日本の政党
近衛首相の二大声明は、近頃の人心に清涼剤的の効果を与へた。その一つは、従来の内政に於ける秘密主義を一掃することであり、その一つは、既成政党を一切清算することであつた。今日の人心をして、かくも陰鬱不安にしてゐる真の原因が、実に政府の秘密主義に存してゐたことを考へれば、近衛首相の声明が、今にして既に遅きにすぎたと思はれるほど、第一条は当然でもあり爽快でもある。だが第二条については、政治の門外漢である僕等にとつて、いろいろ考へさせられるところがあつた。近衛首相はその理由として、政党の二大罪悪を指摘して居る。第一は、過去の政党が採つた自由主義や、民主主義や、社会主義やの思想は、その人生観に於ても、世界観に於ても、日本の国是國體と容れないものであること。第二は、過去の政党の為したことは、すべて利己的な党派争闘のみであつて、一も国家民衆の為に誠意を表さなかつたことを指弾してゐる。
近衛公の説明を待つ迄もなく、日本の政党といふのが、明治以来、不健全な奇形的発育をなしたものであることは、天下万人の知悉するところである。そしてこの理由は…政党者流に言はせれば…日本に真の議会政治がなく、事実上の官僚独裁政治が継続したためだと言ふ。だがもつと根本的には、日本に真の英国流の議会政治が、果して過去に必要であつたか何うかが問題になる。文化の程度を異にする国の政体が、より低い程度の国に移植される時、概ねそれは歪められた奇形的の物に化する、といふスペンサアの真理は、明治以来の日本に於て、その西洋模倣の国会や代議士制によく現はれてゐる如く思はれる。
時局のはじまるつい最近まで、一般日本の大衆は、正直に言つて、殆んど政治に風馬牛であつた。代議士の選挙は、一体、何の為に行はれるのか、国会は何を会議する所なのか、浪花節愛好者たる大多数の民衆は、殆んどそんな政治常識さへも知らなかつた。しかもその民衆が、事実上に代議士を選挙して居たのである。これで健全な立憲政治が日本に行はるべき筈がない。況んや彼等によつて選挙された代議士等が、現実の日本に於て、英国流の議会政治を夢想して居たことに至つては、全く痴人の観念錯誤にすぎなかつた。多年の辛烈たる民族争闘と、流血的なる階級争闘とを繰返して、市民権の獲得に生死を賭して戦つたノルマン人やサクソン人やが、真に必要に迫られて作つた議会政治や国会政治を、何等過去にその争闘もなく、争闘の必要もなかつた日本人が、単なる西洋模倣の文明意識で、ママゴト的に観念化した日本の政党形式が、一種の喜劇的存在に終始したのは当然だつた。
日本の政党史は、板垣退助の自由民権党に始まつてゐる。人も知る通り、これはルツソオの民約論を直訳して、人権の自由と平等を唱へたものだが、その立党の動機は、当時中央政府に志を得なかつた不平の士が、言論によつて与党を作り自ら政権を乗つ取らうとしたのであつて、西南役に敗れた西郷隆盛等の一派と、精神に於て共通するものであつた。つまり板垣等は、武力抗争によつて失敗した西郷の革命を、言論によつて勝ち取らうとしたのであつた。彼等の唱へたところの思想は当時に於ける西洋の尖端的進歩思想で、極めてバタ臭いハイカラなものであつたが、その与党の同志たちは、西郷の配下と同じく明治の新政府に敵意と反感を持つてゐるところの、多くの失業武士の士族等であり、心ひそかに封建の昔を慕つてゐる人々だつた。そして彼等の政党が頼む地盤は、主として関東、東北地方の農民大衆であり、明治政府の欧化主義に対して、生理的に嫌悪と反感を抱いてゐるところの、最も頑迷固陋なる封建思想の所有者だつた。鉄道敷設に反対したり、義務教育制を忌避したり、徴兵令を恐れて血税騒動を起したりするほど、無智頑迷なる地方の農民大衆が、当時の尖端的進歩思想たる自由党の支持者であつたことは、まことに奇妙な矛盾現象と言はねばならない。おそらく此等の大衆にとつて、ルツソオの思想は不可解以上のものであつたらう。実際に彼等の農民大衆は、「自由」も「民権」も要求しては居なかつたのだ。ただ明治新政府への反感といふその一事だけで、二つの全く異質的なものが結合した。