日本国技の洋風化について
西洋将棋の欠点は、引分が多いことだと言はれてゐる。一旦盤面から取つた駒を、最後まで使はない洋将棋
では、終局になるにしたがつて、次第に両方の駒が尠なくなるから、自然に無勝負の引分が多くなる。これに
反して日本の将棋は、双方の王が敵地に入り、いはゆる入玉になつた場合の外、殆んど稀れにしか引分がない。
しかし将棋だけは例外として、他の一般のゲーム上では、日本の側に引分の歩合が多い。たとへば剣術、柔
術、角力のやうな勝負事でも、古記録にのつてる判決には、引分の場合が極めて多い。特に名人同士の立合と
なると、先づ十中の七割は引分である。これに反して西洋の勝負事には、引分といふことが殆んどない。たと
へば拳闘のやうなものでも、双方が疲れてへとへとになり、全く動けなくなつてしまつてさへも、徹底的に勝
負をつけるやうに迫られる。野球などもその通りで、規定の九回が経つた後でも、どちらか一点を勝ち越すま
で、無限に延長戦を続けさせ無理に勝負をつけさせる。
かうした勝負事に於けるルールの相違は、とりも直さず、西洋人と日本人との、彼我の民族気質を表象して
ゐる。日本人は、戦争では徹底的に勇敢であり、自分が死ぬか敵を倒すか、最後の終局まで戦ひぬく民族であ
るが、その反面にはまた、優にやさしい物のあはれや、風流惻隠の雅量をもち、かりにも残虐非道なことを悦
ばない国民である。馬上に敵の大将を迫ひつめ、正に弓に矢をつがへて構へながらも、「衣の袖はほころびに
けり」といふ敗将の歌をきいて、哀れにも心悲しくなり、そのまま逃してやる心情こそ、日本人の武士道にお
ける「意気」なのである。
かうした日本人の心意気が、すべての日本的な勝負事に現はれてゐる。古来、剣術等の勝負に於て、名人同
士の立合に引分が多いのは、技倆伯仲する両個の剣士が、互に対手の手練に敬服して剣を引くのと、一つには
また審判の行司や観衆やが、かくも稀有なる双方の名誉に対して、二つながら花を持たせようとし、無惨にそ
の一方を傷つけることを情に於て忍びないとするものがあるからだらう。そしてかかる惻隠の情にこそ、すべ
ての日本的なる美徳 − 名誉心の尊重や、長老への礼譲や、寛容なる精神や、優美で情に厚い特殊な人間的ヒ
ロイズムや − が、胚種してゐることを知らねばならない。
ところで西洋人には、かうした日本人の「心意気」が理解できない。彼等の好戦心や闘技心には、物のあは
れの優雅さもなく、惻隠の義理も人情もなく、徹底的に優勝劣敗の勝負本位であり、僕等日本人の心情から見
て、甚だ残酷にエゲツないもののやうにさへ思はれる。かつてその円戯場に、人と牛とを闘はせたり、奴隷を
獅子に食はせたりした彼等の子孫は、今もアメリカ黒人を拳闘のリングに立たせて、その黒い肌から血がなが
れるのを、無上の快楽として観てゐるのである。さうした彼等の残酷性は、野球にも、テニスにも、フットボ
ールにも、彼等のあらゆる勝負事の精神に現はれてる。さうした彼等のスポーツでは、双方の闘士が疲れきつ
て全く戦志を失つてしまふまで、尚その半死牛生の状態に於てすら、無理にも勝負をつけるやうに強ひられて
る。先年、甲子園に全国中学生の野球大会があつた時、準決勝戦に残つた二つの中学校が、九回戦を終つて延
長戦に入り、遂に二十一回に入つて漸く終つたことがあつた。この時双方の少年選手は全く疲労困憊の極に達
し、最後の回の如きは、投手が辛うじて球を投げ、走者がヨロヨロとして塁を走り、宛然夢遊病者の競技を見
る如くであつたといふ。その時多数の観衆は、見るに忍びずして眼をおほひ、口々に「止めろ! 止めろ!」
と叫んだといふ。
かかる西洋的な競技精神は、僕等の日本人にとつて、全く「残酷」といふ感じを与へる以外、何等興味ある
ものではない。もちろん僕等は、今の日本に於て、野球や庭球の如き競技を、その舶来の故に排斥せよといふ
のではない。だがそれを輸入する以上には、すくなくともそのスポーツの根本精神を、日本人の民族気質に合
ふ如く、充分に日本チハイする必要があると思ふ。しかも現代の日本は、角力や剣術の如き国粋的の競技でさ
へも、逆に次第に西洋チハイし、西洋スポーツの精神に近づいて来てゐるのである。たとへば角力を見よ。昔
の角力は晴天十日間の興行だつた。しかも幕内力士は、その中正味九日間しか角力はなかつた。然るに今は十
