白秋露風時代の詩壇

 日本の新体詩が、藝術品としての鑑賞的価値をもつやうになつたのは、明治中期以後、藤村、晩翠、泣董時代からであらう。それ以前の詩は、落合直文の「孝女白菊の歌」の如く、或は西南日清役における軍歌の如く、藝術品としての鑑賞価値に耐へないほど、幼稚未熟なものであつた。かうした明治初期の詩をよむ毎に、自分は万葉集の長歌を考へ、上古に於ける日本の文化が明治初期のそれに比して、どんなに優れた渾然たるものであつたかを、感慨深く考へずに居られない。同じ五七調や七五調の長詩であつても、両者の藝術的内容は比較にならない。それほど明治といふ時代は、日本文化の混乱した再建設の時代であり、すべてに於いて過渡期の蒙昧時代に属してゐた。
 しかしその明治も、漸く三十五、六年を過ぎた頃から、新しく興つたインテリ層の青年が、彼等自身の文藝情操を薫育して来た。それは主として西洋の模倣であつたが、とにかくにもそれによつて日本の文壇や文学やに、かつてなかつた新鮮な異国趣味を移植した。我が詩壇に於いて、かかる新思潮と新文藝とを、最初に先頭に立つて指導した人々は、雑誌「明星」による与謝野鉄幹等の詩歌人と、雑誌「文学界」による島崎藤村等のグループだつた。この両者の主義や作風やは、その同人の顔ぶれがちがふやうに、部分的には多少特色を異にしたが、本質の点に於いては両者全くその時代的の風貌理念を一にしてゐた。
 即ち両者共に、西欧十九世紀の浪曼派文藝に憧憬して、感情の解放を叫び、天上の理想を求めプラトニックな恋愛至上主義を唱へた。これが日本の詩壇に於いて、所謂「浪漫派時代」と称されるものであつた。(西洋では、当時既に浪漫派の時代は終り、その派の最後の詩人と呼ばれるシヤルル・ボードレエル等の新詩風が、正に次の時代をエポツクしようとする過渡期にあつた。つまり日本の浪漫派は、西洋のそれが日没の日に、一昼夜遅れて開化したのであつた。)
 浪漫派の廃つた時、文壇は自然主義の支配する天下になつた。西洋がさうであつた如く、日本の文壇も同じであつた。しかし日本の詩壇だけは、西洋と少しちがつてゐた。西洋の詩壇は、自然主義の時代に於いて、高踏派の詩が圧倒的に権威を振つた。高踏派の詩は、もちろん自然主義の文学論とは、本質的にそのエスプリを異にする…自然主義の文学論は、初めから美や詩精神を排撃するのであるから、詩壇がこれと提携できないのは勿論である…が、高踏派派の詩論は、或る特殊な部分に於いて、偶然に自然主義と共通する点があつた。
 即ち先づ、その感傷主義を排斥することに於いて、理智の主知的態度を尊重することに於いて冷静不動の客観主義を称へることに於いて、曖昧朦朧の浪漫美を排して、判然明白の数学美を主張すること等に於いて…。そして要するに、反ロマンチシズムといふ点に於いて、自然主義と高踏派とは、全くその文学的主張を一にしてゐたのであつた。郎ち彼等は、浪漫主義をその共同の敵とすることに於いて、文壇的に期を同じくして現はれたのであつた。
 しかるに日本の文壇では、その同じ自然主義の時代に、高踏派の詩が興らないで、却つて象徴派の詩が栄えた。象徴派は、曖昧朦朧の浪漫美を尊び、情緒や気分の主観的発想を重んずる点で本質的に浪漫派とよく類似して居り、言はば一種の近代的浪漫派(新浪漫派)とも言ふべき詩派である。西洋では、それが高踏派への反動として、「浪漫派に帰れ」の標語と共に、新浪漫派文学の先駆となつた運動だつた。しかるに日本の詩壇に於いては、それが自然主義の時代(反浪漫主義の時代)に、文壇の時代的風潮と関係なく、超然として孤立に繁盛したのであつた。
