文化と政治

 日本に帰化し、日本人の女を妻とし、終生を日本で送つた英国の詩人ラフカヂオ・ヘルン(小泉八雲)は、日本びいきの外人として世界的に有名であり、事毎に日本と日本人を讃美してゐるが、時にはまた辛辣な批判を下して、仮借なく現代日本の欠陥をあばいてゐる。次に記すことは、ヘルンの日本文明観の一節である。
 日露戦役前後の頃、英国ロンドンのある倶楽部に、一夕、朝野の名士が会合した。談たまたま美術に及んだ時、席上一人の紳士が立つて日本の浮世絵を紹介した。その頃まだ日本の浮世絵は、一般の欧州人に知られて居なかつたので、紹介者の紳士は、歌麿や廣重の版画を示して、懇悃日本画の特長を説明し、その西洋画に優るユニイクな価値を讃賞した。然るに聴衆の中には、人物の描写が怪奇で不自然だとか、風景画の遠近法が誤つてるとかいふことで、烈しくこれに反対する者が現はれたので、衆論が賛否二派に分裂し、議論が囂々として喧騒して来た。その時来会してゐた日本の駐英公使が、急に席を立つて卓を叩いた。そこで人々は、当然、その日本の公使が、自国の美術について大いに弁明陳述に努めるだらうと予想した。ところが−へルンの言葉によれば−奇々怪々なる意外事が突発した。日本の公使は、意外にも反対者の側に同感し、浮世絵の如きものが、美術として低劣なものであることを述べ、あたかも日本の国辱である如く、羞爾として顔を赧らめながら、談を他に一転して、盛んに近来の日本の工業的発展を述べ、陸海軍の充質した軍備について、その欧米列強に劣らないことを、滔々として誇り語つたと言ふのである。
 ヘルンはこの事実を述べた後で、かうした一人の日本公使は、日本の政治家と日本の官吏との、全体に共通するタイプを代表してゐると言つてる。単にその公使ばかりでなく、ヘルンが逢つたすべての日本の為政者と官吏と、それから尚大多数の教育者とは、この同じやうな話題に触れる場合、たいてい皆この公使と同じやうな態度をとり、同じやうな談義をするのが常であると言つてる。つまりかうした日本人等は、自国の伝統文化や国粋藝術を賤辱し、談がそれに触れることをすら好まないのである。そして彼等の自ら大いに誇らうとするところは、近代日本が西洋文明の輸入によつて勃興した科学設備や、機械工業や、汽車汽船の交通機関や、特に就中、その忠勇無比で世界に冠たる最強の陸海軍なのである。「彼等の日本人等は、自ら誇る価値のあるものを誇りとせず、誇る価値のないものを誇りとしてゐる。」と、ヘルンが慨歎してゐる如く、実際それは真実の事なのである。
 かりに上述のやうなことが、もし外国人の場合に起つたらどうであらうか。独逸人や仏蘭西人の集会に於て、もしセークスピアが藝術的に非難されたら、公使に非ざる一英国人と雖も、憤然立つてこれに反駁し、あたかも自国の名誉を汚損された如く怒るであらう。そして同様の場合に、独逸人はゲーテやべ−トベンの為に弁護するであらう。支那人でさへも外国人に対しては常に中華三千年の文化を誇り、自国の藝術を以て世界に冠たる如く説いてるのである。自国の国粋文化や伝統美術を誹謗されて、一国の代表者たる公使がこれに賛同するといふ如きは、外国人たるへルンにとつては、正に「奇々怪々なる意外事」にちがひないのだ。実際、世界何れの文明国も、自国の国粋文化を高く批評し、政府が率先してこれが宣伝に努めてるのに、ひとり我が国だけが例外であり、当局者がこれに全く冷淡無関心なのは、外国人に非ざる僕等にとつても、しばしば怪訝される不思議である。だがこれには、種々の複雑な事情が原因してゐるのである。
