前欧州大戦の頃
独逸軍の勇猛さは、その殆んど破天荒とも言ふべき前古未曾有の新戦術と相俟つて、奇蹟的にさへも世界の耳目を驚かせたが、前の世界大戦の時でも、独逸の軍隊は実に強かつた。露西亜、仏蘭西、英吉利、伊太利、亜米利加、日本の六大強国を初め、世界三十三ケ国を敵として、五年間もよく孤軍奮闘し、戦闘では一歩も敵に負けなかつた。しかし四面を封鎖され食糧攻めにされた結果、遂に食ふ物がなくなつて負けてしまつた。そこで独逸は「戦場」に勝つて「戦争」に負けたと言はれてゐる。この敗戦の原因は、一般にカイゼルの誤算にもとづくと言はれてゐるが、実はむしろ、英国の外交政策の成功によつたのである。当時の独逸は、墺伊両国と三国同盟を結んでゐた上に、英国の中立を信じてゐたから、露仏二国を当面の敵として戦ふ場合、充分の勝算を考へたのは当然だつた。それはカイゼルばかりでなく、当時の独逸人一般が、だれでも信じてゐたことだつた。
それが事、志とちがひ、四面梵歌の敵国に囲まれて、遂には全世界を対手に戦ふやうになつたのだから、昔時の独逸人の悲壮な気持は、およそ想像するにあまりある。英国が聯合軍側について、独逸に宣戦を布告した時、独逸の感傷的な女たちは、失望のあまり声をあげて慟哭したといふことだが、さらに同盟国の伊太利が、意外にも裏切りをして敵側に廻つた時には、男女をあげて全独逸の国民が、憤怒と絶望の極、伯林の街を狂気のやうに泣き喚いて走つたといふことである。日本の参戦は、戦場には大した影響もなかつたけれども、精神的に与へた打撃は、英伊の場合以上に相当深刻なものであつたらしい。当時独逸と日本は、国際的にも割合に親しかつたし、個人的にも独逸人等は、日本人の気質と勇気を敬愛して、事毎に日本を讃め、乃木大将を賞頒して、心から日本人に好意を持つてた。そこで彼等の独逸人が、日本を味方側の与国と考へ、開戦当時には、日夜に多数の群集が、日本大使館の前に集つて万歳を連呼したり、往来の日本人を捉へて、むやみにビールを馳走したりしたのも当然だつた。最悪の場合にも日本が絶対中立をすることは、彼等の確く信じてゐたことだつた。それがまた意外千万にも、敵の聯合軍側についたのだから、独逸国民の悲嘆と絶望とは、むしろ伊太利の場合以上であつたかも知れない。のみならず実戦上にも、日本の参戦は独逸に相応の痛手を与へた。なぜなら、日本がもし中立を守つてゐたら、米国は背後の襲撃を恐れて大戦参加をためらつたらうし、支那やシャムやの東洋諸国は、勿論英仏側へつくことがなかつたらう。
かくて世界三十三ケ国を敵としてしまつた独逸人は、実に泣くに泣けない思ひで、悲壮憤慨の涙をのんだのだつた。だがそれはカイゼルの誤算でなく、英国の外交政策の成功だつた。伊太利が裏切りをしたのもその為だし、日本が参戦したのもその為であり、結局皆英国外交の巧妙なトリックに操られたのである。しかもその参戦の結果、日本も伊太利も、更に少しも得るところなく、結局皆、英国の老獪なペテンにかけられてしまつたのである。そこで今次の欧州戦争は、或る点からの見方によつては、先にペテンにかけられた日伊を初め、その他の同じ目にあつた小国が、英国への直接報復をしないまでも、英国の敗北に対して、内心ひそかに溜飲をさげ、好い気味だと思つて見て居る形になつて現はれてる。そこで前の大戦とは反対に、今度は世界の同情が独逸に集つてる。いかに老獪なる英国と雖も、今度はもはや、トリックを弄する余地がないであらう。
2
前の世界大戦の時、私はまだ詩壇に出たばかりの無名詩人で、同じ仲間の詩人室生犀星君と、本郷あたりの下宿屋にごろごろしてゐた。名もなく、金もなく、仕事もなかつた当時の私達は、日夜に市内を放浪しては、安酒を飲んで空気焔を吐く以外に、何の能もない人種であつた。その頃上野に博覧会があつたので、室生君と二人づれで、毎日のやうに出かけて行つては、池の端の売店をひやかしたり、余興の見世物を見歩いたりした。
今でも尚忘れないのは、不忍池の弁天島に出来た、博覧会朝鮮館附属の珈琲店であつた。館全体を朱丹で塗り、朝鮮風の家造りにして、女給が全部朝鮮の服装でサービスした。その頃はまだネオンサインがなかつたけれども、電気のイルミネーションが満館を照明したので、それが不忍の池水に映り、夜は実にきらびやかな眺めであつた。その上にまた博覧会本館の大イルミネーションが、これと照応して池水に映じ、夢に見る龍宮城のやうに思はれた。夏の夜には毎晩の如くそこに通つてビールを飲んだ。青赤等の派手な朝鮮服を着た女給たちは、乙姫の侍女のやうに思はれ、若い私たちにとつて、この上もなく美しかつた。
