩や物語詩ではなく、また警句詩や諷刺詩の類ともちがふ。

  さびしさや花のあたりのあすならふ  (芭蕉)
  この秋は何で年よる雲に鳥       (芭蕉)  
  秋ふかき隣は何をする人ぞ       (芭蕉)

といふ類の俳句が、作者の主観的な情緒(寂しさや悲しさ)の、沁々とした詠歎であり、したがつてまたその詩語に音楽的のメロヂイが強く要求されてることは、表現された作品の節奏を見ても解るのである。だがしかし、一方ではまた俳句の中に、比較的かうした抒情性が稀薄して居り、代りに知性的の印象性が克つたものもある。

  草の葉をすべるより飛ぶ螢かな
  蜻蛉や飛びつきかねし草の上
  鶯のあちこちとするや小家がち
  夕立や草葉をつかむ群雀

 この種の俳句は、前の抒情的の物に比して、著るしく絵画的である。或はスナップ写真的である。したがつてまた詩の節奏する音楽性も、前の物に比して稀薄であり、ややメロヂアスの美を快いてる。詩の意図してゐる効果は、むしろその言葉のメロディにあるのでなく、語の表象する印象性の強調にある如く思はれる。即ち言へば、それは音楽的であるよりも絵画的である。
 所で問題は、かうした絵画的、客観描写的の詩が、厳正の意味でリリックと言ひ得るかといふ点にある。すくなくともこの種の俳句は、西洋詩学の定義する如き「主観の直接な表現」ではない。もちろん西洋にも、かうした類の自然風物詩はたくさんあるが、それがやはり抒情詩の一種と目されてるのは(たとへばワルズオーヅやホイツトマンの詩などのやうに)それが純粋の自然描写でなく、その自然美を取材として、作者の思想する人生観や社会観やを、主観のムキ出しにした情熱で書いてるからである。つまり言へばこの種の詩は、前例に掲出した芭蕉の俳句や「古池や蛙とびこむ水の音」などと、本質に於て同じものである。ただ異なる点は、芭蕉等の思想が東洋的虚無観を本体とし、その情操する音楽の音色が、胡弓のやうな物悲しいぺーソスを帯びてるのに反し、ホイツトマンなどの西洋詩人が、キリスト教的ヒユーマニズムの思想を把持し、したがつてまたその楽器の音色が、彼我大いに異なるといふ一事にすぎない。
 しかし他の別の俳句、「草の葉をすべるより飛ぶ螢かな」といふ類の詩には、上述の芭蕉の俳句に見るやうな、主観のリリカルの詠歌もなく、主観の思想する哲学もない。この種の俳句は、単に自然を自然として、その有るがままの印象や現象やを、絵画の如く客観的にスケッチしたものに過ぎない。そしてかういふ妙な詩といふものは、西洋には殆んど類がないのである。したがつてそれは、西洋人の思惟する「抒情詩」といふ観念からは、少しく別趣の風変りな文学に属するだらう。前に述べた或る日本の文学者(横光利一氏?)が、俳句は抒情詩に非ずと言つた理由も、おそらくこの点の見解にちがひないのだ。
 さて此処まで考へると、俳句が抒情詩であるかといふ質問も、結局その質問自身の中に、論理上の矛盾が指摘されてくる。つまりかうした質問は、日本の床の間が西洋のマンテルピースであるかとか、日本の大名が西洋のキングであるかといふ質問に同じことで、本来異質的の別な物を、強ひて同じ言語に概念させようとすることから、避けがたく生ずるところの非論理なのだ。つまり言へば日本の俳句は、西洋のエピツクやリリツクといふ言葉によつては、正確に翻訳のできないところの、世界に類なき特殊のポエムなのである。ただ確実に言へることは、それが西洋の詩の中では、リリックに最もよく類似した特質を持つてるところの、言はば抒情詩風の詩だといふことだけである。
 そこで結論として、かういふことが言へると思ふ。
(俳句の或る多くのものは、本質に於て、まさしく西洋の抒情詩と同じであり、したがつてそれは抒情詩の一種である。だが俳句の或るものは、多少ある点で、西洋の抒情詩とちがつて居り、抒情詩といふ名辞に適切しない場合もある。)

 しかし西洋の詩といふものも、近頃はよほど妙なものに変つて来た。特に最近の仏蘭西あたりの詩には、抒情詩だか警句詩だか、ちよいと僕等に見当のつかないものが多い。この頃ルナアルの「博物誌」といふのを読んだら、次のやうな句文が沢山あつた。二三の例をあげて見よう。

     虹矧

  こいつはまた精いつぱい伸びをして、長々と寝そべつてゐる ― 上出来の卵饂飩のやうに。

     やまかがし

  いつたい誰の腹から転がり出たのだ、この腹痛は?

