詩人の風貌

 風貌といふ言葉には、容貌、服装、挙動等の外観から受ける印象と、人物そのものの性格や個性から受ける精神上の印象と、物心両面の意味があるが、要するに外観は精神の反映にすぎないから、結局両面の側から受ける印象の綜合が、所謂「風貌」といふ言葉になるのだらう。
 ところですべての文学藝術は、時代の文化思潮の反映である故に、詩人の風貌もまた、時代によつて特殊の変遷をなし、夫々の時代に於ける、一般詩人に共通な範疇的タイブができるらしい。たとへば西洋浪漫派時代の詩人は、バイロンでも、キイツでも、シエレーでも、ハイネでも、皆同じやうに頭髪を長くし、同じやうに貴公子然たる風采をしてゐるばかりでなく、容貌までが類型的に情熱的で、夢みるやうな大きな瞳と、ギリシャ式の美しい鼻と、女のやうに赤い脣とを持ち、神秘的で憂鬱さうな額をして居る。実際すべての浪漫派詩人には、一つの共通した風貌のタイブがある。僕は少年の時浪漫派の詩を愛読したが、ハイネやシエレーの像を見る度に、自分に詩人たる資格がないことを疑つて歎息した。といふのは、僕の容貌風采が粗野で醜く、彼等浪漫詩人のだれもが範疇してゐる、女のやうに美しい貴公子然たる風貌とは、全く縁の遠い非類型的のものであることを知つたからだ。美少年たらずんば詩人たる資格なしとさへ、当時の僕は真面目になつて考へて居た。
 しかし十九世紀末象徴派の時代になると、大分また詩人の風貌タイブが変つて来た。ボードレエルやヱルレーヌの顔は、何う見ても美少年といふ型ではない。むしろ畸型的にアブノーマルで、酒精や阿片に中毒した、変質者のデカダンスを表象してゐる。もつともこの当時は、欧州詩壇にダンヂイズムが流行し、ボードレエルやラムボオの徒は、伊達風俗のお洒落に浮身をやつして居たが、彼等のダンヂイズムといふものが、もともと時流に対する叛逆精神のイロニイであつて、彼等の衿持する詩人的高邁性が、時代思潮の功利的な商業主義と、その卑俗な商人的俗物趣味とに対する反感から、故意に世俗の常識に異を立てたものである。そこで彼等のダンヂイズムは、詩人の奇行癖として表現され、その異常に風変りの服装と反映して、益々彼等の風貌をグロテスタなものにした。
 この詩人的ダンヂイズムの伝統は、今日尚二十世紀の仏蘭西にも残つて居り、コクトオの如き現代のモダン詩人や、シュル・レアリズムなどの尖端詩人が、奇術師のやうな服装をして、彼等一流の伊達を気取つてゐるのであるが、その点だけを別にすれば、今日二十世紀のモダン詩人は、世紀末のデカダン詩人と、たしかに著るしくその風貌タイプを異にして居る。象徴派時代の詩人に共通してゐた、影の暗い頽廃的憂鬱性と、深刻でアブノーマルな哲学的孤独性とは、今日の詩人の容貌から消滅し、代りにもつと明朗でナンセンスな世俗的社会性が表象されてる。ヴァレリイのやうな詩人は、今日ではむしろ例外的に深刻であるけれども、やはりその風貌から受ける印象は、詩人といふよりはむしろ学者的、思想家的、大学教授的である。
 このやうに、時代によつて詩人の風貌が変化するのは、つまり時代によつて詩の内容傾向が変化し、詩人その人の個性情操が変つて居るからである。そこからして結論すると、ジャン・コクトオなどによつて表象される今の時代は、詩がその高貴性と純真性を失ひ、最も常識的に世俗化した時代ザあるといふことになる。詩といふ文学は、元来貴族的の超俗性をエスプリするものであるから、詩人の風貌にもまた、俗衆と異なるユニイクの特異性があるぺきである。浪漫派や象徴派時代の詩人には、確かにその著るしい特異性があつた。然るに今日現代の詩人からは、次第にその個性が失はれ、殆んど彼等の大多数者は、一般世俗人と同じやうに平凡で特色のない容貌をしてゐる。これは詩文学の時代的低落を語るものか、或はまた現代社会の思潮そのものが、詩人からその個性と純真性とを奪ひ、真の詩と詩人とを生育しがたくするためかであらう。


 日本の詩人も、やはり西洋と同じく、昔から一種特別な風貌を範疇してゐた。明治以前に於て、日本の詩人を代表するものは、俳人、歌人、漢詩人等であつたが、彼等は皆最高のインテリを以て自任し、他の戯作者等の市井的文学者に比して、遙かに気位が高く、詩人としての貴族的超俗性をプライドしてゐた。そこでたとへば、芭蕉のやうな俳詩人は、常に半俗半僧の姿をし、また多くの歌人風韻の徒も、世俗の一般風俗と異なる特殊な衣類−被布十徳のやうなもの−を着用して、風流人特有なユニホームを制定した。此等のユニホームは、西洋詩人の長髪と同じく、彼等が自ら俗衆と差別するところの表示であり、且つその世俗を超越して、美の高い理想に遊び、風流の道にはげむことの、詩人的プライドを表示したものであつた。
