人間と歩行

大震災のあつた常時、私は伶田舎の生家に住んで居たが、東京の親戚を見舞ふために、若干の米と食料品を
∬∫ 阿苛

背中に背負つて、武州大宮から東京まで、約十里ほどの旗程を、徒歩で歩いたことがあつた。さうした道中に
慣れない私は、ただの身軽でさへも疲れ易いのに、背中に背負つた重たい米と、灼きつくやうな炎暑のために、
すつかりへとへとに疲れてしまひ、漸く一里も歩かぬ中に、意気地もなくへたばつてしまつた。その時私は、
道傍の革に寝ころびながら、青杢を飛んでゐる鳥を眺めて、人間の歩行の不自然さと、物理に反した不自由さ
と言ふことを、今更のやうに珍らしく後見した。烏の飛んでゐるのを見てゐると、飛翔することそれ自身が、
いかにも楽しさうに思はれる。彼等烏顆は、本能的に客気の気流をよく知つて居り、それを利用することが巧
みである。人間の歩行は、紹えず両足を交互に動かして、休息のない連動をせねばならない。然るに鳥顆の飛
行は、二三度巽を動かすだけで、十数問も長い距離を、気流に乗じて杢中滑走をする。歩行といふ運動は、人
間にとつて非常に苦しい労働であるけれども、鳥顆にとつての飛行はむしろ何かの楽しい運動のやうにも思は
れる。
 魚顆の済泳も、鳥類の飛行と同じやうに、自然の物理学的法則に邁つてることで、運動の原理を等しくする
やうに思はれる。水槽の中で、静かに泳いでる魚を見てゐると、二三度鰭を動かすばかりで、かなり長い間の
距離を、悠々と滑つて行く。そして一寸尾をひねると、いかにもスマートな美しい形で、自由に方角を縛換し、
態勢でまた抜けるやうに滑つて行く。杢を飛ぶ鳥の飛行や、水中の魚の渉泳やは、いくら長い間眺めて居ても、
決して飽きるといふことがない。人間のあらゆる運動やスポーツに比して、逢かにそのフィギュアが美しく拳
術的であり、自然の合理的な法則によく邁つて、楽しく嬉しさうに見えるからザある0
 しかし彼等の運動が、楽しさうに見えるといふことは、人間の主観的な感情に存することは勿論である。或
る日支那の荘子が、河の時に立つて濁り微笑してゐるのを、通りかかつた論敵の恵子が見て、何を笑つてゐる
                                                            な‖じ
のかと一間うた。そこで荘子が答へて、魚がいかにも楽しさうに泳いで居るからと言つた。すると富子が語つて
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言つた。魚の心理は人間に理解できない。魚が果して楽しいか香かを、伺うして人間の君に推察できるかと。
問答はこれで経つてゐる。しかし荘子の笑つた意味は、魚の心理を客観的に考へたのではなく、荘子自身の心
に映じた、人間の主観的な気分を表現したのであつたらう。なぜなら人間の主観からみて、魚や烏やの運動様
式は、たしかに羨ましく理想的なものであるからである。
 原始に顆人猿から進化した人間は、その四足獣の前肢を手に轄用して、後肢の二本足で立ち上つた時、甚だ
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おぼつかなくよちよちしたものであつたらう。(赤兄が初めて四つ這ひから立つた時、丁度その原始人顆の歴
史を再現する。)すぺての四足獣にあつては、頭脳が饅重の比率に於て、重大な部分を占めてる。特に就中人
間の頭脳の重さは、他のすべての動物にまさり、賓に全慣重の四分の一にも及ぶと言はれてる。そんな比重の
重い物を逆に野の頂上にして、二本足で直立する人間の姿態は、力学的にバランスのとれない不安定のもので
あり、他の動物の自然的なポーズに此して、甚だ不自然のものと言はねばならぬ。魚や鳥やの形態が、夫々の
生活状態に順應して、完全以上に自然的であることは勿論だが、犬や馬やの四足獣でも、人間より造かに自然
的で、重心のバランスがとれた状態をしてゐる。そこで彼等の歩行運動は、我々のそれとはまるで比較になら
ないほど軽快で楓爽としてゐるのである。犬が人間と連れ立つて歩く時、彼等はいつもその主人を抜け騒けし
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てちよこちよこと先に走り、時々後を振りかへつては、人間の歩行ののろくさく、さも不器用によちよちして
ゐることを、いかにも歯痔く軽蔑したやうな表情をする。
 だが人間は、その自然の姿態によつて、他の動物が持たないところの、頭脳の理知を饅達させた。そして歩
行の不自由を補ふために、馬車や、電車や、自動車や、それから汽船や飛行機やの様々の乗物を饅明した。人
間が、もし魚や鳥や馬やの如き、自然のままの姿態をしてゐたら、恐らくいかなる乗物をも、蜃明しょうとし
なかつたらう。舟や車や飛行機を、我々が磯明したといふことは、つまり言つて人間が、その反自然の姿態の
20j 阿帯