 明治以来、日本は旧来の封建的農業国から、一躍して近代的商工業国に飛躍しなければならなかつた。その為社会の万般に亙り、急激な大改革を行はねばならなかつた。そこで旧封建時代のあらゆる風習は、すべて皆「因循固陋」といふ言葉で排斥され、過去の国粋的なる一切の文物は、一様に皆「半開野蛮」といふ名で賤辱された。そして西洋的なる一切の物が、それ自ら「文明開化」の合言葉となり、新日本の進むべき理念(イデー)とされた。かかる西洋崇拝思想は、僕等の文学者や藝術家の中にも浸潤した。僕等の明治詩人は、ゲーテやバイロンを師匠として崇拝し、芭蕉や人麿等の自国詩人を、藝術的に低劣無償値のものとして軽蔑した。そして音楽家等は、三味線を野蛮視してピアノを学び、美術家は日本画を冷笑して油絵を習ふことに、新日本のインテリ藝術家たる衿持を感じた。
 しかし新日本の文明指導者たる政府当局者は、僕等の藝術家よりは遙かに実利主義者であつた。黒船の脅威によつて、明治の開国を余儀なくされた政府人等は、何よりも日本の急務が、軍備の改革と充実にあることをよく知つてゐた。実際当時の日本は、弱肉強食の猛獣群に取り囲まれて、孤独に慄へをののいてる小羊のやうなものであつた。何物を犠牲にしても、日本は先づ自衛の術を講じなければならなかつた。政府のあらゆる指導精神は、強力なる軍隊を作ることに集注された。そしてこの目的の為には、西洋の物質文明を高速度に速く取入れ、機械工業を盛んに興さなければならなかつた。
 かうした火急事に専念してゐた政府人は、もとより文学藝術等の精神文化に対しては、他を顧みる暇が無かつたのである。学校で指導した政府の音楽教育や文学教育は、忠勇無比の軍隊を作り、剛健強壮なる国民を作るためにのみ、利用価値の目的で教へられた。藝術としての純粋価値が、文化上にどんな重大意義を持つてるかといふやうなことは、かつて日本の政府人等が、夢にも考へ及ばなかつたことなのである。彼等は日本の古い伝統文化を、チヨンマゲと共に因循固陋の象徴と見た。彼等はそれを、僕等のハイカラかぶれした藝術家以上に、半開野蛮のものとして軽蔑した。日本を遊覧する外国人の旅客に対して、それらの政府人や官吏たちやが、大いに先づ誇つて見せたいものは、堂々たる軍艦の雄姿とドックであり、高層建築のビルヂングであり、大規模の資本工業であり、天に冲する煙突の列と、地に網を張る鉄道線路の全景だつた。そして要するに、欧米列国に比して遜色なき、近代日本の堂々たる「文明開化の国」であつた。
 かかる「日本の誇り」を一身に負ひ、帝国の名著を代表した日本公僕が、たまたま英京ロンドンの一倶楽部で、歌麿や廣重の浮世絵を見せられた時、どんな感情を起したかは、けだし想像するにかたくない。おそらく彼は、過去の秘密な旧悪をあばかれた人の如く、背に冷汗を催すばかりであつたらう。なぜならかうした古い日本の藝術は、過去の恥づべき封建時代の遺物であり、半開野蛮の旧日本を表徴するところの、したがつて外国人には決して見せたくないところの、国辱的なものであるからである。その時その日本公使が、故意に話題を変へて他に転じ、日本の軍備とその優秀性について論じた心理は、僕等にも容易に理解できるのである。つまり公使は、侮辱された祖国の名誉をかばふ為に、自らその誇りとする国威を強調して説いたのである。
 だがかうした公使の講演が、列席の外国人等に、どんな感銘をあたへたかといふことを、静かに反省してみねばならぬ。おそらく結果は、公使の予期に反して、日本への誤解と悪感情を招来したばかりであらう。或る外人記者は、日本についてかう書いてゐる。曰く、日本人といふ国民は、実に不思議な国民である。軍隊の強弱についての批評の外は、彼等は決して、どんなに自国を悪口されても腹を立てない。たとへば彼等は、外交が拙いと言はれても腹を立てない。政治が不合理だと言はれても弁明しない。産業機関が未発達だと言はれても肯定する。社会の風俗習慣が野蛮だと言はれても抗議しない。それから尚、文化そのものが無価値だと言はれてさへも、あへて憤慨の情を現はさない。しかしただ一つ、軍隊が弱いと言はれると、すべての日本人がムキになつて抗弁すると。