 かうした日本の詩人風俗が、本質上に於てダンヂイズムに出発してゐることは、西洋に於けるそれと全く同じである。前に言ふ通り、ダンヂイズムの精神は、俗物と常識への反感である。もちろん芭蕉等の俳人が、半俗半僧の姿をしてゐたことには、仏教の影響があるにちがひないが、その超俗意識の本質には、趣味牲としてのダンヂイズムがあつたことを疑へない。それ故に一般の観念からも、世俗の常識と異なる奇物を愛したり、一般の醜とする異常の物に美を感じたり、或は好んで非常識の奇行をする人々を称して、昔から日本人は「茶人」と呼んでる。茶人とは「風流人」の一般概念であり、広義の詩人をイロニツクに揶揄した言葉である。そして日本の多くの詩人たちは、単にその服装ばかりでなく、人物の本質的風貌そのものが、実際に昔から茶人であり、イロニックなダンヂイストであつた。
 明治になつてから、西洋文明の輸入によつて、日本人の風貌にも大きな変化が生じたけれども、歌人や俳人の風貌には、依然として伝統の本質が残つてゐる。勿論今日の俳人たちは、十徳や宗匠頭巾を着用し、一瓢を腰にたづさへて銀座通りを漫歩するやうなことはしないだらうが、洋服を着た場合に於てさへも、彼等の人柄から受ける印象には、依然として伝統の風流人といふ風貌がある。ただ明治になつてからの新現象は、僕等の新体詩人(新日本詩の詩人)の一群である。人も知る通り、この一群の詩人たちは、西洋の浪漫派や象徴派を模倣し、西欧詩の移植から日本に新しく生れたもので、伝統の遺産を根拠に持つてる「真の日本詩の詩人」ではない。したがつて彼等の風貌にも、歴史的の文化層といふものがなく、外国の詩人や日本の伝統俳歌人等に比し、どこか浅薄で安つぼい感じがすること、あだかも洋服を看てハイカラぶつた今のモダンチャイナのインテリ支那人が、昔ながらの支那服を者、支那古典の伝統を学んだ支那人に比して、風貌人柄に重厚性がなく、浅薄で安つぽい感じがするのと同じである。しかしそれだけまた一面には、革新の覇気にみちて元気颯爽たるところがあり、そこが却つて時代の新人たる青年たちに、魅力的の風貌を印象づけるのである。
 さてこの新体詩人も、明治から昭和の今日に至る間に、その時代的の風貌タイプを変移して来た。明治時代の詩人は、藤村にしろ、泣菫にしろ、透谷にしろ、一つの共通したタイプがあり、風貌のよく類似した点があつた。彼等の若い時の写真を見ると、藤村にしろ透谷にしろ、如何にも純真な熱情家で、天の高い星に向つて、ひたむきに理想を憧憬してるところの、プラトニックな熱病患者のやうに思はれる。彼等の風貌から受ける印象は、いかにも純真で生一本な青年といふ感じと、キリスト清教徒的の潔癖な熱情と、多少幕末志士的な気概と、神経質で憂鬱な風貌とである。明治、大正、昭和の三時代を通じて、どの時代の詩人が、最も真に本質的な詩人(真の詩人らしい詩人)の風貌を具へて居たかと問はれれば、僕は言下に明治時代の詩人だと答へたい。つまり言へば、彼等の生きてた時代(十九世紀の末葉)が、いちばん日本に詩精神の旺盛だつた時代なのだ。
 大正期の詩人になると、ずつと風貌が変つて来た。白秋、露風を初め、柳虹、八十、大学、春夫、犀星等の大正詩人は、明治時代の詩人に比して、詩才に豊富で叡智にたけてるところがあり、それだけ近代的敏鋭の顔をしてゐるが、青年の生一本な純真性と、理想をイデーする詩人的病熱のエスプリには、やや続けてる如く思はれる。白秋等の時代は、日本の詩壇が仏蘭西の影響をうけ、西洋ダンヂイズムが直訳的に流行した時代なので、詩のスタイルや修辞の上でも、ダンヂイ気取りのハイカラぶりが流行し、妙に日本の詩を安シャボン臭くしたのであるが、これがまた詩人の風采にも反映して、一体に当時の詩人の風貌を、モダンチャイナ的にハイカラ臭くした。
 大正末期から昭和にかけては、民衆派やプロレタリア派の詩が流行した。民衆派の詩人等は、一般に日本の農民らしく土臭い風貌をしてゐたが、アナアキストやマルキストの詩人等は、外国の革命家を気取つて長髪にしたり、西洋の労働者が着るやうな洋服やルパシカを着て得意で居た。これもまた一種のダンヂイズムで、無邪気な詩人らしい稚気であつたが、やはり時代の反映に外ならなかつた。彼等の社会主義詩人は、外見いかにも情熱的で、理想に殉ずるイデアリストの如く振舞つたが、案外功利的で文壇出世に抜目がなく、その志士気取りも多くは附焼刃のポーズであつた。その為彼等の新文藝も、築地小劇場の西洋直訳芝居と同じく、インテリの観念遊戯に止まり、日本人の民族的な文化情操に触れないで廃つてしまつた。
 最後に昭和現代の若い詩人は、過去の詩人に比して著るしく知的に進歩し、理解と批判性の点で聡明になつて来たが、詩精神の本質たる情熱を稀薄にし、イデーヘの憧憬を失喪して、一体にヒューマニチイの純真性を無くしてしまつた。したがつて彼等の風貌は、スマートで知識人らしくなつて来たが、それだけ世俗の常識人に近く、真の詩人らしい所が殆んど消滅してしまつた。詩人の風貌を特色づけるものは、超俗的の高貴性、卓抜性、放浪性、不羈性、諷逸性、神経性、憂鬱性、聴明性、偏執性、感情過敏性、狂熱性等の綜合的表現である。然るに今の詩人の風貌には、殆んどさうした特色が感じられない。それは詩精神の時代的衰退を語るのだらうか、もしくは詩精神の散文化(常識化)を語るのだらうか。