といふよりも自由党が、大衆の不平を利用することによつて、自家の政党地盤を獲得したのだ。当時、板垣等の人々はかう言つた。我等の正義は、大衆に自由と民権を教へることによつて、彼等を不幸な奴隷的地位から解放すると。しかし実際に、彼等政党人等が意志したことは、徳川初期の失業武士たる、丸橋忠彌や由井正雪等の浪人一味と同じく、「天下乗つ取り」といふ壮士の豪夢に外ならなかつた。民衆の幸福や運命について、真に真面目に考へたやうな義人は、おそらく彼等の党人中には居なかつたらう。民衆は彼等にとつて、政争の利用道具にしかすぎなかつた。なぜなら自由党の成立そのものも、初めから野心家の政策であつたのだから。
かうした歴史によつて出発した日本の政党史が、自由党以来一貫して、野心家の「天下乗つ取り」意識に終始し、エゴイスチックな党派的争闘のみを事として、少しもさらに天下公衆の大義を顧みなかつたのは当然である。その積悪の報いとして、今や彼等は民衆に見捨てられ、近衛公によつて自決の切腹を命ぜられた。しかし彼等政党人が、民衆に与へた唯一つの教訓は、我等の日本人を、その長い間の伝統であつた封建的卑屈な事大主義から、多少でも解放してくれたことであつた。だがその反抗そのものが、また一つの裏返しにした事大主義で、官僚的封建精神の止揚であつた。自由民権党の政争史を読んだ人は、いかに彼等の歴史が悲惨に血塗れであり、暴力に対する暴力の抗争史であつたかを知るであらう。明治政府を正面の敵とした彼等は、当然また政府から仇敵として断罪された。当時大久保等の政府人が、自由党の壮士に対する態度は、あたかも帝政時代の露西亜政府が、虚無党員や社会主義者に対するやうなものであり、最も苛酷な弾圧を極めた。一方また壮士たちは、常に爆弾と拳銃を懐中にして、政府の弾圧に対抗し、殺伐極まる暗殺やテロ行為を常習事とした。
かうした政闘史に彩られた明治時代は、当時の浮世絵画家芳年等の血絵の如く、それ自ら真に血なまぐさいものであつた。明治初年の風俗画を見た人は、男も女も、当時の画かれてゐるすべての人物が、何れも狐つきのやうに眼を釣りあげ、囚人のやうに憔悴して、半ば殆んど精神病者の如く、凄惨極まる容貌をしてゐることを知るであらう。まことに過渡期の明治は、さうした狂気的病理学の時代であり、仏蘭西革命後の恐怖時代と、或る点で共通してゐる時代であつた。日本の政党史は、かうした時代の空気の中に、その陰惨な産声をあげて誕生した。宿命的なるその赤児は、誕生の日から死亡の日まで、ひとへに人に噛みつき、人に抗争することの叛逆精神でのみ終始した。
自由党以来、進歩党を初めとして、憲政会、政友会等の所謂野党が、近衛公の言ふ如く、自由主義や民主主義のイデオロギイを旗印としたのは、実にそれによつて、政府の独裁的官僚主義に抗争しようとした為だつた。つまり言へば彼等は、さうした打倒政府の旗印を看板にして、由井正雪的の野心を遂げ、自家の政権を取ることを目的とした。実を言へば、彼等は自由主義者でもなく民主主義者でもなく、単なる政党的野心家にすぎなかつた。そのことの証拠は、彼等が政権を握つたその日から、民衆の自由や福祉などを、全く考へなくなることによつて明白である。
過去に日本の民衆は、実にかうした連中によつて玩弄され、かうした政党人によつてアヂられて来た。そのため社会の表面上には、一時デモクラシイや共産主義やが、時代思潮の浪に乗つて一部のインテリ青年の間に氾濫した。だが最近になつて、漸く真の政治意識に目ざめた民衆は、過去七十年間に亙る、日本の無意味な政党史を回顧して、うたた厭然たる思ひをして居るのである。昔、自由党の党人等は、伊藤博文を罵つて「時代遅れの旧弊政治家」と言つたが、博文はこれに応へて敵者を評し、「最も新しい旗印を掲げたところの、最も古い封建的反動家」と言つた。過去の日本で、民主主義や進歩主義を唱へた政党者流も、概ね皆その類ひの擬似反動者であつたやうだ。むしろ我等は、彼等を指弾するところの近衛公等に、新しい時代を期待するものである。