二日になり、さらにまた十五日間の半ケ月興行にさへ延長された。その結果として、力士は体力的には疲労し、
精神的には弛媛し、角力の本技とする気合の瞬間的闘技性を失つて、次第に西洋拳闘の如く、体力の持続的な
高率採点を争ふところの、非国技的なものに化さうとしてゐる。
昔の角力が、晴天十日間の興行中、幕内力士を八日もしくは九日間だけ出場させ、特にその土俵回数をすく
なくしたのは、一場所を通じての全勝者を多くし、横網その他の名力士に、土つかずの花を持たせようとする
ところの、日本人特有な心意気から来てゐるのである。今のやうに十五日間もの長い間、連日土俵にのぼせて
角力はせたら、どんな強い横綱や名力士でも一場所を通じて全勝することは至難である。常陸山太刀山時代の
横綱は、毎場所殆んど土つかずに全勝してるが、今日では双葉山の如き不世出の力士でも、五場所続けて全勝
することはできなくなつた。
今日の角力では、一場所を通じての最優勝者が、十四勝一敗といふ如き成績であり、真の全勝者はなくなつて
しまつた。そして黒点のついた横綱といふやうなものは、日本人の伝統的観念からは、真の「横綱」的風格に値
しない。さうした角力興行の精神自体が、既に異人臭く非日本的になつてゐるのである。もちろん興行日数を
長くしたのは、力士でなくして興行者であり、一日でも多く客を入れて、利益の増収を計らうとするところの
慾張り根性の算盤から割出されてる。そしてかかる商業主義の利害の前には、日本人の心意気も角力の本義も、
あへて捨てて顧みないといふところに、今の日本精神の堕落があり、国技の非日本的なユダヤ化が基因してゐる。
さらにまた今の角力では、引分と預りとを廃し、徹底的に勝負をつけることを、土俵の力士に強要してゐる。
これもまた前述の理由によつて、甚だ非日本的なルールであり、精神そのものが本質的に異人化してる。無勝
負の引分を禁ずるのは、表面八百長の弊害を防ぎ、角力道の浄化を計らうとすることにあるのだらうが、実は
この新らしい規則によつて、半ば野球ファンや拳闘ファンに堕してゐるところの、今の大衆観客の機嫌を取り、
以て収入の増益を計らうとする、角力興行者の商業主義政策によつてるのである。実に現代の商業主義は、利
益の為に何事をもあへてする。観客を呼ぶことの利益の故には、角力を野球化することも、拳闘化することも、
敢て彼等の興行者は意に介しないのだ。そしてかかるユダヤ的商業主義から、次第に日本の国技が西洋化し、
精神的に国粋の美風を喪失して行くのだ。引分について言へば、それが時に八百長の弊害を伴ふことは事実で
ある。だがその八百長と雖も、見方によつては、日本国技の美しい心意気であることを知らねばならぬ。昔の
横綱等は、彼等が老いて気力を失ひ、近き引退を前にして、必勝の自信なく土俵に出る時、たいてい皆引分無
勝負で場所を通した。といふわけは、彼等自らあへて仕掛けず、土俵に棒立ちになつて突立つてるので、対手
の力士もその心中を知り、無為に四つに組んだまま、行司の引分を待つてるのである。もちろんこの場合、後
者が無理に仕掛けて行けば、実力によつて対手を倒すことも出来るのである。だが初めから戦意がなく、無抵
抗主義で突つ立つてるのを、強ひて負かすといふのは残酷である。その上対手は近く引退を控へた横綱であり、
その点の名誉を考へてやらねばならない。かうした場合、その八百長角力であることは、観客の大衆にもよく
解つてゐる。だが観客もまた、その場合の 「意味」をよく諒解してゐる。彼等の日本人的な心意気は、八百長
を八百長と知りながらも、好意ある微笑を以てその角力を見過すのである。しかもかうした美しい光景や心意
気やは、次第に今日の角力から消滅され、残忍非道な紅毛的な競技精神が、新らしくこれに代らうとしてゐる
のである。しかも尚その形式の故にのみ、角力を国技と呼べるだらうか。
この同じ現象は、将棋のやうな競技についても見られるのである。幕府時代から、政府によつて厚く保護さ
れた日本の将棋は、角力と同じく、一種の国技とも見るべきものだが、さうした国粋的の遊戯も、今ではその
競技の精神がユダヤ化し、紅毛人臭くなつて来た。といふわけは、最近の棋界が決定した名人位の獲得制度が
証明してゐる。
少し以前まで、将棋の名人位は一人一代制度であつた。然るに今度の新制度では、西洋スポーツの選手権と