     驢馬

  大人になつた兎

     蝶

  二つ折の恋文が、花の番地を探してゐる。

     蟻

  一匹一匹が、3といふ数字に似てゐる。それも、ゐること、ゐること!
  どのくらゐかといふと、33333333・・・ああ、きりがない。

     あぶら虫

  鍵穴のやうに、黒く、ぺしやんこだ。

     蚤

  弾機仕掛けの煙草の粉。

     鯨

  コルセットを作るだけの材料は、ちやんとロのなかにもつてる。が、なにしろ、この、胴まはりぢや・・・。

 「にんじん」や「葡萄畑の葡萄作り」で知られてるルナアルは、詩人よりは小説家として定評されてゐる作家であるし、かうした「博物誌」のやうなものも、その自然観察の印象的覚え書として出したもので、詩といふ銘題で発表されたものではない。だがそれにもかかはらず、かうした一種の文学が、仏蘭西では詩壇的に問題にされ、日本の俳句から啓示されたHAIKAI(警句的抒情詩)のエスプリとも、文学的に通ずるものと見られてるらしい。実際また、彼等のハイカイ詩と称するものを、その翻詳を通じて見る限りでは、内容上に於て、たいてい皆この種の文学である。
 だが日本人の詩学では、かういふ文学を俳句とは考へないし、もつと厳重の意味では、本質的の詩とも考へない。上例のやうな文学は、評者の岸田國士氏も言つてるやうに、ルナアルの日記等に現はれてる、作者の自然観や人生観の思想的背景を考へることなく、単にこれだけの物として読んでは、詰らぬ機智の玩弄文学で、単に気の利いた洒落といふだけの物にすぎないのである。然るに日本の俳句といふ文学は、決してこんな機智や思ひ附を本領とするものではない。俳句の本領とするところは、侘びや寂びやの詩的情感を、自然の風物に寄せて吟詠するにある。上例の、「蝶」「やまかがし」「蚤」「鯨」のやうなもの ― 単に思ひ附の機智を主意にしたもの ― は、芭蕉以前に於ける談林派等の俳句には多分に有つたが、芭蕉の事故によつて、日本詩歌の正しい観念から、真の「詩に非ざるもの」として除外されてしまつたのである。
 所が西洋では、このルナアルの「博物誌」の如きが、その新奇の故に悦ばれて、数十版を重ねた上に、集中の句が多くの音楽家によつて作曲され、最近文壇の代表的名詩の一に数へられてゐるといふのだから、僕等の日本詩人にとつては、いささか意外の感に耐へないのである。日本でもし、かうした詩集を出版した人があつたとしたら、詩壇はせいぜい好意に評して、二流の上位ぐらゐにしか買はないだらう。
 ひとりルナアルだけではない。最近仏蘭西あたりの詩は(堀口大学君などの訳詩によつて見ても)かうした機智や思ひ附を主要素とする、軽いサロン文学的のものが多いらしい。ヴアレリイやコクトオなどの詩でさへも、少し苛酷に批評すれば、機智文学の上乗のものにすぎないだらう。すくなくとも彼等は、頭脳の詩人であつて心臓の詩人ではないかも知れぬ。西洋の詩の史家は、時にしばしば、ボードレエルを「浪漫派最後の詩人」と呼ぶけれども、この評語をややイロニイに普遍すれば、ボードレエルを「最後の仏蘭西詩人」と呼ぶ意味にもなるかも知れない。とにかく二十世紀に入つてから、欧羅巴は文化的に腐敗し尽して、真の健全な詩精神を喪失したことは事実である。
 談が余事に入つたが、とにかく西洋の近代詩中には、厳重の意味で ― といふのは、言葉の正統な解義によつて ― 抒情詩と呼ぶことの出来ないものが、益々多くなつて来るらしい。しかも彼等は、さうした短篇の近代詩を、警句詩とも諷刺詩とも呼ばず、また勿論、叙事詩とも物語詩とも呼んでゐない。西洋の詩壇では一般にさうした近代詩を概称して、やはり「抒情詩」と呼んでるのである。して見れば日本の俳句が、近代的の意味に於て、西洋の所謂抒情詩に属することは、桜が顕花植物に属する如く、当然すぎるほど当然の話である。況んや註1の如く、西洋人自身が俳句を称して、一種の抒情詩と呼んでるのであるから。

 註1 日本の俳句は、西洋の詩人によつて「警句的抒情詩」と称されてゐる。警句詩即ちエピグラムは、西洋詩の中で最も短い形式のものであるから、この訳語の意味は「最短詩形の抒情詩」即ち「珠玉的抒情詩」といふ意味だと思ふが、彼等の所謂HAIKAI詩を読んで推察すると、この「警句的」といふ言葉が、単に短詩形といふだけではなく、詩の内容上の意味にも関してゐる如く思はれる。つまり彼等の西洋人は、俳句の本領たる侘びや寂びのリリツクよりも、むしろその機智の警句的な閃めきを悦ぶらしい。だから彼等が真に理解し得るものは、芭蕉や蕪村の俳句(真の抒情詩としての俳句)でなくして、機智の思ひ附や洒落を主とするところの、芭蕉以前の談林俳句や、江戸末期の宗匠俳句なのである。この種の俳句は、厳重に言つて抒情詩といふべきよりは、むしろ警句詩といふ方が正しく、さらに一層適切には、西洋人の訳した如く、正に「警句的抒情詩」なのである。