 その理由は、日本の詩壇が文壇から超越し、時代の一般的な文化的風潮とも交渉なく、単独に詩人自身の観念中で、西洋直輸入の自慰的創作を楽しんで居た為でもあり、さらにまた、日本人の伝統的な詩的情操や、日本語そのものの本質やが、高踏派の詩学する如き、主知的でストイックな詩藝術を、到底創作するに耐へない為でもあつたらう。しかし根本の真原因は、次に述べる如く、日本の自然主義そのものが、西洋のそれとは大いに名称の実質を異にしてゐた為であつた。
 日本詩史の所謂「象徴派時代」を代表する二人の詩人は、三木露風と北原白秋である。露風も白秋も、共に蒲原有明の作品や、上田敏の仏蘭西西詳詩の影響を受けてゐるけれども、その詩壇的系統は少しく異つてゐる。北原白秋は、石川啄木等と共に、新詩社末期の社友であつて、鉄幹、晶子等の将に引退しようとする、晩年に生れた末つ子の弟子であつた。その頃既に文壇には、新しい自然主義の文学運動が勃興し、新詩社一派の星菫派文学が、より若い時代の青年等から、過去の華やかな魅力を失ひつつあつた。そこで新詩社の社友中でも、この若い時代に属する青年等は、既に師の鉄幹等と意見を異にし、文学上の趣味教養が合はなくなつてゐた。さうした当然の結果から「明星」の「分離派」とも言ふべき一派が興つた。これが即ち雑誌「スバル」によつた一党であり、そのメムバアの主なるものは、北原白秋、高村光太郎、木下杢太郎、吉井勇、江南文三、堀口大学等であつた。そして森鴎外、上田敏の両博士が、その他に熱心な客員として執筆してゐた。
 さてその頃、日本に興つた新しい文藝思潮といふものは、西洋ルネサンス以来の様々な人本主義を、一時に潮の如く輸入したものであつた。即ち西洋の近代文藝史に於いて、普通に、「異端主義」の名で呼ばれてゐるところの、人本主義的なる一切の近代思潮…悪魔主義や、本能主義や唯美主義や、快楽主義や、享楽主義や、官能主義や、暴露主義や、反道徳主義や…であつた。
 ルネサンスのヒューマニズムに胚芽して西洋十九世紀の世紀末に満開したこれ等の思潮が、日本では大正初期に新しく輸入され、当時のインテリ青年等に新鮮な刺戟を与へた。そしてこれが過去の「浪漫派」に代り、一般に「新思潮」といふ名で呼ばれた。最も奇妙なことは、かうした様々の異端思想が、当時の日本文壇に於いては、一括して「自然主義」の名で呼ばれたことであつた。
 自然主義と本能主義、自然主義と享楽主義、もしくは自然主義と反道徳主義とは、当時の日本文壇ではシノニムだつた。そこで当局者やジャーナリストやは、すべて世の風紀を紊乱したり、道徳倫理に反する如き行為言論を目して、総括的に「自然主義」といふ名前で呼び、頽廃的な危険思潮の代名詞とした。 ところで若い「スバル」の詩人達が、かうした時代思潮を尖端的に代表してゐた。白秋、勇、大学、光太郎等の詩人、何れも皆その新思潮のチヤムピオンであり、声を合せて耽美主義の詩を作り、官能の快楽に惑溺して、異国趣味の美酒に享楽することの粋を歌つた。就中、白秋の処女詩集「邪宗門」は、その処女歌集「桐の花」と共にかうした時代思潮の最も新鮮な感覚を抒情したことで、一躍当代の桂冠詩人となつてしまつた。