丁度その頃、欧州大戦が勃発した。やや遅れて、英国が聯合軍に参加したばかりの頃は、どこへ行つても、聯合軍と同盟軍との兵力が、角力の番附のやうに、左右に対比して張り出された。聯合軍側には、英、仏、露、三国の陸海軍が、図解入りで表示され、同盟軍側には、独、墺、伊、三国のそれが表示された。私達はその前に立つて、両軍の統計兵力を比較しながら、勝敗を考へるのが楽しみだつた。その統計によると、聯合軍の方が海陸共に少しく同盟軍にまさつてゐた。しかし大して著しい相違がないので、先づ五分五分の好取組だと思ひ、角力の勝負でも当てるやうに、多くの人々が勝手に予想しては楽しんでゐた。しかしまもなく伊太利が裏切りをしたので、俄然バランスが破れてしまひ、人々は聯合軍の必勝を信じ出した。しかも戦況を報ずるニュースは、予想に反して独軍の連戦連勝を伝へるので、全く勝敗の見当がつかなくなつてしまつたが、日本人の一般大衆は、不思議に多くは独逸ビイキであつた。政府が最後に決心をして、いよいよ独逸に宣戦布告をしてからでさへも、大衆は依然として尚独逸ビイキであり、青島戦争の国民的人気は少しもなかつた。特に独逸軍が、タンネンベルヒで露西亜兵を全滅し、ワルショウを占領した時の如きは、その号外の貼り出された電柱の前に、群集が集つて万歳を唱へたことさへ覚えてゐる。酒に酔つぱらつた労働者が電車の中で腕捲りをしながら「さあ、俺は独逸だぞ。皆でタバになつてかかつて来い。」とわめいたのも、やはりその号外の出た頃の市街風景だつた。その頃独逸軍は、西に仏蘭西を攻め、東に露西亜を破り、南に伊太利を征略し、さらにバルカンに大勝して、全く阿修羅の如く暴れ廻つた。しかし米国の参戦以来、独逸軍の暴虐ぶりや非人道やが、盛んに日本に宣伝された。独逸兵が自耳義の婦女に暴行したとか、非戦闘員を虐殺したとか、仏蘭西兵の眼玉をくりぬいたとか、あらゆる残虐野蛮のことが伝へられ、頭に角を生やしたカイゼルが、鬼の姿で諷刺画に描かれたりした。その頃も大戦のニュース映画が、諸所の活動館で映写されたが、どこでも弁士の言ふ極り文句は、「鬼畜の如き独逸兵」とか、「人道の敵カイゼル」とかいふのであつた。もちろんこれ等の戦況映画は、凡て聯合国からの輸入であつたし、独逸兵の暴虐宣伝は、英米の捏造した政略的のデマであつたが、一般の民衆中には、それを正直に信じたことから、急に独逸を憎み出して、聯合軍にヒイキするものが多くなつた。特に当時の政府当局者(大隈内閣)は、米国風のデモクラットであつた為、一層このデマ宣伝に油をかけ、独逸をやつつけることによつて、間接に日本の官僚政治を排撃しようとしたのであつた。(今度の支那事変に際しても、英国は日本兵に対し、同じやうなデマを悪宣伝してゐる。)
しかし大多数の日本人にとつて、結局前の世界大戦は、自己と関係のすくない「対岸の火事」にすぎなかつた。日本も参戦したとは言ひながら、僅かに一部の青島攻略にすぎず、言はば英国への義理立てにすぎなかつた。感情的に言つても、当時の日本は中立的位置にあつて、英仏側にも独逸側にも、何の怨恨もなく敵意もなかつた。そこで戦争が経つてからも、日本人の大衆は戦勝に対して一向に気乗りのしない様子であつた。それで英仏の聯合国から、日本が戦勝に対して冷淡だといふ非難を受けた為に、政府が急に指令して戦勝祝賀の大提灯行列を行つたが、あんな気の抜けた提灯行列といふものを、私はかつて見たことがなかつた。多くの人々は、何の為に祝祭をするのか、その真意義さへもよく解らなかつた。ただ政府の指令によつて、わけもなく群集し、提灯や万燈を手にしながら、花見気分で市中を浮かれながら囃し歩いた。提灯や万燈には「祝聯合軍大勝利」とか、カリカチユアにした独逸の首の図などが描かれてゐたが、群集の真の気分は、戦争によつて急に成金大尽になつた好景気を、わけもなく躁(はし)やいでるのにすぎなかつた。
過去にすぎ去つたことは仕方がない。だが将来の日本は、外国の老獪な政略などに操られて、無意味な他人の戦争などに、うかうか巻き込まれないやうにするのが好い。特に就中、大衆の気乗りがしない無名の師などは、絶対に興さないことが肝要である。