同じやうに、名人位の選手権が、二年限度に定められてる。即ち名人となつたものは、二年毎にその選手権の
争奪戦に参加して、他の最優者と技を闘はし、もし不幸にして敗れた場合は、即座に横網の名人位から、ただ
の八段に落ちねばならぬ。
かうした競技規約の精神は、いかにも西洋臭い非人情とエゲツなさを露出してゐる。古来僕等の日本人が、
「名人」とか「横綱」とかいふ語に対する観念は、西洋スポーツの所謂「選手権」などといふものとは、全く
言葉の意味内容がちがふのである。たとへば我々が、宮本武蔵を剣術の名人といふ意味は、彼が単なる武藝の
選手といふ意味ではなく、彼の人格そのものに内在してゐるところの、形而上的なる「聖」や「神」を感じて
ゐるので、そこに不易の恒久的実在性がイデーされてる。したがつてその名将は、当然一生一代であるべきで
あり、西洋の「選手権」の如く二年や三年で盥廻しに変るべき筈のものではない。今日の堕落した角力でさへ
も、尚「横綱」の名称だけは、一人一代制度である。一場所や二場所の勝負で、双葉山が負けたからと言つて、
直ちにその横綱位を剥奪して、三役以下に転落させるといふやうな考へ方は、日本人の心意気にとつて、神権
冒涜的な非道と残酷性を感じさせる。実際また勝負事といふものは、その時の出来不出来によるものだから、
一場所や二場所の成績によつて、真の実力が総算されるべき筈もないのだ。
日本の職業将棋棋士が、かうした新規約を作つたのは、思ふに名人一代制度に関する、事実上の弊害を改正
しようとした為だらう。即ち既に老衰して、往時の実力を失つてしまつた名人が、長く上位に頑張つてゐるこ
とから、名人位が有名無実になると共に、実力ある新進の昇進を妨げることを、合理的に改正しようとしたの
であらう。しかしながら実際上に、さうしたことが杞憂にすぎないのは、角力の横綱の場合を見てもわかる。
一旦横綱になつた力士が、数場所続けて負け越した上、彼自ら、その実力に対する自信を失つた場合、多くの
力士は潔よく自ら引退してゐる。元来日本人は、恥を知つて名誉を重んずる国民である。自分で実力のないこ
とを意識しながら、横綱や名人やの神聖位に女々しく厚顔にへばりついてるやうな人間は、おそらく過去の将
棋界にも角力界にもゐなかつた。現に将棋では、当代の名人関根氏が、その同じ自覚によつて潔よく自退した
のだ。彼の後を継ぐ名人等も、やはり同じやうにするであらう。西洋人の選手植争奪によつて、名人位を盟姻
しに強奪しょうとする如きは、決して日本人的な思想ではない。(ただこの場合、名人引退後の生活を保護す
を魚、特殊な養老制度を作る必要がある。現に角力にはその制度がある。将棋その他の競技に於ても、日本的
なる国粋精神を保つ為にはさうした敬老思想が第一義である。)
かうした賭棋の現制度は、関根名人の提案によつて、日本の棋士聯盟が決定炉たと言はれてゐる0だが本官
の革質は、やはり角カの新興行や新規約と同じく、現代の意風潮たる商業主義が、ジャーナリズムと結合して
作つたのである。即ち人の知る如く、現代の日本に於て、棋士と渚棋を「興行」してゐるものは新聞社であり、
これが讃者の興味をそそる為に、コンクールやトーナメント的の制度を設けて、将棋そのものの競技精神を、
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西洋風の選手権争奪戦にし、西洋スポーツ風に化してしまつたのである。
すべての態の根本となるものは、賓に現代の資本的商業主義に源泉してゐる。角力も将棋も、すぺての物が
これによつて筈悪され、日本的なる国粋精神を蝕ばまれてゐる。今日なほ剣術や柔術や弓術やだけが、この鮎
での蝕著を兎がれてるのは、これ等の競技そのものが未だ大衆的な興行償値を持たない為である。一旦それが
市場的な営利性を示した場合、今日のジャーナリズムや興行者やは、抜目なく好餌に食ひつき、たちまちそれ
を商業主義の犠牲にすることは明らかである。かくて日本的なる武蜃や競技は、次第にその民族的な囲粋構紳
を喪失し、ユダヤ的、紅毛的なスポーツに攣化してしまふ。それは畢なる遊戯やゲームの欧化ではない。日本
精神そのものの憂ふべき失落である。我等の政府官局者は、今の民衆の無邪気な娯楽に関して、不必要に煩濱
な干渉をする代りに、かうした根本の第一義的な事項に関し、より高次な哲学的な立場からして厳重な精神的
検閲を為すべきだらう。