 これ等の詩歌集が抒情したものは、芳烈な異国趣味の香気と官能の放縦な解放だつた。それ以前の明治詩人、特に鉄幹、晶子等の明星詩人も、同じく西洋へのエキゾチックな憧憬を詩操したが、その異国趣味の本質してるものは、官能的なものでなくして、むしろ基督教的なプラトニックな詩操であつた。彼等の明治詩人は、むしろ旧時代の封建社会が遺伝してゐた、日本の羅馬教権であつた儒教道徳に反抗するため、西洋の新しい基督教を藉りて、「感情の解放」を叫んだのであつた。
「官能の解放」を称へたのは、西洋では象徴派以来の歴史であるが、日本では蒲原有明に始まり北原白秋によつて満開の美花をひらいた。かくして日本の詩壇は、星菫派の恋愛至上主義から、一転して官能享楽主義の時代になつた。
 一方に三木露風は、新詩社以外の別の系統に属したところの、特殊な地位にあつた詩人であつた。しかし露風もまた、有明の詩や上田敏の訳詩を通じて、仏蘭西象徴詩の影響を多分に受けてゐた。特に彼は、イエーツとルハーレンの影響とを、最も多分に受けたと定評された。
 そこで彼の主宰する詩牡「未来社」には、英仏語学系に属する多くの詩人が、一種の党派的結社の形で集つてゐた。その主なる人々は、西條八十、富田砕花、柳澤健、川路柳虹、日夏秋之介等であつた。彼等の詩風は、白秋等の「スバル」詩派とは、おのづから別個の内容風貌を特色としてゐた。彼等の詩想は、当時の日本文壇に於ける、所謂「新思潮」とは関係なく、むしろ西欧詩壇のサムポリズムや象徴詩を、そのまま直訳した…或は直訳しようと意志した…ものであつた。(それ故に彼等は、今日でも尚その編する詩選集に、「日本象徴詩集」といふ名を題して、当時の「未来派」一派の詩人作品のみを網羅し、白秋等一派の詩風を、象徴詩とは別個の物に区別してゐる。)
 かうした露風等の詩作品は、白秋等の如き耽美的官能主義のものでなくして、寧ろ多分に加特力教的持戒主義の情操を帯びたところの、そして多少観念的な思想内容を持つた詩風であつた。またその詩形も、白秋等のそれに比して佶屈であり、非自由主義的なストイシズムのものであつた。それ故に彼等の詩人は、白秋等との比較に於いて、むしろ当時の日本に於ける、一種の「高踏派」とも言ふべき位置にあつた。(象徴派が、浪漫派の新しい血統であるといふ意味から見て、実際には白秋等の方が、真の「日本象徴派」であつたかも知れない。)
 白秋、露風の対立時代が、ややその両横綱の全盛期を過ぎた頃から、日本の所謂自然主義運動は、漸く初めて本格的のものに移つて来た。既に述べたやうに、享楽主義や本能主義やの、一切の人本主義とヘレニズムを総称して、認識不足にも「自然主義」の名で呼んだ我が文壇は、この頃から漸く眞の自然主義即ち科学的実証論の方法によつて、人生の真実をレアールに描写するといふイズムを自覚して来た。そこで享楽主義や耽美主義やは、もはや自然主義の文壇からオミツトされた。のみならず自然主義は、詩の本質する主観を排し、美やリリシズムの詩的情緒を、文学の邪道として排撃した。
 かくて大正中期以来、詩は文壇から閉め出しを食ひ、その辛うじて命脈をつないでるものも、自然主義的に散文化し、詩美の本質的なものを失つて、甚だしくプロゼツクな文学に堕してしまつた。かうした不遇の時代に際して、詩の最後の戦ひを挑み、新しい自由詩の創造に努めた詩人は、室生犀星、山村暮鳥、福士幸次郎、加藤介春、人見東明等の人々だつた。別に石川啄木、若山牧水等の歌人は、自然主義文学の影響の下に、過去の星菫派的感傷主義や耽美主義的ロマンチシズムを一蹴して、現実の人生に立脚することから、別の新しい詩美とリリツクとを創造した。しかし彼等の事業と詩風については、他に稿を新たにして書く機会があると思ふ。