 おそらくその通りであるかも知れない。すくなくとも現代日本の為政者や大衆にとつては、軍備が第一義的のものであり、外交、政治、風俗、文化等のものは、第二義以下のものとして思惟されてる如く思はれる。それ故に彼等は、第一義的の致命傷を誹謗されない限り、決してその自尊心を傷つけられることなく、すべて対手の言を笑つて肯定するのである。
 かうした日本人の心理は、上述した事情によつて、充分に理由づけられるのである。ベルリの黒船と大砲によつて、その生存権を脅かされた日本人は、開国以来、夜を日についで軍備の完成に熱中した。明けても暮れても、僕等の日本人の胸中には、軍備のこと以外になかつたのである。その上にまた政府は、教育によつてこれを国民の脳裏に深く刻み込んだ。日本の官吏や大衆の思想が、強兵第一主義になつてるのは当然である。しかしながらこの思想は、外国人にとつて、決して気持の好い印象をあたへない。彼等はそれからして、日本人を好戦国民の如く誤解し、手に殺戮の刀をかくして微笑してゐる、薄気味の悪い黄色人種を幻想する。「侵略国」といふ言葉は、最近彼等が日本に与へた無辜の誣言であるが、そのよつて来る所は、日本人自身の外交的不注意にもよるのである。政府の要職にゐる人々が、ロを開けば軍備の強大を誇り、日本兵の忠勇無比を海外に宣伝して、単にそれのみが、日本の唯一の国粋的衿持である如く吹聴する時、たださへ疑心暗鬼を画いてる外国人等が、日本人を鉄木真(テムジン)の子孫と解し、暴力による世界征服者と邪推し、カイゼルの夢みた黄禍の悪夢を、現実に見て恐れをののくのも当然である。
 此処に大胆に極言すれば、日本人は未だ「外交政治」といふことを知らないのである。二千有余年の長い間、東洋の一孤島に辺居して、殆んど外国との交渉なく、桃源平和の夢を楽しんでゐた日本人は、アメリカ人と共に、世界の国際外交に於ける「坊ちやん」であり、お人好しの馬鹿息子にすぎないのである。

 支那、西洋等の外国歴史は、建国以来、常に異民族との争闘史であり、食ふか食はれるかの歴史であつた。彼等の場合は、自己が他によつて侵略されるか、自己が他を征服するかの二つであつた。そしてその何れの場合にも、彼等は常に文化を利用し、軍隊の進む後方部隊に、藝術と藝術家の一隊を陣営させた。といふ意味を詳説すれば、文化によつて敵を宣撫し、懐柔し、精神的に屈服させたといふことなのである。古代のローマ帝国が、四隣の蛮族を征服して、約一千年近くもの長い間、欧州の中原に君臨してゐたのは、実に彼等の文化と宗教とが、その兇猛なる被征服者等を、完全に魅了し懐柔した為に外ならない。ローマ人等は、四隣の強敵を征服する毎に、その敵の酋長をローマに招き、最善を尽して歓待した。ローマの浴場と、ローマの美人と、そしてローマの豪華を極めた文物とは、たちまちその酋長の心境を一変させ、昨日の兇猛の野蛮人を、ローマ化された今日の文化人に変へてしまつた。そして彼がその故国に帰郷した日から、彼の民族そのものの気風と習慣が一変し、昨日の仇敵たるローマ人に対し、心からの崇拝と服従をちかふやうになつたのである。それ故にこそカルタゴのハンニバルが、大軍をひきゐてローマに侵入し、彼等の被征服者や属邦民族をアヂつて、ローマへの叛乱と独立とを挑発した時、一もこれに応ずるものなく、却つてローマ市民と共に起つて、ハンニバルを攻撃したのだ。