故に、頭でツかちのよちよち歩きに困燈して、魚や島や獣顆やの、軋爽たる飛泳ぶりに、羨望憧憬したために
外ならない。清流に泳ぐ魚を眺めて、魚の幸涌を羨望したものは、盲の支那の哲人一人ではない。几ゆるすぺ
ての人顆が、昔から同じことを考へ、同じことを夢に見て居たのであつた。それ故に我々は、今日でも伶、杢
飛ぶ鳥や泳ぐ魚やに無限の思慕とイメーヂを感じて、あくことなく眺めるのである。勿論我々は、今日の態達
した科学によつて、飛行機や蒸汽船を所有してゐる。それによつて我々は、鳥のやうに茎を飛ぶこともできる
し、魚のやうに海を泳ぐことも可能である。そして伶、汽車や自動車の態明から、いかなる四足獣よりもずつ
と速く、地上を滑走することもできるのである。
 だがしかし、それらの科挙機械による運動が、自然の禽獣のそれに此して、いかに不器用でぎごちなく、無
様に不自由なものであるかを思うて見よ。今日の最も進歩した新式の飛行機でさへ自然の鳥が飛翔する状態と
は、比較にならないほど不器用でぎごちない。鳥の飛んでる状態は、殆んど奉術的とも言ふぺきほど、スマー
トで軽快な美を感じさせるが、飛行機の飛んでる形は、どう見てもぎごちなく、自然の重力に反する如き、不
自然で重苦しい感じをあたへる。汽車や汽船の運動にしても、魚の泳ぐ状態の如き、スマートといふ感じは少
しもない。科挙の態明した乗物機械は、未だ甚だ不器用であり、到底自然の精巧に及び得ない。
 しかしかうした乗物機械の態明中で、自縛車の態明だけは特殊の意義を持つた磯明であつた。自縛車といふ
乗物は、明白に言つて、今日既に時代遅れになつてしまつた。日本は例外として、欧米の国々では、自縛車の
音用時代は既に過ぎ去り、グライダーと同じく、今日では専らスポーツに用ゐられてるといふことである0だ
がそれにも拘はらず、今日伶多くの科挙者は、自縛車の俊明を重要親して、近代科挙中の劃期的な大嶺明だと
言つてる。その意味は、自縛車が他の汽船や電車とちがつて、蒸気や電気の動力を借りることなく、純粋の力
学的原理によつて、自働的に動くといふばかりでなく、自轄車それ自身の運動様式が、昔から人間の夢の中で

イデーしてゐたところの、魚や鳥類の飛泳状態を、或る程度まで具饅化してゐるからであら>潔号ハ科挙の本来
の理念は、人間のイデーする夢を貨現させ、不可能を可能にするといふことにある。質利主義の應用科挙は、
そもそも二義的のものにすぎない。)
 自轄車に乗つたことのある人は、だれも皆経験によつて知つてることだが、自縛車の運動操作は、魚や鳥や
のそれと極めてょく似てゐる。たとへば自縛車に乗つてる人は、普通の歩行者のやうに、重たい頭脳を支へる
ために、準えず歩調のバランスを取りながら、身饉の全重力を、二本の足の踵に托して、休息なく地面を踏む
といふやうな困苦を知らない。彼等の身饅は車上にあつて、その足は地面に解れず、直接に地を踏むといふこ
とがない。そして彼等のペダルが、魚や烏やの瘍合に於ける、翼鰭と同じやうな作用をする。打ち彼等は、そ
れを軽く数同踏むことによつて、相官に長い距離の間を、無勢カに疾走することができるのである。それから
また彼等は、魚や鳥と同じやうに、軽く腰の重心を欒へることで、自由に方向を縛錮させることもできるので
ぁる。おそらく人間は、自縛車の磯明された記念の日に、初めてその多年の夢にイデーされてた、魚鳥の楽し
げな飛泳運動を、現賓の身鰹感覚に経験した。それょり昔には、氷上を滑走したスケートマンだけが、それと
ゃゃ似たものを経験してゐた。しかしスケートの場合は、條件が特別の位置や季節に限定されてた。それが自
由に、無條件に出来るやうになつたのは、賓に自縛車の蜃明に負はねばならない。
 近頃私は、支那事攣のニュース映董を見る毎に、人間の歩行運動といふものが、いかに不自然にして労苦の
多いものかを考へて、改めて今さらに、近代科挙の数多い乗物機械の俊明を、げにも至官のことだと痛感する。
事欒映真の1三−スを見ると、廣漠たる支那の山野を行軍してゐる疲れた日本兵の蛮が映る。それらの疲れた
兵隊たちは、繊砲を斜めに捨ぎ、泥土の砂塵にまみれながら、重たい革靴を曳きずるやうにし、殆んど無表情
に近い顔をして、喘ぐやうに行軍してゐる。さうした映真の印象ほど、観覧席の私等をして、科学の簡明して
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くれる乗物機械を、痛切に要求させるものはない。それらの労苦してる兵士たちを、安全敏速に輪迭してくれ
るやうな、新しい大型飛行機や自動車が態明されたら、単に戦術上の一進歩ばかりでなく人間をその原始的な
無用な労苦から救済して、もつと有意義な仕事や戦闘やに精力を利用することができると思ふ。とにかく歩行
するといふことは、人間が猿から進化した最初の日に「理知」と交換した柿の種の損失だつた。我々の科挙は、
その所得した理知によつて、逆に原始の損失を補ひ、日々に新しい乗物機械を態明して、人顆普遍の「義足」
を完成させることが必要事である。
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