辻野久憲君を悼む
今の若い人の中で、僕の抒情詩方面を理解してくれる方は多いが、思想方面を理解してくれる人は甚だすく
ない。辻野久憲君は、そのすくない人の中の第一人者で、僕の思想の本質的エスプリをよく理解してくれた殆
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んど唯一無二の知己であつた。然るにその辻野君が死んだのである。僕としては、愛兄を失つたやうに悲しく、
寂実基底の感に耐へないのである。
辻野君に初めて逢つた時、彼が少年のやうな顔をしながら、該博の知識と明徹の批判力とで、東西古今の文
寧を論じ、宗教を批判し哲学を解説し、その見識の高く聴明なのに驚かされてしまつた。僕はその時、森鴎外
の自叙俸に書かれた「青年」を、辻野君の人物にイメーヂして、若き日の秀才森林太郎を、さながら目前に見
る思ひがした。後に開けば、彼は寧枚時代に於て教師を驚かし、大挙初めての秀才と言はれたさうである。彼
にしてもし四十歳位迄生きてゐたら、恐らく或は芥川寵之介を凌駕し、森鴎外の畳に迫る仕事をしたかも知れ
ないのである。しかも不幸にして、彼は僅か二十九歳で死んでしまつた。古来多くの神童や天才が、運命づけ
られた常軌をたどつて。I
辻野君の生涯を考へる時、僕はいつも「進級」といふ言葉を思ふ。一年生から二年生へと、人生の年齢を順
順に進むのでなく、一年生から五年生へと、一足飛びに飛躍して進むのである。かうした神童的の 「進級生」
は、一般に言つて決して華南の者ではない。なぜなら頭脳の年齢と肉鰹の年齢とが、資際の上に調和せず、言
はば不具者の餞育をするからである。僕等はその不幸な典型を、鬼才ラムボオの性格に見、秀才芥川寵之介の
生涯に見る。それらは何れも悲劇的のものであり、破綻がまぬがれない運命だつた。辻野君がもし長く生きて
ゐても、おそらく彼等以上に幸運ではなかつたらう。 ぎ
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辻野君の文学的イデーはラムボオであり、宗教的イデーは基督だつた。賓際彼は、ラムポオのやうなエゴイ
ズムと、基督のやうなヒューマニズムとを心臓してゐた。彼がもし自然的に成育したら、日本文畢史上に顆の
ない驚一興的のものを生んだかも知れない。しかしおそらくは日本の組合制度的政令組織が、かかる異常な反則
的なる個性を許さず、燕残に虐げ殺したにちがひない。それが芽生えの中に死んだことは、却つて山中の慈鞋深
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い恩鞄憫粥瀾舶棚減b知れない0多¢のオり升ナルで反則的なる非日本的個性は、この圃に於て皆若く天折して
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ゐる。北村蓬谷もさうであるし、梶井基次郎もさうであつたし、立原道造もさうであつた。
病中の辻野君は、一切友人との面合を避け、居所を秘して見舞を鮮した。その臨終の時にも、親友は勿論、
肉親の何人にも逢ふことを拒み、全く一人でこつそり死んださうである。おそらく彼は傲岸不遜の男であつた。
その天折が、自己の敗北であることを知つてる故に、断じて屈辱を見せまいとして、孤濁に陰れて死んだのだ
らう。これは全くラムボオ的なエゴイズムで、且つ驚くぺき傲岸の自尊心である。そして此虞に、彼のあらゆ
る運命的な寂蓼と悲哀があつた。
僕は辻野君によつて、自分の思想エスプリを「人生讃本」に編纂された。「人生讃本」は、僕の思想を素材
とする辻野君の著書でもあつた。そしてこの本に現はれてる僕の姿は、著るしくキリスト教的ヒューマニスト
の風貌を帯び、多少またラムボオ的でさへもある。しかもそれが即ち辻野久憲君の横顔なのだ。あの驚くぺき
自尊心をもつた傲岸不遜の青年。人を人の数とも思はず、自ら紛持して山頂の第一人者をもつて任じてゐたあ
の青年が、不思議にも僕の如きものに深く私淑し、師弟の祀をとつて親しく交つてくれたことは、今その人の
死後となつては、僕の深く光栄として墓前に謝恩したいところである。
孔子がその愛弟子の顔岡に天折され、我が道此虞に紹ゆと言つて長嘆息し、同や、同や、と言つて働笑した
気持は、漸く今の僕にも切賓に鮮つて来た。これは名状のできがたい寂蓼である。
辻野君の著作には、「人生讃本」の外にも、モリアツタの「基督博」と、リヴイエールの「ラムボオ論」と
の二詳書がある。後者については前に「四季」で紹介した。前者はカトリック楕紳の純一な眞髄を説いた名著
と言はれ、諸外閏で数十阪を重ねたものださうである。これには丁度、ドストイエフスキイの「白痴」の主人
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公と、ラムボオの詩人的風貌とを、近代人に於て表象したやうな基督が描かれてゐる。辻野君はこの辞書に生
命を打ち込んだ。それが彼のイデーであつたからだらう。
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