 かうした文化政策を弄することでは、しかし支那がより以上に巧妙であり、且つより以上に徹底してゐる。支那漢人種は三千年の昔から、絶えず異民族との争闘を繰返し、時にこれを征服したり、時にまたしばしば征服されたりした。しかしその征服された時に於ても、依然として漢人種の国は亡びず、逆に却つてその征服者を懐柔し、自ら支配者の実権を把握してゐた。なぜなら彼等は、その文化の長い伝統を誇る美人(美人は文化のないところに生れない)と、味覚の洗煉[ママ]された料理と、それからその優秀な美術、音楽、文学、演劇の類によつて、征服者たる蒙古人や満洲人やを魅惑し、逆に却つて彼等をして、漢人種の文化的奴隷としてしまつたからである。
 近代欧州に於ける、英国や仏蘭西の植民地政策もこれと同じく、独逸の標語する「ドイツチユランド・ユーバー・アルレス」の精神も、独逸文化を中心として、世界に君臨しようとするイデーである。それ故に支那を初め、西洋諸国に於ては、自国の文化を盛んに誇張し、殆んど恐らく自国のみが、世界に冠たる学術文藝を有するところの唯一の文化の国である如く宣伝する。そしてこれが、実に政府の高等政策なのである。故に外国に於ては、政府が率先して藝術を保護奨励し、優れた詩人や音楽家に対し、政府が勲章を授けたり、賞金を与へたりするのである。
 然るに独り日本は、この点に於ても全世界の特殊国である。日本の政府は、文士や、藝術家を保護しないのみか、却つてこれを有害邪悪のものとして白眼視する。そして自国の国粋藝術が、たまたま外国に紹介される場合、却つて自らこれを卑下し、自ら隠匿しようとさへするのである。政府が自ら巨費を投じて、自国文化の宣伝に熱中してゐる欧州人の側から見て、かうした日本官吏の心理状態が、不可思議に思はれるのは至当である。だがしかし、これは複雑な日本の国情と、特殊な歴史上の原因が存するのである。
 既に前に述べたやうに、島国日本の歴史は、外国の歴史と本質的にちがつてゐる。かつて日本人は、一度も異民族の侵略を受けず、食ふか食はれるかの生死争闘を知らなかつた。日本人の知つてる戦争は、つい最近に至る迄、全く源平両氏の内乱にしか過ぎなかつた。故にその戦争の方法も、外国とは大いにシステムがちがつてゐた。他民族の虐殺から逃れる為に、その都市に城壁をめぐらすことを知らなかつた日本人は、外国人の如く、軍隊の進む後方部隊に、文化と藝術家の一師団を従軍させる手を知らなかつた。否、実に知らなかつたのではない。必要がなかつたのである。
 それ故に日本の統治者たちは、自国の文化を海外に宣伝する必要もなく、内地の藝術家を優遇すべき理由もなかつた。風流将軍の室町幕府が、茶人や画家や能役者を優遇したのは、単に将軍の道楽であり、政略上の意味は少しも無かつた。奈良平安の王朝政府が、全国に無名の天才歌人を尋ねたのも、同じくまた統治者の風流であり、功利的な政治意識をもつものでない。セークスピアの記念碑の前に、政府の代表者たる首相が参拝して、皇帝の勅語を朗読する英国人の文化意識と、古代日本人の文化意識とは、似て而して大いにちがつてゐるのである。
 しかしかうした日本人も、上古尚支那との交通が盛んな時は、唐の雄大な文化に対抗するため、外交的に意識して国粋主義の文化を作り、自らその「やまとぶり」を誇つて衿持してゐた。然るに後世、特に徳川時代になつて、完全に鎖国孤立してからは、かうした「やまとぶり」の国粋文化意識さへ、全く国民の観念から消滅してしまつた。その上に尚徳川幕府は、儒教精神によつて国民を統一しようとした為に、反儒教的なすべての文化藝術が、異端的な邪悪事として擯斥された。然るに人間の本然性を描いた多くの文学藝術は、本質的に反儒教的な傾向を帯びる故に、近世徳川幕府の時代に於ては、殆んど多くの文学藝術が、幕府の忌憚する嫌厭物の対象となつた。特に町人階級によつて創造された当時の所謂江戸文化は、幕府官吏の最も眉をひそめて陋醜視するところであつた。彼等の為政者は、あへてそれを法律的に禁圧はしなかつたが、価値的に賤辱して、之等の藝術家を社会の最下層に突き落し、河原乞食、戯作家、遊藝人、小屋者、音曲師等の名で賤称した。日本の文学者と藝術家は、徳川幕府の治下に於て、完全に侮辱されてしまつたのである。
