学者の盲点
学者といふものは、僕等が常識で考へて、解りきつてる詰らぬことを、さも大真理の発見のやうに感心したり、時には馬鹿馬鹿しい思ひちがひをしたりするものである。大小二疋の犬を飼つてたニユートンが、その室内への通路の為に、壁に大小二つの穴を明けた所が、小犬も大犬も、共に大きな方の穴ばかりくぐつて、小さな穴が無駄になつてしまつたといふ話があるが、近頃新聞の学芸欄などに、よく出て来る学者の説話をきくと、しばしばこれに類する失笑を感じさせる場合がある。いつかの朝日新聞だかに、或る有名な心理学者が、雑音と楽昔との作業能率に及ぼす関係を論じ、自己の新説を珍らしさうに述べてゐた。その説によると、従来の学界の定説では、雑音が仕事の能率を減殺するに反し、楽音が能率を増進させるといふことになつてるのだが、自分の実験の結果、それが却つて反対だといふのである。そしてこの実験の方法として、彼が多くの被試験者に課した仕事は、読書、計算、作文、書記、統計、整理等の事務であつた。つまりその仕事をさせてる間に、一方で蓄音機の音楽レコードをかけ、一方で種々の無意味な雑音を鳴らし、両方の音響が仕事に及ぼす能率を比較したのである。この実験によつて、楽音の方が能率を減少させる事を発見し、「従来の定説」を覆へしたと思ふ所に、僕等の微苦笑を禁じ得ない学者の盲点がある。なぜと言つてこの心理学者は、人間の注意力が、意味の知覚によつて集注されるといふ、だれにも解りきつた常識の心理学を忘れて居るからである。雑音、即ち意味のない種々の断片的の音響に比して、一定の意味の旋律を有する楽音の方が、人の注意力を集中させ、したがつて仕事への専念な注意力を攪乱させるのは当然である。故にもしその仕事が、注意力の集中を要しない類の仕事、たとへば手先だけでする機械的の労働作業のやうなものであつたら、楽音と雖もあながち妨害にならないばかりか、却つてそのリズミカルの拍節快感によつて、一層仕事の能率を増進させる場合もある。然るにその学者の課した実験は、読書、計算、書記のやうな、頭脳の綿密な注意力を要する仕事であつた。
これも最近、同じ新聞の学芸欄で見たのであるが、或る知名な学者が「周期的運動について」説を述べてる。その人の説によると、周期的運動、即ち一定の周期によつて、規則正しく反復されるリズミカルの律動動作は、到底人の耐へがたく退屈の動作であつて、もしこれを長時間反復する場合は、おそらく人を狂気に導くだらうといふのである。その実例として、筆者は帝政時代にあつた露西亜の或る囚人刑罰や、二つのコツプの水を絶えず相互に交換反復する作業の事などを引用してゐるが、これもまた同じ意味で「学者の盲点」を感じさせ、ユーモラスの微苦笑を浮べさせた。なぜといつて、上例の如き動作や刑罰やが、人を退屈死の狂乱に導くのは、その運動のリズミカルの為ではなくつて、仕事そのものに意味がなく、所為の内容が無いからである。歩行する人間は、絶えず左右の足を交互に動かし、長時間に亙つて、律動的な周期運動を続けてゐるが、決して必ずしも退屈を感じない。特に体操や舞踏をする人、音楽の拍子楽器(太鼓、拍子木等)を奏する人は、その律動的行為の反復によつて、何の不快な苦悩をも感じないばかりか、却つてそのリズムの故に快感せ味つてゐるのである。つまり言へば、人を退屈死させるものは周期運動でなく、意味のない行為の反復なのである。海岸に来て、海の浪が寄せるのを長く見てゐると、遂に耐へがたく退屈に感ずるのは、浪の周期的運動の為ではなくつて、やはりその運動に意味がなく、無限に同一のことを反復する為に外ならない。
すべてこんなことは、僕等の一般民衆にとつて「常識」にすぎないのだが、それが学者にとつて意外の問題になり、却つて僕等の常識を微苦笑させるのは、ニユートンの犬の場合と同じく、凝つて思案にあたはずの類かも知れない。脂肪質の肥つた人は、概して皆楽天家で陽気であり、筋骨質の痩せた人は、概して皆神経質のペシミストであるといふ、最近の学者の新説を読んで面白く思ひ、僕の或る知人に話したところ、そんなことは常識で解るぢやないかと言つて一笑された。つまり楽天的の人は呑気だから肥るので、神経質の人は気をもむから痩せるのであり、当り前の話ぢやないかと言ふのである。これは卵と鶏との先行問題になるけれども、僕等の素人の常識が、時に学者の常識を疑はしく思ふのも、また多少一面の理由なしとしない。