 ところで明治初年の日本に於て、新政府の要職に坐した政治家等は、かうした徳川幕府の文化観念を、その儒教教養と共に体得してゐたところの、幕末武士階級の人々だつた。ひつきやう明治以来の政府人が、常に僕等の文学者や、小説家を毛嫌ひしたのは、硯友社以来発育した新日本の文藝が、本質に於て西鶴や春水の物と同じく、鄙声誨淫の書と見られたからに外ならぬ。かかる儒教主義の文藝覿は、大正昭和の時代に於ても、尚日本の政府人の頭脳に一貫して伝統してゐる。況んや日露戦争時代の駐英外交官が、歌麿等の美人浮世絵を見て、国辱的羞恥と猥褻を感じたことは、充分想像するにかたくないのである。現に最近、政府の要職に居る或る閣下が、ひそかにその近侍に向つて、源氏物語の如き男女情痴のことを書いた猥文学が、日本の国粋藝術の至宝として外国に宣伝されてゐるのは、甚だ我が意を得ぬ奇怪事だと語られたといふことである。
 大亜細亜主義を標語する日本の政府当局者は、今やかうした過去の文化観念を一変し、文筆藝術に対する彼等の思想を、コペルニクス的に新しく転回する必要がある。なぜなら日本は、今や朝鮮、満洲にまで発展し、その統治を緊要とする一方、世界の競争場裡に乗り出して、異民族との間に、絶えず弱肉強食の争ひをせねばならないからである。今や、我等の戦術は、源平時代のシステムでなく、文化部隊を後方戦線に置くところの、近代欧州式の戦術に学ぶ所がなければならぬ。即ち軍隊を進める後から、日本の国粋文化を宣伝して、敵を平和的に撫循し、帰化させることが必要なのだ。
 しかし日本の政府人等も最近漸く此処に気がつき、大いに自覚して来たやうに思はれる。特に支那事変以来、政府は急にその態度を変へ、僕等の文士や藝術家に対し、馬鹿に慇懃でお愛想がよくなつて来た。しかし日本の政府人は、未だ政治上に於ける文化工作の意義を、充分によく知らないやうに思はれる。なぜなら彼等は「文化の宣伝」と「国威の宣伝」とを、無差別に混同してゐるやうに思はれるから。
 自国の優秀な文化を宣伝することは、勿論間接には自国の国威を宣伝することになるであらう。しかし国威といふ観念中には、文化以外の多くの物が含まれてゐる。例へば独逸がその世界最強の陸軍国を誇示するのは、国威の宣伝にはなるだらうが、文化の宣伝にはならないのである。すくなくとも「文化の宣伝」と「国威の宣伝」とは、方法手段の目的性を別々にせねばならない。
 そもそも文化といふものは、本質上に於てインテリゼンスのものなのである。「文は人を柔弱にす」とは、昔から言はれてゐることであるが、文化的になるにしたがつて、人はその殺伐の気風を失ひ、インテリ的貴族人になつて来る。北条氏や徳川氏のやうな武断政治家が、一般に文化的精神を擯斥したのは、一つにはそれによつて、武士階級が文弱に堕すことを恐れたからでもあつた。逆に支那やローマの諸外国が、敵国人にその文
化を伝布したのは、これによつて敵を文化的に去勢するためでもあつた。
 それ故に文化といふものは、謂はば一種の阿片剤のやうなものである。何よりもその強い魅力は、人を陶酔させる楽しさと美しさにある。知性的な人間は、これによつて哲学することの興味を知り、感情的な人間は、これによつて美を鑑賞する悦びを知る。文化の宣伝は、決して軍隊的に号令すべきものではなく、人をしておのづからこれに親愛さすべきものなのである。そしてこの目的を達するためには、何よりも先づ美しいこと、楽しいこと、意味深いことが必要である。そして之等の要素は、すべての大藝術や大思想が、必然的に本質してゐるものなのである。
 次に文化の特色は、藝術に国境なしと言はれる如く、人種の別を超越して、普遍的に魅力をもつといふことである。(もしさうでなかつたら、文化宣伝といふことは無意味である。)パール・バック女史の小説「大地」をよんで、多くの西洋人はう言つた。この小説をよんでから、我々は初めて支那人といふ人種が、我々白人と同じやうなことを考へ、同じやうに感情し、同じやうに生活してゐることを知つた。そしてつまり、支那人も欧米人も、同じ人間にすぎないことをよく知つたと。そしてこの発見から、彼等の欧米人の支那に対する考へ方を、根本的に一新するやうになつた。即ち彼等は、支那と支那人とに対して、急に人間的な親しみを感じ出し、同胞としての友情を抱くやうになつたのである。そしてこれが、実に文化宣伝の第一義的な目的である。
 ところで然し、今日我が政府の意識してる文化宣伝なるものは、かうした肝心の目的性を、種々の点で履きちがへてるやうに思はれる。明らかに言ふと、政府は国威宣伝と文化宣伝を混同してゐる。或は国威宣伝の為に、文化宣伝を下手に利用してゐるのである。それ故に政府の宣伝が為す所は、常に忠勇無双の我が兵士が、城壁に立つて万歳を叫ぶ映画であり、その主君のために仇を報ずるところの、忠烈無比な大和魂の芝居であり、或はまた、新興日本の国威と発展を語るところの、大海軍の整列ニュースや、軍需工場の内景や、それから特に、小学校の修身教科書を大衆的に小説化したやうな文学の類なのである。
 かうした類の映学や文学やが、外国人にとつて何も興味もない以上に、肝心な文化宣伝としての第一義的な効果を持たないことは明白である。のみならず却つてそれは、日本に対する猜疑を抱かせ、日本人をして、益々好戦的侵略国民であるかの如き恐怖をあたへる。ところで文化宣伝の目的性は、かかる猜疑や恐怖心を、外国人から消滅させることに存するのである。
 蒋介石の支那政府は、パール・バックの小説「大地」を映画化させて、白人への文化宣伝に利用したといふことである。映画「大地」の中には、支那のいかなる国威宣伝もなく、支那人の自ら誇る民族衿持も現はれてない。それはただ有りのままに、支那と支那人との生活実況を、如実に写したものにすぎないのである。しかもその宣伝効果は百パーセントであり、支那はこれによつて欧米列強の知遇を得た。
 要するに、文化宣伝の目的性から、特に選ばるべき藝術品の条件は、第一に芳醇なる美の魅力をもつといふこと、第二に人間性の普遍的なる真実相を描いてるといふことである。然るにこの二条件は、すべての優秀なる傑作藝術が、必然その本質上に具備してゐるものであるから、所詮してその結論は、自国の最も優秀なる一流藝術を選択せよといふことの、簡単自明の真理に帰する。今日、源氏物語にさへも眉をひそめる政府人に、井原西鶴や谷崎潤一郎の小説を推薦したら、恐らく一義に及ばず斥けられてしまふだらうが、実はさうした文学藝術の宣伝の方が、修身教科書を小説化した物の宣伝よりは、遙かにまさつて外国人には効果的なのである。
 とにもかくにも日本の政治家たちは、もつと心理的に「複雑怪奇」となり、もつと政策的に「老獪」にならねばならない。その時初めて彼等は、英国人や仏蘭西人やが、何故にセークスピアやユーゴーを祭り上げて、国際的にその大祭祝日を式行するかといふことが解るであらう。